ユリウスの身体にファラの聖痕がない真の理由。それを知っているのはロプト教徒だけである。
 レィムが、ロダンを使ってこの話を吹き込ませたのは、皇帝が暗黒神ロプトウスの存在を公表できない弱みを持っているからであった。
 ロプトとファラの血が競合した場合、上位であるロプトウスの血が必ず優先される。なのでユリウスにはロプトが、妹のユリアには次点のヘイムの聖痕が現れたのである。もう一人生まれればファラの血は現れるのだろうが、ロプトウスを産んだことでさい悩んでいるであろうディアドラがこれ以上の子供を望んだりはしないだろう。つまり、帝室ファラの血は途絶えることになる。
 真実はそうだが、一般的見解となるとロプトウス抜きで考えなければならない。いかに強固な帝国を築き上げようとも、ロプト教の公認はともかく暗黒神ロプトウスの復活までは容認されるはずがない。つまり、ユリウスがファラの血を引いていないことについてロプトウスの存在を説明に含めるわけにはいかないのである。いくら真実であったとしても。
 ただ、これだけで帝国中枢に揺さぶりをかけられないことはレィムも分かっていた。
 真実と事実は別物である。ユリウスの身体にファラの聖痕がないのが真実であっても、それは事実とはなりえないのである。これを証明するためには、ユリウスの身体を隅から隅まで確認しなければならない。皇太子相手にそんなことが可能なはずがなく、強硬に断られれば引き下がるしかないのだ。拒否によって真実と判断するには帝室の威信が高すぎる。有無のどちらも証明できない場合は存在すると考えるのが今のユグドラルであろう。
 バーハラでこの話をすれば、レィムはすぐに逮捕されただろう。皇帝の息が色濃くかかっているというのもあるが、聞き手が皇帝に媚を売りやすいのが最たる理由である。磐石の気配を見せつつあるとは言え、皇帝アルヴィスの威光に依るところが多い帝国にとって流言は最大の敵である。特に皇帝の信用に関わる話となれば一大事であり、逆にこれを未然に防げば帝国中枢の覚えも良くなる。レィムを逮捕する意味合いは大きいのだ。
 しかしダナンは小利を貪る必要がなかった。確かに帝国公爵でもあるが、イザーク一国を治める国王でもある。帝室との婚姻政策を謀るフリージ家と違って、皇帝にいい顔をしなければならない理由がないのである。面と向かって反抗するのは論外であっても、面白い仮説を吹聴して来た輩を逮捕してわざわざバーハラまで護送してやるほど忠臣ぶるつもりもなかった。
 何しろ、ダナンはこれ以上功を積んでも恩賞の与えられようがないからである。イザーク一国をもらって王となった以上、ここからさらに与えられるものが何もないのである。大陸北東のイザーク地方を抑え、南はイード砂漠という天険、西はリューベック城という要を擁している。ダナンにしても領土の拡張のしようがないのであった。シレジア王国から割譲させたノイマン半島南部に足を伸ばすのは統治面でデメリットの方が大きく、そもそも流言流布者を捕らえた程度でこんな話になるはずがない。
 そんな理由から、ダナンはロダンとレィムを捕らえることもなく、むしろ丁重に迎えた。別にユリウスを否定する気はないが、こういう材料は抱えておくと後々効いて来るものである。ダナンにとって有益なのはこの情報そのものではなく、これを抱えることによって発生する付随効果であった。
 一方のレィムも、ダナンがそう出ると見込んでいた。面識は全くないが、帝国の傘下にある国王の立場を考えたら逆利用しようとするのは自然の流れである。暗黙の了解を持って協力を取り付けたレィムは自分を追って来るであろう人物への罠を張り始めた。
 そして、それは予想通りに数日と經たないうちに現れたのである。
 
 ダナン王と面会したアイーダは、レィムについて知っている全ての情報を提出し、彼がイザークへ何をしに来たのかを情報を受け取った。
 部屋を与えられたその晩、一人で情報を整理するアイーダ。符合してみると、見立てとは違う点がいくつかあった。
 まず、レィムがイザークを訪れた理由。ロプト教会の追手から逃れるために勢力圏外のイザークに渡ったと見ていたが、蓋を開けてみれば帝国のスキャンダルを流布しに来たらしい。
 そして信用を得るためにエッダ教会の法衣に着替えたのは分かるとしても、ロダンという協力者がいたことはアイーダの度肝を抜いた。ロダンがレィムの出奔を知っているのかどうか不明だが、少なくともエッダ教会(の一部)がロプトと繋がっているのは間違いない。帝国内におけるロプト教会のフットワークの軽さに疑問を抱いていたアイーダは、その答の一つを発見したことになる。当初の目的とは異なるが大収穫に違いない。
