グランベル帝国、シアルフィ地方――
 ここは、もともとは"シアルフィ公家領"であった。グランベルに反旗を翻したバイロンとシグルドが治めていた土地であったため、帝政移行の際に公家取り潰しとなり、領地は皇帝直轄領に変わっていた。
 バイロンは政権欲のために王太子クルトを暗殺し、シグルドはグランベルそのものの崩壊させようと弓を引き、ランゴバルト・レプトール両公爵をはじめ多くの人命を奪った。
 領地の当主が二代続けて大逆罪とあっては、グランベルの歴史から考えれば、ここに住む人々は様々な差別を受けてもおかしくはなかった。しかし、彼らはいたって平穏に暮らしていた……それどころか、シグルド崇拝は膨らむ一方であった。
 シグルドは転戦中の地方の者を重用し、譜代の家臣を蔑ろにしていたと言われているが、最後までシグルドの側で戦い続けた騎士たちは全てシアルフィ出身者である。ヴェルダン戦役のときから激戦を生き抜いてきた歴戦の強者たちは、バーハラでの最後の突撃の姿もあってか騎士の鑑とされていた。シグルド直属の近衛親衛騎士"ロードナイト"は、伝説となった今ではシアルフィの男の子の永遠の夢と言えよう。
 皇帝アルヴィスにとって、そんな風潮がおもしろいはずがない。シグルドの軍事センスのみが神格化され、軍神は崇めても現体制である皇帝の打倒にはまるで興味がないのはアルヴィスにとってせめてもの救いとは言えるが、放置していいはずはない。
 本当ならば、そんな風潮は徹底的に弾圧して消滅させたいところなのであるが、そう思い通りにいかない理由もあった。
 理由の一つは、単純に弾圧している余裕がなかったからである。大内戦のあと、取り潰しのシアルフィの他には、西隣りのユングヴィは新公爵スコピオが幼児なので成人まで皇帝保護区とされ、東のエッダ家は断絶のためにエッダ教会が領地管理権を委任される格好になっている。北のドズル家はイザークに新領地を与えられて新公爵ダナンが王となったため、留守居の格好である。海峡を挟んだ南のミレトス地区は相変わらず豪商が幅を利かす自由闊達の地域である。
 シアルフィ地方は、帝国にとって地図的にエアポケットになっているのであった。王国時代は六公爵家がそれぞれ手持ちの軍事力をもって自領の治安にあたっていたものだから、大内戦が終わると空白になった地域は手が回らなくなってしまったのだ。 
 シグルドによって大ダメージを受けた軍事面について、皇帝はその手腕で建て直すことができた。しかし、シアルフィ地方の治安に当たる新編成の軍は、皇帝直轄領でありながらやはりシアルフィの者ばかり揃ってしまったのである。これは建て直しが急務であったためというよりも、王国時代からの固定されたシステムの弱点とも言えた。
 軍事力が捌けない地域を弾圧するのは難しい話である。直轄領とは言え、武器を携えてシアルフィの治安を担っているのがシアルフィ人である以上は弾圧を受けることはなかったのである。 
 
 住民のシグルド崇拝は、皇帝に一つの要求をさせた。シアルフィ家家宝、聖剣ティルフィングの返還である。
 シアルフィの住民が、シアルフィの象徴であるティルフィングの返還を求めたのは自然の行為ではあるが、皇帝にしてみれば取り潰したシアルフィ家を半ば容認する格好になる。絶対に呑むわけにはいかなかった。
 この皇帝の態度に対し、エッダ教会の司祭たちが軟化させようと務めた。シアルフィの住民が欲しているのは、軍神と崇めるシグルドの形見あって、シアルフィ公家そのものではない――という指摘である。シアルフィ家家宝を返せとは言っても、シアルフィ公家の取り潰しを撤回しろとは要求していない点である。
 公式ではシアルフィ家は事実上断絶している。皇妃ディアドラがシグルドと結婚していたという事実を帝国が認めていないため、セリスの存在もまた非公式の存在である。しかし、吟遊詩人が歌うシグルドの伝記を聞いた者ならばこの話を知らないはずがない。つまり、シアルフィの住民はセリスの存在を知っているにも関わらず、セリスの帰還を待ち望んでいないのである。
 同じく公爵家の当主でもあるアルヴィスには不可思議で理解できなかったが、エッダ教の神学者に言わせればシグルドの存在が公爵位というレベルを超越して神の域にまで及んでいる証拠であった。
