雨ならば継戦不能で撤退、晴れならば余力のあるうちに即時撤退----普通ならばこう考えるべきである。
 確かに晴れていれば互角に近い勝負を挑むことはできるが、雨が降らないでくれる保証などない。激突してすぐに降り出してしまえば元も子もない。そこから撤退すれば被害が大きくなるだけである。それだったら初めから下がった方がよほどマシと言うものである。無理をしてまで挙げられる戦果が大きくないため、賭けに出る必要などないのだ。
「雨だ……」
 天候は、ロプト教徒の言った通りに夜明け前頃から雨となった。
 出るにしても下がるにしても、今日の開戦は早い時間帯になるのは間違いない。撤退しそうなグランベル軍に対し、逃がさなさそうなトラキア軍が放っておかないからだ。
「……」
 そのため、仮眠だけとって起きていたブルームに迫られた決断も早かった。
 理性では信用していなかったロプト教徒の予言。ところが言葉通りに雨が降った。
 問題はこの後である。この雨が続くのか止むのか酷くなるのか。予言では雷雨となると言うことだが、そこまで的中するものだろうか。どちらにしても、止んでくれるというのは甘い考えというものであろう。雨は降り続ける----これには間違いがなさそうだ。
「閣下。準備は整いました」
 夜が明けた頃、決断した上で幕舎を出たブルームを、そんな声が出迎えた。
 腹心の言う準備が何を指しているのかは明白である。 
「出撃! 討って出る!」
 それだけに、ブルームが響かせた下知は天地をひっくり返した。

