ヴェルダンにおける武装蜂起に、グランベル帝国中枢部が激怒したのは言うまでもない。
 帝政以降、トラキアのように敵対した勢力は確かにある。しかしトラキアは王政依頼の仇敵であるのに対し、ヴェルダンはいったんは服従しておきながらのこの反乱である。帝国にとってみれば「帝政にケチをつけられた」格好になる。ひいては皇帝アルヴィスの顔に泥を塗ったのと同じである、この一件は大きな意味を持った。
「直ちに討伐軍を派遣し、皇帝陛下に仇なす民草共をことごとく切り刻んでやれ!」
 ところが、こういう台詞が出ないのが今の帝国の厳しいところである。
 実はこのとき、帝国軍はアグストリアへ海賊討伐に向かう計画が立てられていた。王政時代はノイマン湾の制海権を完全に奪われていたなど、グランベルは海軍力にあまり自信がない。アグストリア諸公連合そのものは消滅したが、その海軍の主力であった海賊たちはまだ健在である。その討伐となると周到な準備が必要とされ、ヴェルダンで凶事が発生したからと言っておいそれと舵を取れないのだ。
 また、グランベルはこれでシレジア・北トラキア・アグストリアと3年続けての遠征になる。大内戦から数えれば6年になり、これ以上の遠征はいくら強大と言っても国力が支えきれない。ましてや帝国民は大陸を統一して泰平の世が訪れたと喜んでいる以上、やたらに遠征するわけにもいかないのだ。
 ヴェルダンに駐留する部隊が鎮圧に成功すれば有難いのだが、そうも行かなかった。
 戦略的にたいした意味がなく、不穏分子が存在しないヴェルダンには大兵力の部隊が駐留する理由が無い。戦闘よりもせいぜい治安維持程度の能力しかない小部隊しか置く必要がないのだ。ましてや毎年のように遠征していてはこんなところに兵力を回す余裕などなかった。
 所詮は相手は民衆、ではあるが、これが決して軽視できない相手であった。
 ヴェルダンの民は、人の胴より太い木を切り倒すために斧を振るい、人よりも小さく素早い獣を捕らえるために弓矢を放って暮らしてきた。かつてのヴェルダン王国軍もそうだったが、斧と弓を使わせれば大陸一の素養を持ち合わせているのである。もちろん、剣戟や集団戦闘などはやった事はないから守勢に回れば脆いが、純粋に攻撃を命中させる点で言えば帝国正規軍よりも優れているのだ。それが一斉に襲いかかれば、駐留部隊では敵わないだろう。点在する部隊が一ヶ所に集中して対応すれば勝てるだろうが、相手が民衆と侮っていればそこまで慎重な手段を選ぶとは思えない。
 つまり、今回の武装蜂起がある程度成功すると分かっていながら、帝国には対応策が存在しないのである。
 かと言って、遠征できないから見過ごすなどと言う事をやってはならないのも帝国である。大陸を統一した偉大なる帝国は、限界を見せてはいけないのである。地平線は果てが見えないから偉大なのであるように、国家もまたその極みが確認できてはならないのだ。これ以上の遠征は厳しい事ぐらいは承知できても、それが帝国の事態処理能力の限界と同一に見られては帝国の器が小さくなるのだ。
 そして皇帝の判断は、海賊討伐を優先、であった。その理由については多くを語らず、アグストリア出兵の後にどうするのかも説明はしなかったが、とにかく今は相手にしないことで帝国の方針は決定した。

 ヴェルトマー城内某所、ロプト教会----
 実は最も頭を抱えたのがここの人々であった。
 ヴェルダンの民が蜂起した事そのものは別にどうでもいい話であるが、これに聖霊の森の者が一枚噛んでいると言うのが悩みの種であった。
 イード派から見れば聖霊の森は異端であり、不倶戴天の敵である。ロプト教に限らず、神学的には異端よりも異教徒の方がまだ近しい存在なのだ。
 だが一般人から見ればロプトはロプトである。皇帝によって公認はされても一定色のフィルターを通して見られるロプト教について、イード派と聖霊の森の違いを理解できる者などそうそういやしないのだ。
 つまり、ヴェルダン蜂起に聖霊の森が力を貸している事が明るみになれば、イード派がとばっちりを食う可能性が高いのである。
「……至急、皇妃様へのチャンネルを確保」
 代行者レィムは、ディアドラが今回の鍵を握っていると弾き出した。別に一枚噛んでいると言うわけではなく、存在自体が影響を及ぼしているのだ。
 聖霊の森は、ディアドラの故郷である。本人がいくらこの地に良い印象を抱いていなくとも、故郷であることには変わりない。一度は拒絶されたらしいが、実際に事が起こった今、もう一度接近して来る可能性は否定できない。皇妃の支持を得るのは大きなことだからだ。
 帝国の圧政に苦しむヴェルダンの民が、生きるためにやむを得ず----こんな口車に乗せられるほどディアドラはお人好しではないだろうが、情状酌量の余地も残さず断るほど非情な人でもないだろう。つまり一定の成果は挙げられてしまうわけであり、それが蟻の一穴となってイード派の災いとなるかもしれない。もっと直接的に言えば、根も葉もない悪口を吹き込まれてはたまったものではないのだ。
  よって、ここは何としても聖霊の森マイラ派とディアドラとの接触は阻止しなければならない。
  今、非常に調子がいい。
  トラキアでは天候予測で勝利をもたらし、ミレトスでは調度品を披露して資金調達の要となった。現在、帝国では学問と芸術の分野でロプトの遺失技術について注目が集まっているとのことである。
  流行とは、言わば勢いである。このいい流れを止められてしまえば、ロプト教徒の悲願は遠のくことになる。何としてでも皆の関心を逸らさせてはならないのだ。
「……」
  これ以上、やれることは無いはずである。
  総力を結集すれば武装蜂起そのものを鎮める事もできるだろうが、今はロプトの力で恐怖心を抱かせる時期ではない。皆に受け入れてもらうように奔走しているのに、負の感情を与えるのはマイナスでしかない。せいぜいディアドラに近付こうとするマイラ派を返り討ちにするぐらいしか考えつかない。
  だから、レィムの打った手は最善のもののはずである。しかし本人はこれに引っ掛かりを感じていた。
  自信が持てないのは、何かしら欠けている部分があるからである。もちろん案ずるより生むが安いケースもあるが、引っ掛かりを感じるのは一種の警告みたいなものである。
  結局、レィムはそのまま通した。再検証はしてみたがやはりこれ以上の手は打ちようがなかった。
  その直感を最後まで信じなかったのは、全く新しい手を考えてみなかったのは、彼の経験不足によるものであった。

