この日、帝都バーハラの中枢は特別な日を迎えていた。
 外向きには、各国の貴人を招いての晩餐会。
 その一方で、皇帝が(半日だけだが)初めて休暇を取るという大事な日であった。

 とはいえ、何か大掛かりなことをするわけではない。仕事を休むのに周囲にいらぬ手間をかけさせるのを嫌ったアルヴィスは、王宮の中庭でのんびりと過ごすと決めたのであった。
 困ったのは臣下たちであった。皇帝は配慮したつもりであろうが、こういったことをされると逆に気を払うのが忠誠心というものである。仕事を忘れてリフレッシュしてもらいたいところであるが、皇帝は有事に備えて遠出をしないことを選んだのである。
 中庭は完全に封鎖し、警備の兵も見つからないように配置するのは当然だとして、周囲は皇帝との距離感をつかみかねていた。近すぎれば皇帝がリラックスできないだろうし、遠すぎれば何かあったときに取り返しがつかないことになる。無理を言って休暇を取らせた手前、多少の出来事では潰すことはできないが、皇帝が王宮内に留まることを選んだのは「何かあったら気にせずすぐに呼べ」という意図が明白である。そう構えられると周囲は非常に困るのだが、皇帝はそれに気づかなかった。
「王宮に賊が侵入した模様!」
 凶事が訪れるのは決まって都合が悪いときである。
 不法侵入者がいた場合、その場所の最高責任者に報告しなければならないのはどこの国も同じである。とはいえ、その決まりごとに皇帝の休暇を取り消させるだけの価値があるだろうか? 現場サイドで対処ができるのならば報告を後回しにしてもいいのではないか? 皇帝の休暇は午前中のみの半日、たいして遅くはならない。
「陛下、おくつろぎのところの御無礼、お許しください」
 この天秤を最終的に傾かせたのは、今夜が晩餐会で王宮に多くの貴人を抱え込んでいるからであった。彼らに被害が出れば管理責任が問われるだろうし、何より帝国の沽券に関わる。皇帝の休暇を中止させるのは心苦しい限りであったが、正常な判断を下すならばこの選択しかなかったであろう。
 皇帝は不快な表情を浮かべなかった。処置を臣下に任せて自分は休暇を続行しても誤りではなかったが、臣下が報告に踏み切らせたのと同じ理由で陣頭指揮を執ることを選んだ。どんな些細なものであれ、貴賓室で夜を待っている招待客に被害を出させて皇帝主催の晩餐会に傷がつけば皇帝に傷がつくのも同じである。アルヴィスの陣頭指揮によって兵の動きはいっそう鋭くなった。

 一方そのころ、皇太子ユリウスは皇女ユリアを連れて、目を輝かせながら廊下を駆けていた。
 自分とユリアを同時に制御しなければならないユリウスは、もともと家族が揃うことに気が進まなかった。偉大なる皇帝である父アルヴィスにはその眼力で、皇妃であり母であるディアドラには"色"を見分ける神泉の瞳によって、自分とユリアの秘密を見破られるのではないかと恐怖していたからである。
 できうることならば断りたかったが、初めて休暇を取って家族と過ごそうとする父親を突っぱねるだけの反対理由は思いつかなかった。仮病という手も思いついたが、普段から病気の母ディアドラが出席する以上は些細な症状を訴え出ても意味がない。
 結局、できるだけ悟られないようにと動きを最小限にして半日間をやり過ごそうと目論んでいたがそうは行かなかった。
 ……父親から大事な話をされた。
 ヴェルトマー家が掲げる"炎の紋章"の意味。それを彫った腕輪をつけさせられている理由。皇太子として次代を担う使命と、持たねばならない心の強さ――
 話が終わった直後、父アルヴィスは近臣に呼ばれて政務に戻った。
 それに合わせるように、ユリウスはユリアの手を引いて自室へと戻ることにした。自分だけではなくユリアも同じように高揚しているのを抑えられないことを母ディアドラに気付かせたくなかったのと、人目につかない自室に戻って誰にも気兼ねせずに感動したいという欲求がそうさせたのであった。ユリアを平静にさせたままでは今の自分を表現できないからである。

 結果、中庭に残ったのはディアドラ一人となった。
 アルヴィスは政務に戻り、子供たちは狂喜乱舞しながら出て行った。昼にはまだ時間があるが、どうやら一家団欒はここまでのようだ。ディアドラにはもう拘束される必要はなかったが、ユリウスとは違う理由で一人になりたかった。侵入者に対し避難されるようにという騎士の求めも断った。
 夫であるアルヴィスが、息子ユリウスに聞かせた話――
 家族の手前、特に純粋に目を輝かせて聞いているユリウスとユリアの手前、自分が涙を流すことはできずに我慢してきた。とはいえ、子供たちのように感動してのものではなく、もっと後ろ向きの理由である。
 アルヴィスは、ユリウスが暗黒神ロプトウスの化身だと承知しており、精神を乗っ取られないように戒めの意味であの話をしたのだろう。
 しかしアルヴィスとディアドラの間にさえ生まれなければ、そんな心配は杞憂である。禁忌を破って愛し合ってしまった過去と現在をいつまでも引きずっているディアドラには、未来のみを見据えている夫と子供たちと比べて自分の弱さに耐えられなかったのだ。
 巫女であるディアドラは、人が持つオーラ、魂魄の"色"が見える。初めて会ったときから純粋な炎が揺れているアルヴィスにはあの話をする資格がある。しかしユリウスとユリアは二人とも同じ"色"だった。双子であれば色が似てもおかしくないが、完全に同じというのはありえない話である。まるで、後から誰か座るための空席を確保しているかのように−−ディアドラは、開いてしまった運命を阻止できないと見えてしまっていたのだ。

