一度止まったものを動かすのは難しい。
  今の両軍はまさにそれであった。
  戦闘を休止して疲労を回復させたものの、体力が回復したからと言ってすぐに戦闘再開と言うことにはならなかった。
  天候は良好な日々が続いていたが、被害が甚大なグランベル軍にはもう一戦する余裕などなかった。しかし対外戦争で敗北するわけにはいかないグランベルは完全な退却もしたくはなかった。こうして睨み合っている間は(外から見れば)五分の状況なのだから。
  一方でトラキア軍も難しい状況にあった。損害そのものはグランベル軍よりも軽微であり、軍の立て直しが終わるとすぐに戦闘を再開させたかったのだが、グランベル側が挑発に全く乗らなかったので小競り合い程度にしかならなかった。虎の子である竜騎士の被害が大きく、晴れ間が続いているために掻き回しが難しくなった。そしてあの雷雨の一日がここまで最高潮が続いていた士気に水をかけたからである。国王が負傷したのも大きい。
  そんなわけで、互いに罵声を浴びせ合うぐらいの膠着した日々が続いた。
  そんなある日----
「よくもぬけぬけと」
  偶然にもブルームとトラバントが唱和することになったのは、一通の書簡が双方の陣営に届けられたからである。
  要約すると、コノート国が双方の和睦を勧めてきたのである。
  グランベル側から見れば、保身のためにトラキアに味方して半島を危険な状況に追い込んだ張本人である。大国グランベル的には"小国主義"は御しやすくて歓迎なのであるが、いくらなんでもこの態度には面の皮の厚さを疑いたくなる。
 また、トラキア側から見ても似たようなものである。そもそも内通を持ちかけたのはコノートの方である。その働きは充分なもので、トラキアとしてもありがたい限りであったのだが、もともとは信用していなかった。何らかの策略であっても構わないような戦い方をトラキアは行ったわけだが、それだけに誠実にカルフを葬ったコノートのこの態度は気に入らなかった。トラキアはもちろん、グランベルにもいい顔をしようと言う魂胆が露骨に現れていたからだ。
 腹立たしいのは同じであるが、一方でどちらもこれを蹴られない事情もあった。
 グランベル側であるが、とにかく損害が大きくこれ以上の戦闘は事実上不可能である。余力はまだあるのだが、勝利を拾うためにいかなる犠牲も厭わないような軍事国家ではない。僅かな戦死者でも批判の声は大きいのだ。大国になればなるほど完璧な勝利が求められるのは、対外戦争に国家の命運を賭けたことがないからである。それに、今回の戦いは必ずしも勝たなければならない戦いではない。トラキア王国の半島北部進出を阻止するのが目的であって、トラキア軍を討ち滅ぼす必要はない。極端な話、和睦が成立すればトラキア軍は撤退することになるのだから、グランベルとしては構わないところである。
 一方のトラキア側であるが、最大のネックは補給である。コノートが中立化したことで、トラキア軍は半ば孤立した状態に陥っている。グランベルとの決戦のためにほぼ全軍を投入しているために後方に拠点を残していない。強いて言えばメルゲンの砦があるが、しょせんは砦であり備蓄はあまりない。一時しのぎにはなっても補給問題そのものが解消するわけではない。
「ここまできて手など結べぬわ!」
 しかしトップが和睦を認めない限りは成立しようがない。ましてや不撓不屈の権化とも言えるトラバントである、最後の賭けを放棄する選択肢はなかった。しかもそんなに確率が悪くないとあってはなおさらであった。
 とはいえ、勝負を急がなくなったグランベル相手では決戦を望んでも焦りが募るばかりである。戦闘に引きずり込む一手を失っているトラキアはペースを相手に合わせる必要があった。ここまでは血気に逸る国王も納得した。
 となれば、こちらも拠点を築いて対抗するしかない。トラキア軍はメルゲンまで戦線を下げることを選んだ。
「ターラの返事はまだか!」
 補給に不安を抱えるトラキア軍だが、そのルートがないわけではなかった。ターラ市である。
 マンスターから半島北部に侵入したトラキア軍であるが、西にあるターラからでも繋がっている。ちょうどメルゲンに出るターラ市のルートは、トラキア軍にとってありがたい限りであった。
 現在のところターラは中立である。軍事国家トラキアと隣接しているが、そのトラキアに経済封鎖を行っているグランベルとの関係もあるので立場の明確化はこれまでされなかった。ただ、密かにトラキアと取引している実績が、トラキアとターラとの友好を思わせた。
 ところが、である。
 グランベル軍と相まみえる前に物資の供給を要求したのだが、今になってもまだ沈黙を通したままなのであった。
 結局、トラキアは"小国根性"についての理解が乏しかったのである。野心はあっても小心であるターラ公爵は、トラキアに助力して躍進を狙うよりも、トラキアに手を貸してグランベルの不興を買う方を恐れたのである。平時に物資を流しているぐらいは大目に見てくれても、戦争に介入するとなると話は別だからだ。
 アリオーンとリノアンとの婚姻を保留された時点で、ターラが洞ヶ峠を決め込むものだと確定できなかったのはトラキア側のミスである。
軍を出して痛い思いをするでもなく、単に物資を出すだけで最高の働きが出来るのは、得なはずである。しかも分が悪い博打でもない。しかしそれはトラキアの考え方であって、ターラのそれではない。冒険ができない人間の考え方というものが、大望に燃えるトラキア人には分からなかったのだ。
「陛下、ご決断を……」
 状況は変わってしまった。
 現状でグランベル軍に決戦を挑んで勝てる保証はない。勝てたとしても、そこからさらに中立を決め込んだコノート軍を討ち滅ぼしてアルスターを再包囲する余力など残らない。孤立したままそれが分かっているコノート・アルスター・ターラに対して、もはやグランベルへの軍事的勝利は政治的意味を失ってしまったのだ。彼らがその後でもう一度手のひらを返せばトラキアの勝利は見えるが、タイミングとしては遅すぎである。国益の点から言えば旨味がなく、それならばグランベルに尻尾を振っていた方がまだいい。
 トラキア百年の歴史の中で、今回ほど出来がいい展開はない。
 マンスターを抜き、コノートと手を結び、レンスターを滅ぼし、アルスターを封じ込め、グランベルの援軍をあと一息のところまで押し込んだ。しかしここまで来ておきながら、兵を引かなければならない。
「……是非に及ばぬ、次こそ目にもの見せてくれるわ」
 こんなチャンスは二度とないかもしれない。
 しかしこれが最後だと決めてしまえば、その瞬間にトラキアは終わる。苦境の毎日を希望のみが支えるトラキアにとって、夢を諦めることは死を受け入れるのと同じなのだ。その人々を導く国王は、その鉄の意志が最も鋭く固いものなくてはならない。
 だから、次はある。
 それがいつになるかは分からないが、トラキア人の夢が叶う日は、いつか必ず訪れる。そう信じて、トラキア国王トラバントは全滅よりも和睦を選んだ。
 
