イード砂漠某所----
砂と岩の世界の中、とある場所にロプト教の神殿がある。
 十二聖戦士とその末裔達とに迫害されてきた信徒たちは、この砂の下に埋もれて生き存えてきた。
 ロプト教徒たちにとって、この隠れ里は故郷であり聖地であると同時に、苦境の歴史でもある。アルヴィスの影として密かにヴェルトマーで庇護されるようになってからは、この地に住む者は激減した。とにかく不便であり、何より迫害の時代から脱却したいと言う夢が"昔"との縁を断ち切らせたからだ。
 ただ、最近になってロプトの者が2名移り住んできた。正確には、1人と1体、であるが。
「♪〜」
 細身が多いロプト教徒の中では一際目立つであろうかなりの大男が、これもまた身体に似合わない細かい手先の作業を行っていた。
「んっんっんーん〜♪」
 黒いフードの中に覗く、干ばつに見舞われた耕作地のような顔から、陽気な、そして幼稚な鼻唄が響く。
 体躯と行動が全く似合わないこのロプト信徒が何をやっているのかと言うと、その手先が触れている石像に解答がある。
 大男は、石像の横に回り込んで、違う角度から仕事の成果を確認する。
「……」
 胸のところが思ったよりも派手に膨らんでいるのを見つけると、続けていた鼻唄が止まって眉間に皺が寄った。それに釣られて、顔中のひび割れが一斉に波うつように蠢く。彼はこのいかつい顔が好きではなかった。間近で見れば大陸有数の迫力なのだが、心優しい彼は(同じロプトの者でさえ)人が近寄らない方を悲しんだ。
 素で赤子が泣きそうな顔がさらに厳しい顔をすれば、それこそ周囲に人影はなくなる。だから彼は花と話し、石像を相手に仕事をする。ヴェルトマーでもバーハラでも出来たこの任務を、イードでさせてくれと嘆願したのは、ここにはもうほとんど人がいないからであった。帝都と比べて資材の入手の困難であっても、そちらの方が環境として重要であったのだ。
 基本的に善人である。
 鼻唄も、陽気に振る舞って外見のマイナス要素を僅かでも中和しようとしているからである。しかし不気味ほど怖いものはないという考え方を大いに肯定する事になっているのだが、あまり他人と関わらない彼はそこまで気付かない。むしろ、人前で何かする勇気が湧かない事の方が多く、彼が普段は陽気(でいようと努めている)と知る者は少ない。
 ノミと金槌を取り出して、余剰分を削る。本来ならばこれは荒っぽい方法であろうが、彼の腕前であればまだ研磨で調整する必要はなくノミで上等である。
「あなたのハートへ届けわたしのチゼル〜♪」
 彼にしてみれば陽気な歌のつもりで言わば冗談の極みであるわけだが、こういうあまり見聞きされたくない事ほど間が悪いものである。
「ぬしの慕情など無用……」
「ぅ、うわわっ! ……こ、これは、だ、だい、ヒッ!」
 唐突に声が響き、それが彼にとって最高権力者のものであると気付いた瞬間、鈍重そうな体躯に似合わぬ速度で平伏する。ただ、慌てた際に取り落としたノミと金槌が自分の頭のすぐ側に墜落したものだから、挨拶を済ます前に悲鳴を上げてしまった。
「お、お、お、お許しくださいませ大司教猊下……! 決して、決してそのような恐れ多い事は……!」
 彼は最下層の信徒である。顔の印象に能力が追い付かず、何とかの大木と形容されている彼にとって、まさに雲上人である。それを相手に冗談でも愛を語ればただでは済まない。
「よい……今までの"治療"の功に免じて不問に付す……」
 声の主はロプト大司教マンフロイ。そしてその声は、這いつくばる大男の脳裏に直接響いていた。
「半年ほど前から見ておったが、その献身ぶりは称賛に値する……表を上げぃ。名は?」
「有り難き幸せにござります! ベルドと申しまする!」
 栄華を誇った帝国が崩壊し壮絶なロプト狩りが行われる中、地下への潜伏を余儀なくされて今に至るわけであるが、ロプト教徒たちが受け継いできたのは何も魔法ばかりではない。旧ロプト帝国時代に栄えた文化や技術もまたしかりであった。信徒としては出来が悪く、うだつの上がらない大男ベルドであったが、石工技師としての技術を受け継いでいたところを見込まれて抜擢され、ただの信徒でありながら大司教の世話役に任じられたのだ。
「ただいま胸元を調整中でございます。蘇生に問題はありませんが、恐れながら肉付きが不自然になってしまいます」
 少し優しくされると嬉しくなって図に乗るのが、引っ込み思案の人間に共通する欠点である。先程まで震えながら平伏していたのはどこへやら、石工技師のプロフェッショナルとして喋り始めた。とはいえ、マンフロイは眉をひそめる事も舌打ちする事も出来ないので、言葉に表さない限りは不快に思ったどうかは判断できないのだが。
「今ようやく念話が出来るようになったのみ、蘇生はまだ先の話ぞ……ベルドよ、これからもぬしの世話となろう……」
「ははっ!」
 そもそも、何故にマンフロイの石像がこんなところにあるのか。
