「イザークに……!?」
 レィム保護を指示していたアイーダは、皇帝との会見を済ませた直後にその報を受け取った。
 皇帝は、もう少し事態がはっきりしてから、と現実的な回答を出し、レィムの保護と対マンフロイの姿勢を望んでいたアイーダの気持ちを空振りに終わらせていた。
 満足のいかない結果ではあったが、皇帝が関知しない段階である以上、アイーダにはそれまでの裁量を任されたと言ってもいい。ヴェルトマー領をあずかる彼女であるから、ロプト教会に関する管轄権は一応は存在するからだ。もっとも、六公爵家時代からヴェルトマーで匿っていて繋がりがあったという事実は隠さねばならなかったので、理論的な管轄権があってもおおっぴらには行使できないわけではあるが。
 とにもかくにも、とりあえず自力で動いてもいいだろうと好意的な解釈を持って事に当たろうとしたアイーダではあったが、その矢先でこの報である。
 なぜレィムがイザークに向かったのか、全く話が繋がらない。
 ヴェルトマーから離れようとするならば、帝都バーハラへ行くか、あるいはイード砂漠を越えるかということになる。
 普通ならばバーハラを選ぶであろう。教会に反旗を翻すならば、帝国に保護を求めるのが筋というもの。しかしレィムはそれをせずに砂漠を越えてイザークへと渡ったらしい。追手の裏をかいたという考え方もできるが、イザークへ行って何ができるかと言えば甚だ疑問である。ダナン王はロプト教に対してかなり否定的な人であり、脱退者であってもレィムを保護しようとはしないだろう。裏を返せばロプトの勢力圏外とも言えるが、そこまでして安全なところに身を隠したいのだろうか。もしそれが本当ならば、マンフロイ復帰に伴う政変説の根拠にはなる。
「面倒なところに行ってくれたものだ……」
 グランベル帝国内では公爵位でも、ドズル家はイザークの王であり立派な独立国である。ヴェルトマーの外である上に帝国本土の外とあっては、アイーダの手の者が暗躍する自由がない。それ以前に、ヴェルトマーにはイザーク地方についての情報が少なすぎるのでドズル家に気取られないように動くのは至難の極みであった。六公爵家時代におけるイザーク遠征に参加していなかったヴェルトマー家と、遠征してそのまま駐屯して8年になるドズル家とでは話にならない。
 ドズル家に対して、正式にレィム保護を要請してはどうかと思ったが、一瞬のうちに思考から取り消した。一国の王家に要請するとなると外交の範疇になり、皇帝の裁可が必要になる。アイーダ個人で動ける範囲内ではない。
 内々で話をつけるにしても、ロプト嫌いで通っているダナン王相手で上手くいくだろうか。出奔者レィムを取り込むことでロプト教会を叩き潰す足掛かりとすることができる、と説けば好感触を得られそうだが、皇帝が公認している組織を潰すとなれば穏やかな話では済まない。その交渉を成功させるのならば、自分が直に行くしかないだろう。使いの者ではダナンと掘り下げた話はできないだろうから。
 だが、ヴェルトマーを預かるアイーダが領地を離れるということは、それ相応のリスクも背負うことになる。対ロプトだけを抽出するにしても、不在の間はレィム出奔に関する続報が入って来なくなるわけで、シレジアへ旅立ったときと比べてこの差は大きい。
 賭である。
 現状で分かっていることは、レィムが出奔したことと彼がイザークに向かったらしいということのみだ。
 復帰したマンフロイと衝突したレィムが教会から追われた、というアイーダの見立ては実のところ何の根拠もない。冷静に考えるならば、アルヴィスの言う通りもう少し情報が集まってから動いた方が良いのだろう。
「……」
 最終的にアイーダが冷静さを欠いたのは、ロプトが力をつけたときの悲観的予想の大きさによるものであった。関係者であるアルヴィスのようにロプトを恐れずに済む人間ならば現実的な対応もできたのだろうが、アイーダはどんな有能であってもロプト帝国の影に振り回される種の人間であった。
 その恐れが、出奔して宙ぶらりんになっているレィムを保護しないと大変なことになると急かさせたのである。もっとも、レィムを放置してはいけないという点でのみ正しく、残りは全て正反対であったわけだが。