 トラキア軍が撤退することは双方とも承知しており、それ以外のことについて双方の綱引きが行われた。仲介を買って出たコノートを排除して行われたのは、大国同士の交渉の場において小国の利益を考慮する必要などなかったためであり、余計な話を混ぜられたくなかったからである。
 和平交渉の主導権はグランベル側が握った。武辺者が多数を占めるトラキア側に外交に秀でた者がいるわけなく、少なくとも百戦錬磨のグランベルに口で勝てるはずがなかったからだ。
 そのトラキアの主張はただ一点、"経済封鎖の解除"であった。民が豊かになることのみを追求したトラバントにとって、戦争での勝利に相当する成果はこれしかなかった。産業に乏しいトラキアであるが、経済制裁さえ解ければ幾ばくかは楽になる。有利に進めた戦闘と比べればかなりの妥協なのだが、少しでも生活がましになるならばこれ以上の主張はなかった。
 グランベル側としても、トラキアがこれ以外に何も望まないのであれば承諾するしかなかった。頑固一点張りで来る相手に駆け引きなど通用せず、交渉の席はトラキアにはギリギリの選択である以上、この条件を拒否するわけにもいかなかった。突き放せば決戦は避けられなく、怒り心頭で押し寄せるトラキア軍を相手にすれば勝てても甚大な被害を被るのは目に見えている。
 代わりにグランベル側が提示したのは、トラキアとの友好条約の締結である。北トラキアに侵攻するたびにグランベルの援軍に邪魔されてきたとあって、トラキア側はこの提示には乗り気ではなかったが、外交問題である経済封鎖の解除について具体的な形を用意した格好である以上は拒否のしようもなかった。

