「ええぃこんな時に!」
 戦闘には、始まった時点で勝敗が決しているケースがある。兵力であったり士気であったり、奇襲が成功したときなど相手の戦闘準備が済んでいない一方的な場合もある。
 不利な方はそんな状態での戦闘開始は避けたいところではあるのだが、やむを得ず突入しなければならないから戦闘は発生するのである。
 ブルームの声は、まさにそれであった。
 押し寄せるトラキア軍に対し、グランベルの遠征軍は押しまくられた。士気こそは敵に分があれども、装備の質や練度においては優っているグランベル軍。しかしそんな彼らであっても地の利と言う条件の前には無力であった。
 それもこれも、雨のせいである。
 この季節、この地方は雨が多い。それはブルームも承知の上であったが、まさかここまで雨天が続くとは予想外であった。ダーナを経てトラキア半島に足を踏み入れてすぐ、この長雨のせいで進軍の停滞を余儀なくされた。
 メルゲン周辺は荒地が続くのだが岩場が多いせいか水はけが悪く、この長雨がたたって行軍路が泥濘と化していた。遠征で疲れている上にこれである、足は途端に鈍くなった。
 そしてそんな時にトラキア軍と遭遇したのである、戦闘には条件が悪すぎた。
「敵竜騎士隊左翼! 敵地上軍右翼! 回り込まれます!」
「ちぃっ! 耐えろ!気合で耐えろ!」
 竜騎士はともかく、地上軍についてはトラキア軍も足場の悪さは同じ----と思っていたが、蓋を開けてみればとんでもないハンデがついていた。
 まず最も弊害が出たのはグランベルの騎馬である。この泥濘では持ち前の機動力が完全に殺されてしまい、その価値は半減していた。
 もう一つは重装歩兵である。しかもその中には遠征軍の主力を努めるフリージ軍の最精鋭は、鉄壁の装甲に身を固めてしかも魔法を使う「グランベルで最も強力で高価な軍団」も含まれていた。ところが、その重装甲が災いして身体が泥沼に沈み、こちらも同じくまともに動けない状態であった。高機動を要求されるような部隊ではないが、方向転換すらスムーズにいかないのでは洒落にならなかった。
 一方で、トラキア軍への影響は少なかった。祖国の複雑な地形を考えれば、その軍隊に重装甲は邪魔なだけである。武器はともかく防具までにはかける金がないというのが本当の理由であろうが、とにかく軽装の地上軍はこの条件下で有利に働いていた。
 また、ブルームにしてみれば竜騎士も予想外の一つだった。即死が免れないと言う点で騎馬と比べて落馬が怖い竜騎士は、本来は雨天で運用するべきものではないのだ。雨のせいで飛竜が暴れれでもすれば一騎欠けるわけだから、こんな天気では使ってはならないのだ。
 ところが、トラバントは竜騎士を惜しみなく投入してきた。この強攻策はブルームが知るよりも飛竜が訓練されていた理由もあるが、この戦いは多少の被害は厭わないと言うトラキア側の決意の表れなのだろう。
 騎馬と重装歩兵が足を取られるグランベル軍。軽装な者と言えば魔法使いぐらいであって、これを機動戦力にするのは無理がありすぎた。
 結局、太陽がついに顔を出さないまま没して暗くなるまで、グランベル軍は一度たりとも攻勢に出ることはできず、大きな被害を出して一日目の戦闘を終えた。
「この条件下では戦闘になりません。いったんダーナまで後退し、天候が回復するのを待つべきかと」
「それはできん。退けばアルスターは保つまい、明日もこのまま行くぞ。全軍、軽装で臨めと伝えろ」
 どちらが正論かと言えば前者の方であろう。この雨の中では何日続けようとも勝機は見えて来ない。ブルームの言う通り、重装甲を捨てれば幾分かはマシになるだろうが、軽装・高機動の戦い方を熟知しているのはトラキア軍の方である。それで翻弄する動きにはついて行けるかどうか保証がない上に防御面の脆さをさらけ出しては、明日も不利な戦いを避けられないだろう。
 だが、ブルームの言う通り、後退できない理由もあった。
 北トラキア四王国の中で唯一つ頑張っているアルスター王国にとって、グランベルからの遠征軍は唯一の光である。彼らがこの一戦に注目しているのは間違いない。もしも撤退などしようものならアルスターは意気消沈してトラキアに降伏してしまいかねない。ただ、ブルームの主張の中には妹エスニャへの気持ちが含まれていたため、指揮官の判断として押し通しはしたものの論理根拠としては乏しかった。

----翌日。
 側近が危惧した通り、戦況は好転しなかった。重い鎧を脱ぎ捨てることで容易に横を取らせることはなくなったが、その分だけ全体的に脆くなった。
 そんな中で、一つだけ光明が射したことがあった。雨がやんだのである。
 地面の泥濘はそんな程度だけでは変化はないが、時間が経てば回復する。このまま続けば神の意地悪としか言いようがない地の利の悪さも覆せる。結局はこの日の戦いも劣勢のままであったが、その夜の月を見ながらの軍議は明るいものになっていた。

