「120年……長かったわ……」
 政治工作でバーハラを訪れていたマンフロイは、運命の波動の正体を感知した。ロプトウスが復活するとなれば、ロプト教会が瀕している危機も一気に覆せる。皇太子に神が宿るのであれば、それを崇める教団が滅ぼされる理由がなくなる。
 シレジアで重傷を負い、娘婿の独断専行を許し、挙げ句の果てに神器である黒い聖書ロプトウスを持ち去られ、片棒を担いだアイーダによって滅ぼされる寸前まで来ていたロプト教会。皇帝即位後はマンフロイにとっていいところがほとんどなかった。しかし、ここについて光を見たのである。

 運命の神は、とかく悪戯好きである。
 たとえば、狂喜乱舞で自室に戻ろうとしたユリウスが、半ば我を忘れていたせいで曲がるべき角を曲がり損ねて、Uターンするのも何だからとそのまま回廊を一周してぶらぶらと中庭に戻って来たとか。
 もしも、道を間違えたり素直に部屋に戻っていれば。あるいは行き先を別のところを選んでおけば。つまり、このタイミングで中庭に来ていなければ、全ては始まらなかったのかもしれない。もちろん、直接の原因がレィムの凶行であり、ディアドラがそれを受け入れなければよかったのだが、今後の歴史の主導権をユリウスが握ったことを考えれば、目撃したことが重大である。
「母、上……!?」
 自分の母親が、何者かの斬撃を受けた瞬間。
 まだ7歳の子供であるユリウスには刺激が強すぎた。
「ぐっ……ぁああああ!」
 母の苦痛の悲鳴。
 たとえ聖剣ティルフィングでも、使い倒してボロボロとなって壊れては切れ味などまともにない。ましてや膂力には縁がないレィムが振り下ろした斬撃であるから、致命傷には程遠かった。シグルドに求められたことに感動して死を受け入れたものの、痛みで現実に戻されたディアドラの悲鳴は嘆きも含んでいっそう響いた。
「母上ーっ!」
 死の概念が薄い子供には、痛みの方が分かりやすく伝わる。悲鳴も実に明瞭な信号である。
「いけない……来ない、で、ユリウス……!」
 痛みで正気を取り戻したディアドラは、死の淵と違う理由で状況に恐怖した。
 ユリウスには、刺客に近づくな、という意味に聞こえたが、ディアドラの言は正反対である。ディアドラは、こういったショッキングな光景がロプトウスを呼び起こしかねないと知っていたからである。
「皇妃様!」
 新たに駆けつけた騎士が、ディアドラとレィムの間に割って入る。
 レィムは、その騎士に感付いた様子もなく、ディアドラの血をティルフィングに吸わせる取引で浮かび得たアイデアを書き留めようと、紙と筆を探して懐をまさぐる。
 閃いた騎士の斬撃を右袈裟に受け、大量の血を吹き出すレィム。しかし、既に狂気に触れて戻って来れなくなっていたのか、ディアドラを斬ることで本当に神の領域に達したのか、痛みに顔が歪む事はなかった。むしろ、血飛沫を見てこれ幸いと傷口に筆をつけ、血をインク代わりにして取り出した黒い聖書に記し始めた。さらに駆けつけてきた騎士に胴と胸を切り裂かれても奇声を発し続けて筆を走らせ、ついには首を切り飛ばされるがそれでも右手は動き続けていた。人智を超えた領域に踏み込んだ達成感と学者としての使命が、執筆作業に時と場所と生命を選ばなかったのだ。
「あ、あぁ……!」
 闇に見入られた者に接触すれば自身も闇に引きずり込まれる。首を落とされてもなお両腕が切断されるまで執筆作業が止まらないレィムの姿は、ユリウスに強烈すぎる印象を与えた。この光景は、頭から終生消えないほどの。
 極限状態の光景。自己を見失いかける狂気。そして、黒い聖書――
「……過去に縛られた神は……まだ見ぬ未来をも従える支配者でなければ……絶望は希望を生ませる……ロプトウスで、は……」