  そして事態は、唐突に解決した。
  ヴェルダン各地に駐留していた帝国の部隊は、殺し合いは望まない市民たちと交渉の末、撤退。こうして自由を求めた市民たちは勝ち取ったのだ。
  そして彼らを待っていたのは、皇帝による完全自治容認であった。
  この報に双斧の旗を振って狂喜乱舞したのは言うまでもない。討伐軍が来たらどうしようかと言う不安が解消されたのだから。
  交通の要衝であるエバンスを例外とした残り全てのヴェルダン地方が自治区となり、自由を愛した彼らは帝国の干渉を受けることなく各々の生活に戻った。
  バーハラ潜入を試みた聖霊の森の導師たちが帰って来なかったが、求める結果が達成されたために捨ておかれた。
  ……2年後。
  帝国のアグストリア遠征で追い払われた海賊たちが、新天地を求めてヴェルダンを急襲。中央の湖を拠点として活動を始めた。
  この動きに、アルヴィスの厳格な統治で身を潜めていた大陸中の賊がヴェルダンに集結、たちまちのうちに山賊が支配する地方へと様変わりした。
  駐留軍は全て撤退し、打ち払ってくれる者はいない。討伐軍を出してくれと幾度も嘆願したが、全て門前払いを食うことになった。皇帝が完全自治と定めた以上は、たとえ何があろうとも干渉しないことにしたのだ。
  アルヴィスは統治者として有能であったが、彼はあくまで専制君主である。帝国の傘を外れて自由を欲しがった臣民に見せしめの意味を込めて本物の自由を与えたのは強烈ではあったが、厳格な統治方針を貫く彼らしさも出ていた。
  この結果に反対する者はいなかった。国家反逆罪が死刑なのはどの時代どの国でも同じである。未だ行方不明のジャムカ王子が先導しているのではないかと言う噂も外れ、処刑すべきリーダーがいなかったため、ヴェルダンの住人全員が同罪となっても仕方がない。逆にウィットに富んだ今回の措置は喝采を挙げる者の方が多かった。さらに各地の山賊が移動して治安が向上したことを喜ぶ者が多く、ヴェルダンの民を哀れむ者などいなかった。
  煽動者である聖霊の森は、ディアドラへの負担も考慮して処刑は免れた。もっとも、バーハラ潜入を試みた大半が命を落としたので罪に問いようもなかったのだが。
  結局、ヴェルダンの放置は777年に帝国が打倒され、ジャムカ王子の遺児が帰還するまで続くことになる。

  レィムはアルヴィスの一手に開いた口が塞がらなかった。
  実は今回、ディアドラに接近して来る聖霊の森を撃退することで逆に株を上げようと目論んでいた。暗黒魔法相手を見たことが無い騎士では勝負にならず、アルヴィスお抱えの魔導師も炎系であり相性が悪い。
  実際にレィムの読みは当たって、ディアドラを警護する騎士たちの窮地を救うことになり、多大な感謝の言葉をもらった。しかし、売りに出した直後のあの布告である、武名も、これまでの努力も全て飲み込まれてしまった。
  アルヴィスの帝政は、言わばグランベルの輝かしい未来を表すものであり、懐古主義のロプト教徒とは正反対である。アルヴィスの絶対的統治に一分の隙もなくなれば、ロプトの遺失技術への需要がなくなってしまう。学問や芸術に根を張りつつあるとは言え、その勢いすら丸飲みした今回の布告には白旗を挙げざるを得なかった。
「……」
  マンフロイはいない。
  代行者レィムは、自分の才能によって他人を意のままに操ることができる今の立場が楽しくて仕方がないのだ。マンフロイの存在を排して事を動かせる今の状態が続いて欲しいと心底願うようになっていた。石化して窮地を免れたマンフロイをイードの地下に鎮座させたのも、(ベルドの要望もあったが)遠ざけておきたかったからだ。
  アルヴィスに気押されたロプト教徒。彼らを統率するなら何かテコ入れが必要である。停滞させてはならない、大司教の復活を待ちわびる声が大きくなっては、現在が壊されてしまう。
  何でもいいから皆の関心を惹く事をやらなければならない。
  レィムは新しい作戦の開始を指示した。場所は、北トラキアである。

Next Index