 その一方で、レィムが本名を名乗ってダナンに謁見したことが引っかかった。エッダ教徒と身分を偽るぐらいなのだから、偽名を使うことに何のデメリットもない。レィムと名乗らなければ、ダナンに謁見したことが気付かれずに済んだかもしれない。少なくとも用件の一言目でダナンと話が通じることはなかったに違いない。
 実名を名乗って国王に謁見しスキャンダルの吹聴。出奔から分からないことばかり続く。さすがにアイーダもこの状況が危ういものだと感じ始めた。既に罠に落ちているとまでは思わなかったが、状況がレィムのみの思惑に沿って進んでいることには気付いた。
 そして、人間はいったん悲観的になるとマイナスの方向に想像力が促進されるものである。レィムの狙いについてもう一度検証すると、自分でも顔面蒼白になったのを自覚できるような仮説が浮かび上がった。
 
 まず、セリス擁立を唱えたのはあくまでダミーである。
 ロプト教会が政権奪取を企んでいるとすれば、現在の皇帝−皇太子のラインをひっくり返そうと考えてもおかしくはない。皇帝の陰の戦力として功績を挙げたのも、旧グランベル王国の態勢をひっくり返そうという意図があったからだ。これはアルヴィスによって封じ込められることになったが、もう一度同じことを考えても決しておかしくはない。
 しかしこの説を通すのならば、レィムに出奔の必要性がない。復帰したマンフロイならば分かるが、教会の枠から離れた彼がこんな暗躍をなぜしなければならないのか。もしかしたら、ロプト教会内においてセリス擁立を唱えたのはレィムだけなのかもしれない。それでマンフロイの影響力が及ばないところで活動を続けなければならなくなった----という考え方ができる。
 だがこれも穴がある。ダナンに対して偽名を使わなかったことについて説明ができないからだ。
 偽名を使わなかったのは、出奔を聞いて接触して来るであろうアイーダに対して隠匿するつもりがなかったからに違いない。もう一歩突っ込んで考えれば、アイーダに気付かせる意図があったからであろう。 
 確かにレィムとアイーダとの関係は割合に良好である。しかし、皇帝の腹心であるアイーダがセリス擁立に協力するはずがない。アイーダに気付かせることがセリス擁立にプラスになりえないのである。
 となれば、セリス擁立の話は陽動の疑いが強くなる。ダナンに吹聴することでアイーダにこの件を気付かせることそのものまでが見せ札であるのだ。
「……」
 この陽動作戦の裏に潜む罠。レィムが、アイーダにいったい何を気付かせたかったのか。
 答はダナンとの会話に隠されていた。
 前述の通りにセリス擁立の意味はなく、したがってセリスに継承権の有無について語る必要性はない。そもそもそれ以前に、ユリウスに聖痕が無い=アルヴィスが父親ではないという等号式は必ずしも成り立たないのである。
 セリス擁立の話が大きくて気付かずにいたが、ユリウスの身体に聖痕が無いのが本当だったとしてもその理由が血縁ではないと結びつけるのは短絡的なのである。
 もっと単純に、ユリウスが第一子ではない場合である。ユリウス誕生より前に、ファラの聖痕を受け継いだ子供が生まれていたのならば、ユリウスに聖痕がないのは当たり前の話となる。
 ディアドラと結婚するまで、アルヴィスは独身であった。もちろん初婚であってもそれと過去の女性経験の有無も同じとは限らない。限らないが、それはあくまで普通の男である場合である。
 アルヴィスは継承者という特例の存在である。もし何かの手違いで子供ができてしまえば、その子供にヴェルトマー家を継がせなければならないのだ。神器と聖痕という神の血筋が第一子に受け継がれるシステムがある以上、庶子であろうと落胤であろうと、長子以外が家督を相続することはできないのである。
 そのため、グランベル六公爵家では当主は独身のうちの無計画な性交渉は慎むようにされていた。たとえばドズル家なのは系譜に載っていない落胤が2人ほどいるとの噂だが、これは長子ダナンが生まれてからの話である。王太子クルトが最後まで独身だったのはヴェルダンに追放されたシギュンが身籠もっていることを知って手詰まりになったからだ、という説も存在するぐらいである。
 無論、庶子でも落胤でも、聖痕を受け継げば立派な神の子であるから血統的に文句が出ることは無い。しかし結婚の機会は大切な政略の道具である、無秩序な欲望のためにカードを無駄にしてしまうことは貴族として恥に等しい。
「……!」
 その渦中に、自分がいることをアイーダは自覚していた。
 彼女は独身であるが、私生児がいる。
 父親については極秘であり、真実を知っているのは彼女自身と、身元引受人となったバーハラの司祭だけである。
 アルヴィスがディアドラと出会う前に誰かと子供を作っているのだとするならば、真実がどうあってもアイーダに疑いがかけられるのは目に見えている。