 ペンと紙と、そして胴体をも失ったレィムが、自分の代わりに誰か書き留めてくれとばかりに最後の言葉を漏らす。気味悪さをさらに拡大しただけで、周囲の騎士はその言葉に価値を見出そうとせず、彼の遺言ともいうべき、完全な世界の最後の一片は遺されることはなかった。
「ロ・プ・ト・ウ・ス……」
 代わりに、ロプトウスの単語がユリウスの胸の奥深くに響いた。
 言葉には、魔力が宿る。
 神器があり、復活を抑えるべき理性は狂気によって緩んでいる危険な状況で、その直接的な単語は秤を大きく傾かせることになった。
「だめ、止めないと……」
 最初に動いたのは、ユリウスの異変に気を払っていたディアドラだった。
 自分の心を抑えきれずにアルヴィスと結婚し、ロプトウスを宿らせたユリウスを産み落としたのは他ならぬディアドラ自身である。復活を目の当たりにすれば断固として阻止に向かうのは自然の動きだった。
「オーラ!」
 ユリウスとしての魂魄と、暗黒神ロプトウスとしての魂魄。互いの"色"が入れ代わろうとしているならば、封じる力はそれを操るオーラの力しかない。騎士たちの視線がレィムに集まる中、ユリウスと対峙した。
「母上……!?」
 ところが、これが逆効果であった。
 ユリウスの理性の部分が、母親に攻撃されるという事態によって動揺し、かろうじてロプトウスを抑えていた支えに亀裂が生じたのだ。

「晩餐会は通常通り執り行う」
 皇帝の指示は対外的なものを重視した。グランベル帝国は弱みを見せてはならない、と判断したのである。
 皇妃ディアドラの死と、皇太子ユリウスの異変。ユリウスを除く中庭にいた全員が命を落としていたので詳しい事情は不明だが、とにかく帝国未曽有の大事件が発生した。
 しかしこれを事実通りに発表するわけにいかない。ディアドラを葬ったのが侵入者だとするならば、警備態勢に問題があったというわけであり、賊一匹の手が帝国中枢に届くとなれば帝国の権威が失墜する。ましてや、北トラキアでブルーム王の暗殺未遂事件が起こって日が浅い。立て続けとなれば民衆の不安も大きくなるだろうし、帝国にとってマイナスが大きすぎる。
 ユリウスただ一人が生き残って、ただならぬ様子。そしてディアドラ以下数十名が死んでいた。普通に考えれば、ユリウスが大きく関わっていると見て取れる。しかし、事実であったとしても"母殺し"を発表するわけにもいかない。
 事こうなれば、証人が誰もいないのが幸いである。ディアドラの死因について誰も語れないのであれば、どうとでも取り扱うことができる。どちらにしても晩餐会当日に発表できるものではないので、数日間は伏せられることになった。中庭の惨状はマンフロイが片付けを引き受け、レィムが流した血のあとには砂が撒かれ、表面上は昨日までの中庭の姿を取り戻した。
「我らが覡にして皇帝陛下、巫女の死にも動揺せず堂々とした立ち振る舞い。拙僧も感服仕りました。惨状の回復はお任せあれ……」
 マンフロイの不自然に遜った言上は余裕の現れであろう。ロプトウスが復活し、ロプト教会には恐れるものは何もないという意味合いも含ませていたのかもしれない。
 それを背中で聞き続けたアルヴィスは気付いた様子を見せなかったが、感知しただろう。マンフロイもアルヴィスの優秀さだけは全幅の信頼をおいている。いかに皇帝であっても、ファラフレイムを扱えても、ロプトウスを封じることは不可能と承知しているだろうということも含めて。
 マンフロイの気配が消えると、背中を向けたままのアルヴィスの視線が上を向いた。
「ふ……有意義な休暇だった」
 事態は最悪の展開を迎えたが、アルヴィスはやるべきことをやった。"炎の紋章"の逸話は、いつかユリウスの内に届き、ロプトウスを打ち払う力となるだろう。払った代償は大きかったが、アルヴィスにとって意味のある休暇だった。後悔しては帝王になれない。