 ところがこれがグランベルの罠であると気付いたのは、和睦が成立してトラキア軍が撤退した後であった。
 妹エスニャとの関係でアルスター入りしたブルームは、そこで北トラキアの王権を主張し、そのまま兵を進めてレンスターを制圧してしまったのだ。
 しかしこれに反発できる勢力もなかった。レンスターとマンスターは軍が全滅し国王が戦死し、コノートは国王が病死して後継者不在で事実上の断絶、アルスターは王妃がブルームの妹とあってはどうしようもなかった。仮に拒否できたとしても、衰え著しい四王国ではトラキア軍の次の侵攻を自力で支えられるわけがなく、結局はグランベルに庇護を求めるしか他がないのだ。
 強引に傘下に組み込むこの手口は、大国グランベルらしい手口ではあったが、フリージ家にしては珍しく武人であるブルームには似つかわしくなかった。このスムーズな事の進めようを知った帝国の民は、あらかじめ書かれたシナリオの存在と、フリージにアグストリアの玉座が与えられなかった理由を知ったのである。
 この漁夫の利にトラキア王国が怒ったのは言うまでもないが、既に友好条約を結んでしまったためにどうしようもなかった。しかも標的である北トラキアの地が"友好国"グランベル領となってしまっては大望が永久に封じられたに等しい。
 しかしその怒りがまさに爆発しそうになった頃に、経済封鎖が解除されて安い食料が流れ込んで来るとあっては矛を収めざるを得なかった。このアメとムチの使い分けはグランベル外交の真骨頂であり、些細であっても分配された食料に喜ぶ民の姿を想像すればトラキアに同盟と北トラキアの既得権を享受させることになった。
 トラキア王国との関係を清算したブルームは、"北トラキア・フリージ連合王国"を建国し、その初代国王として玉座に登った。
 名前の通りこの新王朝は中央集権体制ではなく、既存の体制を統括すると言う形でさらに上位の存在を作ったのである。アルヴィスが皇帝となった際、既存のものを動かさなかったのを手本にした格好となった。
 王都はコノートに置かれた。レンスターと予想する声が多かっただけにやや意外であったが、土地の肥沃さ、大河による防衛力を考えれば最も相応しい地であると言えた。コノート王家が滅びたので統治がしやすいと言う好条件もあった。
 そのコノートの親衛隊長であるレイドリックは、マンスターの領主を任じられた。国王病死後のコノート軍を率いてトラキアに寝返り、そしてグランベルとのバランスを考えて中立に戻って和睦を進めてくるなど、何かと危険な男である。有能であっても祖国のためなら再びグランベルを裏切りかねない以上、この男をコノートに置かない方がいいと判断した故に今回の抜擢となった。
 レンスターには腹心であるグスタフ侯爵を配置し、統治にあたらせた。北トラキアの盟主を自負していたこの地の民が反抗的なのは目に見えており、新領主グスタフの統治方針が強気になるのは当然の帰結であった。国王が武人である以上、"治安維持"という単語の意味が烈しくなるのは仕方がないことなのだ。また、行方不明であるリーフ王子の捜索も重要であり、反乱の旗頭として担ぎ出される前に殺しておかないと大変なことになる。そのため捜索もまた烈しいものになるのはやはりやむを得なく、その事そのものがレンスター人の反感を買うことを承知していてもやらざるを得ない。難しい統治になるだろうが、そこはフリージ家の信頼篤いグスタフ侯爵の手腕の見せ所と言えよう。
 唯一、国王が健在であるアルスターはそのまま残された。王妃がブルームの妹である以上、フリージ家はアルスターの外戚である。特に何もしなくてもフリージ家の傘下であるに違いなく、特に手を出す必要がなかったのだ。
 中立を宣言したターラ市については、とりあえず自治を認めた。もともと四王国の枠組みに入っていなかったせいだが、だからと言ってそのまま永久の独立まで承認するほどグランベルは甘くない。グラン暦771年にターラ公を反乱の疑いで処刑し、"代理公主"を送り込んで掌握に乗り出すことになる。ただ、その事件の理由が大きなものであったためかターラの横取りは不十分なものとなり余計な火種を抱えることになる。
 グランベル本国にあるフリージ公爵家はヒルダが面倒を見ることになった。領地管理能力が極めて秀でている彼女であれば女性であっても公爵位に相当する働きぶりが期待できるだろう。また、舞踊の名手であり社交界に絶大な影響力を持つヒルダはその力を生かして本国でするべきことがあった。ブルームとヒルダの子であるイシュトーとイシュタルとを、帝国皇太子ユリウスと皇女ユリアとに近付ける工作である。これは帝室ヴェルトマー家一門の出であるヒルダにしかできない芸当であるため、彼女の本国残留は絶対に必要であるからだ。
 