 ユグドラル大陸は多神教の世界であり、人間出身の軍神が一人増えることに抵抗感はない。少なくともシグルドの戦績からすれば神の座を諡るに相応しいものだろう。もちろんこれは神学者や住民の視点であり、皇帝からすれば反逆者を神と認定するのは大きな抵抗感がある。軍神を求めるシアルフィにティルフィングを返せば、シグルドを神と認めたに等しくなるだろう。そう思っていないとしてもそう受け取られるのは目に見えている。
 そして、最終的には皇帝が折れた。
 強硬に拒否した場合に、皇帝はシグルドを恐れている――と受け取られることを避けたのである。言い換えれば、最大の敵であったシグルドを認めることで度量の広さを示すメリットもあった。
 ただし、返還にあたり条件が付与された。シアルフィ城ではなく、同地方内に指定する皇帝保護区にて管理するというものであった。
 アルヴィスにとって、ティルフィングがセリスの手に渡ってしまうのを絶対に避けなければならない。シアルフィの住民は(表向き)セリスを欲してはいないが、ティルフィングを手にしたセリスならばシグルドの後継者として積極的に迎え入れる可能性があ高くなる。同じように、血だけではなく神器を受け継ぐことで支配権を誇示してきたアルヴィスが警戒するのは無理もなかった。
 返せば危険が増すし、返さなければ度量が狭くなる。アルヴィスが出した条件はこれをどちらもクリアしようというものであった。
 バーハラの宝物庫から外に出す以上は、管理態勢が問題になって来る。シアルフィ城の宝物庫に入れても、城を守る兵士がシアルフィ人である以上は皇帝にとって危険すぎる。わざわざ特別区をもうけたのはそのためである。管理区が変われば、警備の兵士をバーハラから派遣することに何の異論もなくなる。
 
 同地方東部、皇帝特別区――
 特別区は、東の海岸沿いにある台地が選ばれた。起伏が激しくてもともと農業には向いていなかったので、ここを取り上げられて困る住民はほとんどいなかった。
 警備に当てられた兵士は、忠実さをもって選りすぐられた、言わば皇帝の信用できる者たちであった。辺鄙なところに飛ばされることを不平に思うかどうかも考慮に入れてある。アルヴィスにとって、ティルフィングは外出はしたものの管理態勢は絶対の自信があった。
「お久しぶりです、パルマーク司祭」
 ここの管理総責任者に選ばれたのがパルマークという司祭である。
 ティルフィングを神器と定めて司祭に管理させることで、もっと手元に置きたいというシアルフィの不平を緩和する意味合いがあった。表向きはエッダ教会から派遣されたことになっているが、パルマークはもともとヴェルトマー城に派遣されていてアルヴィスとも面識がある。皇帝による、知己を据えることで管理を完璧にさせる意味で人選したものである。
 実直で厳格なパルマークであるから、ティルフィングに近付こうとする者には強い警戒心を抱く。返還した格好になっている以上は非公開のものではないが、単純にティルフィングの神格性を見たり崇めたりに来るのではなく、ティルフィングそのものを狙いに来るとでは立ち振る舞い一つにも差が出る。今日の来客は後者であった。
「こ、これはアイーダ様」
 アルヴィスと知己であるから、パルマークはアイーダのこともよく知っている。ましてやヴェルトマー時代の付き合いであるのでパルマークにとってアイーダはアルヴィスの代理人の色が濃い。
 公式の訪問であれば、事前にパルマークの耳に入っていなければならない。しかしアルヴィスの影となって暗躍していた頃を知っているポルマークであるから、突然の訪問に驚きはしても納得はいった。
 ……アイーダはティルフィングを狙う集団がシアルフィに入ったことを密かに告げ、彼らの監視とシアルフィの偵察のためにすぐに立ち去った。一方で、翌日以降のパルマークは保管されている聖剣ティルフィングに何らかの違和感を抱く毎日が続くことになった。

「こんなもの、いったい何に使う?」
 犯罪の片棒を担がされたアイーダは、目の前に転がっている剣を憮然とした顔で指差した。