 マンフロイは、シレジア王国で潜入工作を行った際に重傷を負ってしまった。からくも脱出したとは言え、胸を貫かれた一突きは間違いなく致命傷であった。そして命の灯火がまさに消えようかと言う瞬間、マンフロイは死を回避するために自らの身体に石化の魔法をかけた。
 無機物に生命活動など存在しない。裏を返せば、石の身体でいる限り死は永遠に訪れないのだ。
 もちろん、石像である限り動くことなどできない。影を分身として動かすことができるマンフロイであるが、生命力の枯渇により能力が低下しており、現時点ではまだ使うことはできない。半年前に周囲が知覚できるようになり、今、念により声を発せられるようになった程度であるり完全復活はまだまだ先の話である。とはいえ、石になったおかげで生きていられるのだから、それは贅沢と言うものであろうか。
 しかし何も利点ばかりではない。無機物の身体は死が存在しないが、その代わりに代謝機能もない。有機質の身体には代謝による自己修復機能があるが、今のマンフロイには石像が風化していくのを防ぐ手段が存在しないのだ。いくら石である限り不死の存在であっても、崩れ落ちてしまっては人間として蘇生するのは不可能である。バラバラ死体のまま蘇生した瞬間に死ぬわけだから当然である。
 故に、石像を管理し、時には修復する他の者が必要不可欠なのだ。その役に石工技師であるベルドが選ばれたのは当然の帰結であった。
 もともと、死を回避するために石化するのはロプト帝国時代に行われていた治療行為の一種である。傷口を塞ぐ魔法はあっても、病気を治療するそれは存在しない。病魔に侵され、しかも治癒の見込みが薄い人間を救う非常手段として石化魔法は用いられた。代謝機能が停止すれば病気の活動も止まり、その間に有効な治療法を探し必要な薬剤の調達が可能となるのだ。もっとも、仮死状態にするこの魔法は死に近い分だけ元に蘇生させるのが難しく、それ専用の魔法を必要とする。しかもマンフロイのような高位の司教の家系ぐらいしか使えなかったために、帝国時代のこの医療手段は異教徒のような下層市民には用いられなかったわけであるが。
「"外"は……どうなっておる……?」
 知覚そのものは前から感じられるようになったが、そうなったことを伝える手段が存在しなかったために情報の入手ができなかった。ベルドからは鼻唄は聞かされても世界情勢など出て来なかった。
「ははっ、あれから……」
 ベルドは、マンフロイがシレジア工作に向かって以来の事を話した。
 記憶力は意外に優秀であっても、話下手なために説明に手間取った。それでも何とか伝えようと努力したのはベルドの人の良さを表しているのだろう。
 アルヴィスが皇帝に即位した事、ロプト教は信教の自由を認められた以外に特に変化がない事、大司教の留守を任されている娘婿レィムが新たな目標を立てて皆を導いている事、など。
「……そんなに順調か……?」
 表情が曇りようがない今のマンフロイであるが、アルヴィスがロプトの期待に応えなかった点が気になったのは間違いないだろう。そして、自分の娘婿が舵取りをするようになって躍進を遂げているという事実が今一つ信じられなかった。
「レィム様はよくやっておられます、今も……」
 ベルドはレィムよりも年長であるが、マンフロイの後継者であるレィムを尊敬していた。かつては自室に引き籠もりがちという共通点に親近感があった。しかしレィムが皆の前に討って出て統率するようになった事がベルドには眩しく映り、それ以来、熱心な支持者となっていた。
 現在、ミレトス地方を中心に活動している指導者の話をするベルド。例によってマンフロイは頷く事もできないのだが、相槌の打ち方は歯切れの良いものではなかった。婿に迎えた後継者と目した男が活躍するのは嬉しいはずであるが、その雰囲気がないのはベルドの話に別の感想を抱いたからであった。
「順調すぎる……危険だ……」
「は……」
 その意味が今一つよく分からないベルド。
「レィムめ……成功に浮かれておれば必ずや足元を掬われん……アルヴィスは甘くない……」
 レィムが立てた最終目標がロプトウスの御子である皇太子ユリウスの擁立である以上、どこかで皇帝アルヴィスと対立しなければならない。マンフロイは娘婿の能力は高く評価しているが、若さだけは資質で鍛えられるものではない。やむを得なかったとはいえ、世に出すのはまだ早い。アルヴィスは7歳でヴェルトマーを継ぎ、幼少からその資質を光らせていたが、それはタイプの違う人間の話である。レィムはどらかといえば晩成の感があり、老練のマンフロイはそこを危惧したのである。
「ベルドと言ったな……ぬしに一働きしてもらおう」
 その台詞の矢先、部屋の中央に裂け目が走り、一冊の魔法書が零れ落ちた。
「レィムが道を誤ったとき、それで止めよ……」
「こ、これは……!」
 ロプト教でも高位の魔法とされる"ストーン"の書である。
 おそらく、マンフロイが今の身になる際に使ったものであろう。これで、レィムの暴走を食い止めろと言うのだ。

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