 グランベルとトラキアとの友好関係は皇帝も追認し、正式な同盟関係が締結された。
 大陸統一の具現であるグランベル帝国にとって、不毛なトラキアの地は統治するに値せず、それならば国家として認めて任せてしまった方が利点は多かった。
 結局、アルヴィスとトラバントの二人は最後まで顔を合わせることはなかった。大陸を代表する大人物同士の会見を望むのはいつも皇帝の方であったが、トラバントは常に断り続けた。封じられても炎を消すわけにいかない大望のため、個人的にグランベルと親しくなるのを忌避したからであった。
 ただ、代わりに王太子アリオーンをバーハラの士官学校に留学させることで回答とし、アルヴィスの顔も立てた。義理堅さとは縁が薄そうなトラバントであるが、夢と関係がないところでは温和な人物であることを表す一つのエピソードとなった。ちなみにそのアリオーンは士官学校で父譲りの才能を証明したが、友人を多く作るタイプでなかったために友好の架け橋となったかどうかは微妙である。
 トラキアの最大の関心であった経済封鎖の解除は律儀に守られ、民の生活水準はやや上昇した。産業に乏しいトラキアでは国が豊かになるにはほど遠いが、とにかく餓死を心配する必要はなくなった。労苦の割には微々たる前進だが、外征の結果としては初めて形として残ったのである。トラキアの民は国王を讃えた。なお、己の意志で前進・完結する気風であるトラキア人の心には、封鎖を解除したグランベルへの好意はあまり芽生えなかった。もともと、ただ自らの力による打開を目指すトラキア人には憎しみもなかったために、グランベルとの関係は距離感のみを残して平穏な状態で落ち着くことになった。
 
 グランベル本国は、遠征軍がもたらしたこの結果を大いに歓迎した。これでグランベルの対外戦争は全て完結したことになり、大陸統一と恒久の平和が達成されたのである。地図上ではシレジア王国とトラキア王国とが存在するが、グランベル人にとってそんな"地の果て"は版図に計上する必要がなかった。そこは地は接していても大陸の外、という考え方が両国との関係を出迎えたのだ。
 遠征軍が被った被害の大きさには若干の批判もあったが、これが最後の戦いだと言うことで片づけられた。また、遺族への篤い保証を皇帝が確約したことで批判の声はそれ以上に大きくなることはなかった。
 ただ、遠征軍の論功行賞において皆が一斉に訝しむ場面があった。その中にロプト教徒の名があったからである。皇帝によって信教の自由が認められた彼らが遠征軍に同行したと言う話は聞き及んでいた者も多くいたが、多大な功績を挙げるなどとは思いもしなかったのだ。
 ブルームもロプト教徒など推薦したくなかったのだが、雷雨を予測して軍を窮地から救ったのは間違いなく彼の功績である。それに皇帝の手前、その功を認めないわけにもいかなかった。皇帝の性格が信賞必罰に煩そうなのもあるが、ロプト教徒であることを理由に握りつぶすのは皇帝の勅令に背くのと同じ意味である。帝国の利益になるのなら迎合するにやぶさかでないブルームとしては、嬉しいニュースを作っておくのも悪い話ではなかった。
 そしてそのロプト勢力は、具体的な形で世に出たことを大いに喜んだ。好意的なエッダ司祭を抱き込んでまで行った工作は見事に実を結んだのだ。現在、その代表者(の代理)はミレトス地方で活動しているが、中央に足掛かりを築いたことがどれだけ大きな躍進かよく理解し、次の手を打つことだろう。先は長いが、彼らの大望はまた確実に前進を続けている。

 グラン暦762年、ユグドラル大陸は事実上の統一勢力で染まった。前身の王国時代から目指してきた覇業とそれによる平和を求める声は、ついに達成されたのだ。
 皇帝アルヴィスはまだまだ若く、磐石な統治体制を築き上げるにはまだまだ時間がある。人々は、この帝国が恒久の平穏と安寧をもたらすことを本気で信じていた。
 世界は、眩いばかりの光に満ちあふれていた。光は、その影に闇を生む事実に気付くことなく、ただ栄華を誇っていた。

(第7章・完)

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