 どうしようもない運命。
 運命を変える意志を持てない自分。
 どこか遠いところに、逃げたくなる欲求。
 逃げることもできない自分。
 誰かに、遠くへと連れ去ってほしい――でも、"あの人"は、もういない。

「賊だーッ!」
 遠くに聞こえる声。
 運命を強制的に変えてくれる、外部の力。
 もういるはずがない、心ならずも自分が葬ってしまった、ディアドラにとって運命の人。
 ……いくつもの剣戟の後、その欠片が、目の前に現れた。

「皇妃様ーっ! 近寄ってはなりませぬーっ!」
 数名の騎士が割って入り、その賊に打ちかかる。しかしどう見ても剣術に向いてそうではない教徒が手にした剣によって打ち払われ、逆に魔法らしきものを叩き込まれて身体が崩れる。次いで残りの騎士が一斉に殺到するが、賊の右腕が翻り、すべて弾き返した。ディアドラには、剣が右腕を引き連れて自主的に動いたように見えた。現に賊は騎士を見ておらず、途中で剣に引きずられてよろめく光景も見せた。
「……フフフフ、アハハハッハ!」
 賊が狂気にふれているのは明白であった。
 白昼堂々と侵入して来た時点で正気ではないとも言えるが、彼の様子は尋常ではなかった。剣に防御を委ねて振り回されながら高揚と喜悦の表情を浮かべ、それでいて魔法を詠唱する知能を残している。
 邪教の霊媒師が死者の魂を降ろしたような、鋭く虚ろで、変に熱い挙動。帝国中枢を守る近衛騎士たちが、なすすべなく命を落としていく。
 ついに最後の騎士が崩れ落ちた。すぐに応援が駆けつけるであろうが、皇妃ディアドラを守る盾はなくなった。
「……」
 賊は、静かに剣先をディアドラに向けた。"色"で判断する必要もなく、殺意が漂う。
 しかしディアドラは恐怖の表情を浮かべなかった。賊の格好からロプト教徒だと判断できたのを差し引いてもなお不自然だった。驚きと悲しみと、困惑と懇願が入り混じった、複雑ではあるがおよそ生命の危機に瀕していないものだった。向けられた剣に対する反応が、死とは違うものだったからだ。
「その剣は、あの人の……」
 聖剣ティルフィングを見た記憶は、あのときの一瞬だけ。しかしディアドラには、ボロボロになった剣が自分の運命の人の持ち物であると瞬時に見抜いた。
 シグルドからディアドラを連れ去ったのがロプト教徒。そしてシグルドの形見を携えて侵入してきたのもロプト教徒。運命的な繋がりを感じずにいられなかった。
「……この剣には、シグルド公子の魂が降りています」
 ロプト教徒の賊はそう答えた。シグルドの名が、ディアドラの胸を強く打った。
「……私は、シグルド公子が目指した完全な世界を再現するため、公子の魂をティルフィングに降ろしました。しかし、完全な世界の完成には、あと一歩及んでいません。公子には足りないもの、必要としていたものがあったのです」
 先程までの発狂ぶりが嘘のように、その男は冷静に話す。
 戦闘状態が解除されて落ち着きを取り戻したのか、剣が彼を制御しているのか、あるいはディアドラの声が正気を取り戻させたのか。理由は分からないが、この転換ぶりは通常のものではない。
「それが、わたし……?」
 男の言葉に、ディアドラの両目から、大粒の涙が零れた。死に瀕して恐怖した者が流すものではない、もっとあたたかな涙。
「……貴女をこの剣で斬ることで、シグルド公子は完全な存在となり、完全な世界が啓けるのです」
 切っ先を向けていた賊が、大きく振りかぶった。騎士を打ち倒したのは彼の暗黒魔法によるものだったが、彼の言を達成するためにはティルフィングがディアドラの血を吸わないといけないらしい。
「あの人が、わたしを……」
 どこかに連れ去ってほしいと願い、運命を変えてほしいと願った。
 シグルドは、ディアドラにとって紛れもなく「運命の人」である。
 自分をどう思っていてくれたか、"色"は最後まで見えなかった。
 およそ愛情とは無関係な人物であるから答は否の可能性が高いが、そうではない可能性もある。ディアドラはそこに希望を見出しており、裏を返せばシグルドへの愛情であった。
 剣は、本質的に相手を斬るなり突くなり、殺すことが本性である。
 ティルフィングに宿ったシグルドの魂が、その身でディアドラを殺めようとしている。言い換えれば、シグルドは本心からディアドラを欲したことになる。
 
 ディアドラは、抵抗のそぶりを見せなかった。
 溢れ出て止まらない涙で何も見えなくなる中、ディアドラは迎え入れて抱きとめるように、両腕を大きく開いてその時を待った。
 なんてことはない。ディアドラは、シグルドに求められたことが単純に嬉しかったのだ。

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