「陛下の格別な御芳志により拝謁叶いましたこと、愚生、感涙の極みにございます」
 そのイザーク地方では、国王ダナンがエッダ教会から来た二人組と謁見している最中だった。
 ダナンは父ランゴバルトから豪快さを充分に受け継いでいたため、ロダンと名乗った司祭の口調にはどうにも慣れなかった。国王に対しての礼となればこういうものかも知れないが、この初老の腰の低さはダナンにとって少し度を過ぎていた。
「……そのように畏まっては話もできまい、場所を変えよう」
 ロダンの物腰はどうしても公式の存在となってしまう謁見の間ゆえであろうかと思ったダナンは、ここでの会談を諦めて自分の執務室に通させた。どんな痛みにも耐えてきた武人でも、むず痒さとなるとそうもいかないのである。
「ここならば他に誰もおらん、くだけて話してくれればいいぞ……ところで、そちらの御仁は?」
 場所を変えて椅子に座り直したダナンの開口一番は、ロダンの左後方にひっそりと位置していた、エッダの法衣を着たレィムについてであった。
「私の亡き弟の忘れ形見でレィムと申します、今は帝都にて皇妃様のお側に仕えております」
「ほう、卿にとっては自慢の甥っ子ということだな」
 ロダンの回答に、ダナンが感嘆の声を上げた。
 エッダ教の総本山はもちろんエッダ領内にあるが、政治の中心であるバーハラにも大きな組織を用意していた。典礼をいちいちエッダで行うのは距離的にも大変であったために、多くの高司祭がバーハラに赴任する必要があったからだ。
 大陸中に散らばるエッダ教会ではなくバーハラの、そして皇妃の近くとなると、相当なエリートに間違いない。ロダンの甥の見た目の年齢から考えれば非常に優れた人物なのだろう。
 もちろん、実際にはレィムはロプト教徒でありロダンとも縁があるわけではなく、完全な虚言である。あえてこういう形にしたのはエッダを名乗った方が信用性が高いということと、ゆかりがあった方が連れだって歩きやすいからである。
「実は甥から相談を受けまして、悩みに悩んだ挙げ句、陛下のお耳に入れておこうと思った次第でありまして……」
「何やら重大そうだな」
「このイザークの地を治める陛下でなければ話せぬ事態でございますゆえ……」
「……聞こう」
 ここに来てダナンは、ロダンが不必要に低姿勢であった理由に気がついた。ある程度はもともとそういう人物ゆえなのであろうが、鬱陶しがらせて人払いさせる計略があったからなのだろう。嵌められた格好であるが、重大な情報を抱えているとなると無下にもできない。皇妃ディアドラの側に仕えているレィムが掴んだ情報となると、帝室がらみの話ということになる。となればバーハラ内でこの話をするのは躊躇せざるを得なく、遠く離れたイザークまで来るのも頷ける。ダナンはとりあえず聞いてみることにした。
「甥が皇妃様の線から聞いた話では、ユリウス皇太子殿下のお身体にはファラの聖痕がない、と噂されております」
「何ぃ……!?」
 本当ならば大スキャンダルである。
 聖戦士同士の結婚は大陸史上で前例がない。神の血と神の血によるの交配は危険が大きく、受け継ぐべき神器が2つあるのに子供が1人しか生まれなかったら片方の血が絶えてしまうからだ。なので、アルヴィスとディアドラとの結婚はあくまで非常事態だったのである。バーハラ王家に男子が絶え、ディアドラとの共同統治者として君臨する格を求めれば聖戦士である公爵位しかなかったからだ。
 とにかく、アルヴィスとディアドラは結婚して幸いにも双子が生まれてこの問題はクリアしたわけであるが、ロダンはユリウスが父親の血を引いていないと言う。
 聖戦士の家系は長子が資格を継いで生まれて来る。両親ともに聖戦士だったらどうなるのかは前例がないために確証がない。今回のように双子が生まれればそれぞれがどちらかの血を受け継ぐ……という保証はどこにもないわけである。
 しかし保証がなくとも聖痕が継承者の証とされてきたユグドラルの伝統と事実は存在するのである。母親の方の血しか現れていないということは、父親がアルヴィスであると証明する証拠がないとも言える。