 アイーダの能力については疑う者はいないが、グランベルにおいて女性の将軍というのは極めて珍しい存在である。この若さでアルヴィスの右腕となりえたのは、能力だけではなく女ならではの政略があったのではないかと勘繰りたくなるのは当然と言えよう。彼女もアルヴィスも、関係そのものについてはいちいち否定しなかった。否定してもその証明のしようもないし、下手な釈明は泥沼に陥るだけだと分かっていたからだ。
 もしも王国時代のようにディアドラに主権があってアルヴィスが夫君であるのなら、アルヴィスが皇帝となれば立場上で格上のディアドラは少なくとも共同統治者として君臨しなければならない。しかしディアドラあくまで皇妃にとどまっているということは、帝国法の解釈としては帝位がヴェルトマー家にあることになる。
 つまり真の皇位継承権第一位は、ヴェルトマー家長子にあるという図式になり、ファラの聖痕こそが正統という考え方で正しくなる。聖痕を受け継いでいない"次男"のユリウスは皇太子として立てるのは間違っていることになる。
 アイーダの私生児サイアスの身体に聖痕があるのならば彼が皇太子ということになり、アイーダは次の国母になる。ディアドラの皇妃位を取り消す必要はないが、国内が大混乱に陥るのは間違いない。
 アルヴィスが政権を握ったのは、もともとはディアドラの夫としてである。独身のまま世を去ったグランベル王太子クルトの落胤としてバーハラに姿を現したディアドラに国政が務まるわけがなく、夫君殿下を迎えるのは当時としてはやむを得ない措置であっただろう。そしてディアドラと結婚することになったアルヴィスがグランベルを掌握し、現在の帝位に繋がっている。
 ユリウスとユリアは、バーハラ王家の血を絶やすわけにはいかないディアドラの義務感の象徴とも言える。ディアドラしか現存していなかった以上、彼女は何としてでも子を産むしかなかった。この時点では主権がディアドラにあって、アルヴィスは選ばれた存在だという図式が成立している。極端な話、父親はアルヴィスでなければならないという絶対的必要性がないからである。
 つまり、ユリウスが成人してグランベルの玉座に昇るまでがアルヴィスの夫君殿下としての責務であると言える。ディアドラとアルヴィスとの結婚が緊急措置的なものである以上、その終了は男子が次の王になるまでなのは当然である。
 ところが、アルヴィスはこれを反故にしたのである。帝位継承権がヴェルトマー家にあるのならば、皇妃はディアドラである必要がない。つまり、ディアドラとの結婚によって政権を握っておきながら、帝政を敷いてからはディアドラとの結婚を必要としなくなったのである。言わばグランベルの乗っ取りである。
 現状において皇太子はユリウスであるが、聖痕が無いことが事実であったとしてそれが明らかになればサイアスが急浮上して来るのは目に見えている。彼の身体に聖痕があるのかないのかはその時が訪れるまで明らかにはならないだろうが、近い将来に起こるであろう帝国の政変に深く関わって来るのは間違いない。少なくとも、担ぎ出そうとする人間が現れるのは明白である。あるいは、帝国の安定を願ってサイアスを闇に葬ってしまおうと考える者も現れる可能性もある。
 もしもサイアスの身体に聖痕があるかどうか証明したとしても、それはユリウスの身体に聖痕がある証明することにはならない。そもそもサイアスの聖痕についてアイーダが何か言えば、アルヴィスとの間に情事があったことを自ら公表するようなものであり、帝国にとってマイナスである。血族結婚までしているアルヴィスとディアドラの間に波風を立てるような真似など臣下ができるわけがないのである。

 悲しいかな、アイーダはサイアスの母親である。遠い昔に手放した息子が危険に巻き込まれそうだと気付かされてしまっては、気付かせた相手に対し精神的リードを保てるはずがなかった。
 ――結局、接触してきたレィムに対し、アイーダは要求をほぼ丸呑みするしかなかった。「ファラの聖痕を受け継いでいる」と、「受け継いでいるかもしれない」とは客観的には同一の意味でしかなかったのである。
 結果、レィムは野望のために大きな足掛かりを得た。アイーダを従属させることで帝国内でより活発に動くことが可能になったからである。
 一方で、アイーダの唯一の要望も守られた。息子サイアスは立派に成人し、帝国随一の軍師として名を馳せることになる。しかも彼は最後まで帝位継承権第一位として歴史の表舞台に立つことはなかったのである。もっとも、アイーダはサイアスに、ロプトや権力志望者の手が伸びるのを恐れていたわけであるが、そう思わせることがレィムの陽動であったことに彼女は最後まで気付くことはなかった。

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