「……貴女はロプト教会を撲滅させるために、あえてティルフィングを釣り餌にして暴挙に出させた――神器の修復には膨大な資金が必要ですから自力での修復は不可能。ゆえに誰かの手に渡っても悪用される心配はありませんし、貴女が罪に問われることもないでしょう。独断で動いた点は咎められるかもしれませんが」
 回答になっていない返事を出した仕掛け人はレィム。息子サイアスの存在をちらつかせることでアイーダの制御権を握っている、はぐれロプト教徒である。イザークではエッダ教会の白い法衣を纏っていたが、ここではロプトの黒い法衣を晒している。
 アイーダに無理な注文ができる身分になったレィムは、ティルフィングのレプリカを作らせ、酸を使用することでボロボロの剣を一振り生み出した。次いでアイーダを使ってシアルフィに赴き、出迎えさせた隙にすり替えたのである。そのため、ここにあるのがティルフィングが本物で、パルマークが毎日首をかしげることになるものが偽物である。
 ここまではいいが、アイーダにはレィムがティルフィングを求める理由が分からなかった。レィムが言う通り、神器の修復には膨大な額の金が必要であり、これを再生できる勢力はそうそうないだろう。今のグランベル帝国ですらそんな資金の余裕はないかもしれない。そんなものを手に入れても使い道がないのである。
 いくら神器であっても、破損してしまえば神格性は失われている。バーハラの戦いでは一振りすれば神々しい光の軌跡が後を追い、シグルドが危機に陥ればティルフィングから光の膜が生まれて守った。あの戦いで酷使したために破損した今のティルフィングにはそんなものは微塵も感じられない。使用者以外は分からないかもしれないが、神格性とは、その雰囲気があるかどうかが重要である。ここまでボロボロになってしまえば、ただの鉄の剣だと言われても反論はしにくいのではないだろうか。すり替えが成功したのもそれゆえであろう。
 そのため、これで何をするのかまったく想像できないのである。シグルドを崇拝するレィムであるから、ここから遺児セリスの手に渡るかもしれないが、これを修復するだけの資金力などあるはずがない。力ではなくティルフィングの銘だけを必要としたのだとしても、ここまで神格性が失われた代物であれば意味がない。
 アイーダが片棒を担いだのは、レィムに逆らえないというのもあったが、彼の言う通りにロプト教会撲滅の足掛かりになるからであった。レィムは自分に追及の手が及ばないように、ロプト教徒の法衣を纏って行動を起こした。疑いの目はマンフロイ以下のロプト教会に向けられるだろう。アイーダが何食わぬ顔で口裏を合わせれば、マンフロイに有無を言わせる暇もなく討伐隊を組織することもできるかもしれない。すり替えの共犯がアイーダであっても、主犯がロプト教会とあってはアイーダの処罰は後回しにされるだろうし、こんな大物が相手となってはなかなかできるものではない。もっとも、帝国の安定のためには一命を厭うような彼女ではないのだが。
 ここまでは、レィムの回答通りである。アイーダに旨味がある分だけ、レィムは何をしたいのか想像つかないのだ。ここまでする以上は、レィムにとってティルフィング奪取に大きなメリットがないと計算が合わないのだ。さすがに、シグルドを崇拝しているからティルフィングが欲しい――なんてコレクター欲で動いているわけではないだろうが。
「……私がこれで何をするのかは貴女が知る必要がないこと。話の通り、安全な場所に案内してください」
 疑われるマンフロイが弁明をするのならば、レィムの捕縛は必須である。それ以前にもともと背教者として追い続けているのだから、レィムが安全な場所を求めるのは無理もないことだろう。エッダ司祭の格好でいつまでも誤魔化せられるものでもないだろうし、今回の一件でロプト教会を告発するために政治工作に追われなければならないアイーダでは保護も難しい。
 ただ、この要求がその額面通りではないだろうとはアイーダも気付いた。もっとも、気付いたところで反対できる立場ではなかったが。

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