 もしそうであるのならば、皇位継承順位に影響が出て来る。ユリウスが第一位であるのは、皇帝であるアルヴィスとバーハラ王家のディアドラとの間の子であるからだ。アルヴィスの子でないのであれば、ユリウスには第一位である根拠がかなり薄くなる。もちろん、双子である以上、ユリアもまた同様である。
「しかしユリア皇女がヘイムの聖痕を持って生まれてきたのならば、兄のユリウス皇子に聖痕がないと話が合わんだろう」
「左様でございます。もしかすれば……フリージ家と同様のケースとも考えられます」
「む……」
 ダナンにとっても個人的親交のあるフリージ=北トラキア王ブルームとその妻ヒルダとの間に生まれたイシュトーとイシュタルには、同じような逆転現象が発生している。悪魔の血について説明できないフリージ家は、兄であるイシュトーが継承者ではない理由について黙秘を通していた。ダナンにとっては、自身にも打ち明けられることがなかったので心配もしていたが、友人の家の事情に首を突っこむ趣味もなかったのでそのまま流していた。
 だんまりを決め込まれれば、好き勝手に想像してしまうのが人間である。いろいろな理由が頭に浮かび、周囲の者と意見を突き合わせた結果、「実はイシュタル王女が姉君なのではないか」という理由が最も自然だという結論が出た。
 イシュタル王女をユリウス皇子の妃とするためには"世継ぎであるイシュトー王子の妹"とした方が都合がいいから、本当は姉弟なのを兄妹にひっくり返しているのではないか――と考えるわけである。双子なのでどちらが先なのかは出産に立ち会った者しか分からず、工作を行うのはさほど難しくない。
 ミレトス地方ではこの説が根強く信じられているらしく、真実のありかを探して後世の歴史家を大いに苦しめることとなっている。なお、母親であるヒルダが実はダインの血を引いているから、などという突拍子もない説も存在するが継承者でない限り成り立たないので論外である。もちろん、継承者が父親で産んだのが母親なのでユリウスとユリアのように正体不明の種の存在は考える必要はない。
 そしてユリウスとユリアもまた双子である。仮にユリアが先に生まれてきても後発のユリウスを兄とするのはたやすいことである。咄嗟にそんな判断ができるのかと言えば、これは充分に可能である。聖痕をもって継承の証とする以上、万が一のケースを想定したマニュアルが密かに作られているのはどこの聖戦士の家も同じである。
 ユリアが姉であるのならば、弟であるユリウスが何の聖痕をもって生まれて来なくても別におかしくはない。そしてこの場合、母ディアドラから長女ユリアへの継承がなされているのだから、父親に関しては不定でも話は通ってしまう。
 裏を返せば、その理論が通ってしまうのを恐れたアルヴィスが、ユリウスを兄にすることで、さもファラの血を継いだように見せかけているのではないか――ということになる。
「それでは皇位継承権第1位はユリア皇女でいいのか」
「いえ……、非公式の方も含めればそうはなりません」
 ダナンがユリアを第一位と考えたのは、グランベル王国時代の主家であるバーハラ王家の直系であるからだ。聖者ヘイムの聖痕が確認されているのでこの点は間違いない。しかし、この方式が成り立つかどうかは一つの条件をクリアする必要がある。
 アルヴィスの帝室と混同されて忘れられがちだが、現在のバーハラ王家の主はディアドラである。バーハラ王家をグランベルの正統とするならば、継承権第一位はディアドラの第一子でなければならない。ユリアには聖痕が現れているが、聖痕は長子が継承するという大原則について、例外中の例外のケースがバーハラ王家には当てはまるのである。
「……本題に入れ。俺は父親似でな、いらん遠回しは嫌いだ」
「皇妃様が亡きシアルフィ公シグルド殿との間にもうけられた子、セリス様こそが、奉戴申し上げるべき"光の皇子"でございます」

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