 そして晩餐会は、帝国の威信を賭けて執り行われた。
 皇帝が「通常通り」と言っているのだから、いかなる事情を抱えていたとしても通常通りでなければならない。晩餐会を無事に執り行わなければ皇帝の意に反することになる。
 事情を知る者はごく少数だが、帝国中枢の意気込みは周囲によく伝わった。
 貴賓客には賊の侵入以上の情報は伝わっていないはずである。危険だからと貴賓室から外には出させないようにしたので、中庭の状態を知っている者はいない。しかし、小ネズミが侵入した割には騒ぎが大きかったのではないかという訝しみは防ぎようもなく、それを払拭できるほどの成功を収めない限りは"通常通り"にはならない。
 ディアドラの死は当座は伏せられ、今夜に関しては単純に欠席と発表された。皇帝主催であるから、筋として皇妃も出席すべきなのであるが、姿を見せれば見せたで心配の種が別に増えるので欠席を喜ぶ要素もあった。
 晩餐会となればその後の踊りは避けて通れないが、ディアドラには舞踊の素質が皆無だったのである。皇妃として、社交界の女性として舞踊は必要不可欠な礼法のひとつであり、アルヴィスも念入りに教え込んだのであるが、どういうわけか全く身につかなかった。シグルドのところにいた頃は教えを施されていなかったのか、あるいは早々に匙を投げられたのか。どちらにしても、ディアドラの舞踊は見るべきものではなく、失笑されるぐらいなら姿を見せない方がまだまし、ということで以前から踊りを披露することはなかった。
 ただ、皇妃が踊らないから皇帝も踊らない、というわけにはいかない。アルヴィスの腕前は特別に上手いわけではないが、皇帝としての威厳が踊りに好印象のフィルターをかけていた。問題ないレベルの技術があってしかも主催者なのだから、アルヴィスは踊らなければならない。しかし皇帝の相手を務める女性を選出するとなると難しい問題である。腕前はともかく、格の面で皇妃の欠席は痛いところであった。
 その穴を埋めたのはフリージのヒルダであった。大陸随一の舞踊の名手であり、ヴェルトマー一門の出自なので皇帝の相手として不足はなかった。皇妃の代理として見られるのを嫌ってか踊りの切れ味は抑え気味だったが、責務を立派に果たして帝国の威信を守った。大仕事の前にディアドラの死を知らされなかったのは、こと社交界においては通常状態でも皇妃代理が務まると高く評価されてのものだった。アルヴィスが若いときからヒルダを知っていなければ、人選は違うものになっていたかもしれない。
 それから数日経って、皇妃ディアドラの死が発表された。
 死因は"病死"である。
 皇太子ユリウスが関与している、もっと直接的に"母殺し"と発表できるはずもなく、皇帝は皇妃の死について工夫しなければならなかった。ロプトウスに関してはロプト教徒を除いては皇帝しか事情を知らないことなので発表のしようもなかった。
 国民を騙すにあたってせめてもの幸いは、ディアドラが身体が弱かった点である。ユリウスとユリアを産んで以来は体調を崩しがちだということは民衆にも知れ渡っていたことなので、病死でも特に不自然さはない。
 代わりに民は泣いた。皇妃という立場と、年齢の若さと、母シギュンの物語がディアドラと重なって悲劇が増幅されたのである。
 ……そしてディアドラはもちろん、皇太子ユリウスと皇女ユリアも表に姿を見せなくなった。当面は服喪という理由で押し通されることになり、やがては長すぎる悲しみに首を捻られることになるだろうが、事実を発表されることはなかった。

 晩餐会夜。バーハラ城某所――。
 シレジア王レヴィンは、風に誘われるままに城内を放浪していた。
 毎年同じように請われて笛を披露した以外は晩餐会も無気力に過ごし、早々に退席していた。晩餐会のかすかだか妙に張りつめた空気は感知したものの、それについて視線鋭くするのも億劫だったので考えずに流していた。