 トラキア軍陣中----
 朝方になって雨が激しくなった。
 雨天下での戦闘はトラキア軍に分がある。思わぬ幸運で有利に進めてきたこの戦い、女神はまだまだ微笑んでくれている----はずであった。
 ところが、その豪雨と共に、初めて雷が鳴りだした。
「こっこら! 大人しくしろ!」
 雷は自然現象の一つであるが、古来より神聖視される風潮があった。大いなるものの裁きであったり、天の怒りなどである。
 それを最も敏感に感じ取ったのが獣である。トラキア軍の切り札と言える竜騎士が駆る飛竜が一斉に暴れ出したのだ。雨天でも戦えるようによく訓練されていた飛竜たちであったが、さすがに雷相手では恐れをなさないわけにはいかなかった。
「て、敵だぁ……!」
 そしてトラキア軍が混乱に陥っている最中、グランベル軍に突撃をかけられたのだからたまったものではない。
 単純な戦力計算で言えばたとえ竜騎士が不在でもこの雨では決して不利な戦いではないのだが、トラキア人が神聖視している飛竜が暴れていることと、今まで圧倒的優勢だったギャップとがトラキア軍の士気を挫いた。
「天からトードが見ているぞ!」
「オォーッ!」
 撤退と決め込んでいたその兵士たちは突撃命令に半ばヤケっぱちであったが、押せていると見ると士気も一気に向上した。
 もしもブルームがフリージ家の者でなければ、この賭には乗らなかったであろう。雷使いトードの血を受け継いでいるからこそ、この雷雨が"吉兆"という予言を信じたのである。
「マージ隊、敵の竜騎士を煽れ!」
 これまで魔法の雷などでは惑わされたりしなかった飛竜であったが、本物が鳴り響いて恐れおののいている精神状態では偽りの雷でも効果はあった。フリージの雷使い達の魔法で恐怖が増幅された飛竜はさらに激しく暴れ回り、トラキア軍の混乱に拍車がかかった。
 騎士と騎馬との関係と比べて、トラキア竜騎士と飛竜との絆はさらに深い。これは厳しい地形に住まうトラキア人が空を舞う飛竜を神の使者として神聖視している所以である。それが制御が効かない状態に陥ったことは乗り手にも影響を与えた。
 大陸最強の竜騎士と言えど、飛竜に乗れなくてはただの人である。しかも相棒に構って戦闘どころではないとなればただの頭数に過ぎない。グランベル軍の突撃の波にたちまちのうちに飲み込まれた。
 どんな軍隊であっても、勢いに乗れば手に負えないものである。唯一の勝機を見出して必死の突撃を敢行するグランベル軍は、混乱が収拾しきれないトラキア軍が支えきれる激しさではなかった。
「両翼後退、動きが取れるうちに一時撤退する。中央は陛下をお守りしつつ殿となる。急げ」
 守勢に回ったときに真価を発揮する"トラキアの盾"ハンニバルは、この戦いで初めて退却を指示した。
 今までトラキア軍に恩恵を与えて来た雨であったが、事こうなると話は別である。地面の泥沼化が進んでトラキア軍の後退に支障をきたせば被害は大きくなるばかりだからだ。
「ここまで来て怯むな! 貴様ら、また貧しい生活に戻りたいのか!」
 問題はこの人である。
 地上軍の指揮はハンニバルが担っていたが、全軍のそれは国王トラバントにある。大望の実現まであと一歩まで来ておきながら勝機を失することを認めるだろうか。人一倍責任感が強く、トラキアの民の運命を背負うこの国王に、劣勢だから諦めろと納得させられるだろうか?
 烈しい気性の割には柔軟な思考の持ち主であるが、いくらなんでも受け入れてくれそうもなかった。今の今まで貧しいトラキアで耐えてきたのだからこれぐらいの劣勢を我慢できなくてどうする、という主張は一理あるのだが、それで軍が立て直せるほど戦争は甘くはない。
「どうかお下がりください陛下!」
「逃げたければ逃げよ! 奴らごときわし一人でねじ伏せてくれるわ!」
 して、こうなるであろう悪い予感は的中した。
「そこな敵将、わしの……」
「唸れ、トールハンマー!」
「うおぉぉぉぉ!?」
 国王とは、最終的には孤独な存在である。主君と臣下と言う枠引きで仕切れば、王は常に一人である。そのため、王として優れている者ほど、苦境に陥った場合に一人であることを選んでしまう、
 支えきれずに崩れていくトラキア軍の中で、国王だけが踏みとどまって戦おうとした。この一戦の意味を最も深く知っているからこそ、王の立場であるからこそ単騎で立ち向かっていったのだ。
「陛下ーッ!」
 臣下にしてみればたまったものではない。いくら自分たちと違う世界の住人であっても、主君を放っておくわけにはいかない。退却を開始していたトラキア軍は踏みとどまらざるを得なかった。
 かくしてトラキア軍も必死の形相でグランベル軍に打ちかかった。国王を助けたいと言う一心が士気を再点火させたのである。
「泥沼、か……」
 大将同士の一騎討ちで負傷したトラバントを確保したハンニバルが、現在の戦況について独りごちた。
 両軍とも完全にいきりたって斬り結ぶこの戦いには、もはや戦術などが介入する余地などなかった。ただ斬り合い、ただ死んでいく、まさに泥沼の消耗戦に突入しようとしていた。
 本来、消耗戦とは国力が高い方が嫌う戦いである。軍事に偏らせる必要もない大国にとって、勝利を拾うために損害の大きさに目をつぶったりできないのである。文化が豊かであれば、戦争であっても死者を出すことを嫌う。特に大国グランベルともなれば「華麗かつ圧倒的な勝利」は大いに歓迎するが、それ以外の戦争など御免被りたいのだ。
 ところが、ここ数日の劣勢の果て、必死になったグランベル軍はこの消耗戦に勝機を見出してきた。こうなればトラキア軍の方が不利である。北トラキアの支配のためには大きな損害を出すのは避けたいところであった。何しろトラキア側はほぼ全軍で出撃してきたのだから、この戦場での損失は祖国の国力にも直結する。
「全軍撤退、殿は任せよ」
 ハンニバルは今度こそ戦闘の終了を宣言した。幸いにも国王は負傷していたので退却はスムーズに行われた。

 ……グランベル軍の追撃は"トラキアの盾"ハンニバルによって全て跳ね返され、双方の疲労もあってかそのまま戦闘は終了した。
 最終的にグランベル軍が出した戦死者はトラキア軍のそれの3倍に及んだが、最後の一戦だけで形勢を押し戻し、痛み分けに持ち込ませた。
 結局、疲労困憊によって双方ともに戦闘継続不可能になり、翌日以降の戦闘は休止となった。

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