 歩いている途中で、オイフェに会った。
 お尋ね者がバーハラにいるのは不自然だったが、シグルドの遺志を継いでセリスを担ぎ出すための活動だろうとはすぐに分かった。
 いくつかの挨拶とやりとりをしてすぐに分かれた。オイフェは目立ってはいけない存在なので気遣って長話を避けた意味合いもあるが、今のレヴィンにはオイフェのやっていることに同調できなかったのである。
 シレジア王子として奔走したが、(半分残ったが)国の崩壊を阻止することはできなかった。百年の永世中立を破り、グランベルと関わったことによってシレジアは道を誤ったのである。努力も実らず、その無常さを儚んだレヴィンは無気力になっていた。いかなる情熱も実を結びはしないと落胆しきっているのである。
 そのレヴィンにとって、セリスが皇帝を倒すことは夢物語に過ぎない。オイフェの活動を止めるつもりはないが、シレジア人として見るならばセリスとアルヴィスの争いはグランベル人同士のものである。グランベルの命運を左右できないことが骨身に沁みたレヴィンでは関わる気になれなかったのである。
「ん……?」
 だが、運命には、運命を避けようとして遭遇することがしばしばある。
 自身が路傍の石のように過ごすレヴィンが、路地に転がっているものに気を留めたりは本来はしないのだが、そこにあったものはあまりにも異質すぎた。幼子が捨てられている光景に遭遇したことは今まで何度かあったが、今回は捨てられているとは明らかに雰囲気が違っていた。
「こ、こいつは……!」
 ロプトウスが復活して、封じるのに失敗したディアドラが、ユリウスの側にいたユリアを転移させて逃がしたのであるが、そんな事情まではさすがに分からない。
 しかしレヴィンにとっては、忘れることのない、精霊の森の巫女。その面影。気を失っているのか寝息を立てている女の子がユリア皇女であることはすぐに分かった。
 見つけたのは偶然であるのかあるいは運命なのか。今まで泳いでいたレヴィンの瞳に覇気の光が閃く。
「……」
 シレジアがグランベルによって運命を振り回されたのは、国の運命的な性質であろう。
 シグルドの叛乱が大陸全土に影響を及ぼしたように、グランベルには大陸の運命を左右する資格がある。シレジアから見れば、左右できる国と関わったために左右される運命を背負ってしまったのだろう。
 オイフェとの再会も心を動かさなかったのは、旗頭がセリスである以上は運命の舵を握っているのはやはりグランベルであり、シレジア王であるレヴィンが手を貸せばまた振り回された挙げ句に何もかも失うことになりかねないからであった。
 だが、今度は事情が違う。
 グランベル皇女である幼いユリアを手に入れたということは、レヴィンは運命の担い手の後見人になったことを表す。シレジアのように、グランベルが運命のルーレットを回転させるユグドラル大陸の外周に立っていれば運命に振り回される。しかし、ユリアを得て、中心軸に近しい存在でいられたなら、大陸に旋風を巻き起こすことも可能になる。
 シレジアはシレジア王国として運命の舞台に上がったので運命に翻弄されることになった。シレジアを捨て、ユリアの後見人としてグランベルの運命を背負えば主役を演じるのも不可能ではない。そのどこかでシレジアが失った領土を奪回できるように運命を操作できるかもしれない。シレジア王(子)ではなく、ユリアを操作する立場であれば――。
 ……その日を境に、レヴィンもまた世界の表舞台から姿を消した。シレジア王という役を降り、ユリアの傀儡師として舞台に上がるために。

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