----3日目。
 天気はこの日も悪くなかった。晴天にはほど遠いが、雨だけは降っておらず、地面もかなり乾いていた。グランベル軍はこれならば重装甲でも問題ないと装備を戻した。
 ところが、戦闘開始直後に窮地に見舞われた。今まで鬱憤が溜まっていた騎士が、借りを返さんと士気最高潮で突撃を敢行したのだが、いきなり隊列が乱れて混乱に陥ったのだ。
 原因は、やはり雨のせいであった。地面こそは乾いていたのだが、泥濘の中で二日間も繰り広げられた戦場はその足跡が刻まれたまま乾いてしまっていた。つまり穴ぼこだらけの地面は、普通に歩く程度なら問題ないが、騎馬が駈けるには弊害となった。突撃しようとしたものの、この穴に躓いて転倒・落馬する騎士が続出し、彼らは戦線から突出した状態で立ち往生を余儀なくされてしまったのだ。
 目の前で醜態を晒している敵を放っておいてくれるほどトラキア軍は甘くない。天候が回復して有利な条件が消えつつある事を危惧していた彼らにとって、グランベル軍の自滅につけ込まない手はなかった。号令一下、突出しているグランベル騎士隊に殺到した。
「前進! 見殺しにするな!」
 ブルームの命令は当然のものであった。ただでさえ機動力に振り回されているグランベル軍が騎兵を失うわけにはいかない。機能しなくなった騎士達を中心に両軍入り乱れる大乱戦となった。
 だが、混戦が苦手なのはグランベル軍の方である。魔法を核とするフリージ軍が主力である以上、魔法に集中できない乱戦は歓迎できるものではなかった。こうするしか他に手がなかったとは言え、またもや劣勢を強いられることになったのである。
 それでも、ここ二日よりも善戦できたのは収穫であった。騎士の突撃を封じたまま臨めば互角に戦えるようになったのだから。この3日間による損害は目をつぶれる程度ではなかったが、グランベルの誇りが士気を持続させていた。

----4日目。
 昨日見えた光明は幻だったのか、ここに来てまたもや雨に見舞われた。
 天候が良いことを拠り所としていたグランベル軍にとって、この雨は重くのしかかった。雨天での戦闘は想像よりも体力を消耗するものだが、これまではグランベル帝国の意地が保たせていたと言っていい。しかしこの無情の雨がついに限界の線を越えさせた。士気を挫かれた肉体に、強烈な疲労が襲った。
「くっ、やむを得ん、退け!」
 この戦いで初めてブルームが後退を命じた。
 グランベル公爵としての意地と妹への愛情がいくら大きくても、この戦況が如何ともし難いものであることは認めざるを得なかった。
「トラキアの明日はそこにあるぞ、決して逃がすな!」
「オォーッ!」
 もちろん、トラキア側にしてみれば追撃は当然の一手である。せっかく気まぐれな天候が味方してくれているのだ、ここは強気に行くべきであろう。
 しかし雨は降っているとは言え昨日晴れていた後の雨、地面が行動を大幅に制限するようになるにはまだ時間がある。グランベル軍の後退にはまだ大きな影響を及ぼしていなかった。裏を返せば、トラキア軍にしてみればここが捕まえどころである。追撃して足止めし、地面の状態が悪化して後退すらできない状況下に持ち込めばあとは思うがままだ。
「俺が殿に行く!」
 勝気なトラキア軍が隊列軽視・速度重視で殺到してくるのが、反撃の好機だとブルームは見抜いた。だが一太刀は一太刀に過ぎず、後退の方針そのものまで覆せるほどではないとも見抜いていた。軍を返そうとしなかったのはそのためであった。
「閣下、お下がりください! ここは我等が!」
「これ一発だけだ、前を開けろ!」
 兵士達の声はもっともである。ブルームは彼らが殿を努めるのに不満があるわけではなかった。だが、よく支えてはくれても反撃に転じるまでは無理な話であろう。そこまで統制のとれた動きができるような状況下ではない。
「ユ……リウフ……ミセ・ソゥム……」
 フリージ家の人間は、伝統的に戦うことを好まない。
 心の奥底に悪魔を飼うフリージ家は、戦うことでそれを呼び覚ますのを恐れて温和な家系であることを選んだ。
 しかしこのブルームだけはあえて武の道を選んだ。修羅場に慣れる事で悪魔を抑え込む心の強さにしようとしたのだ。最近のグランベルでは珍しい精神論重視の将軍であるのもそれ所以であろう。
「……ヨェン……ファムン……」
 雨で視界が悪い中空、殺到する敵のところで縦に裂け目が走った。
 雷魔法の最高位は、雷を招来する類ではない。異世界との通信手段である。
「魔王よ、我を食め! トールハンマー!!」
 裂け目がさらに強く走り、ついに空間に穴が開いた。ヴォン……という重苦しい震動音と共に、雷を纏った黒い球体がそこに現れた。
「危険だ、離れろ!」
 異様さに気付いたトラキア軍指揮官は口々に退避を叫んだ。しかしもう遅かった。
 魔界から持ち込まれたものかあるいは異界の門をくぐった際の摩擦であろうか、大量の雷を纏っていたそれは、人間たちが逃げ出す前に力を開放した。
「……よし、行くぞ。今のうちだ」
 その人外の力を目撃した両軍兵士が凍りつく中、ブルームただ一人が平静のままであった。すぐさま退却の再開を命じ、足がすくんだトラキア軍との距離を開けに入った。
 突出した部隊が叩かれただけとは言え、出鼻を挫くには充分すぎた。あんなものを見せられては、トラキア軍の足が止まるのはごく自然な結果であろう。追撃は緩めざるを得なかった。
「大丈夫でございますか!?」
「あぁ……」
 魔そのものと交信するトールハンマーは、危険すぎる魔法である。これを理性で抑え込み続けるにはとんでもないほどの精神力を必要とされる。歴代の継承者が出来るだけ使わないようにしてきたのはこのためであった。ブルームはそれをあえて回数をこなす事で慣れるようにしてきた。おかげで1発程度では何ら心配いらないが、全体的な気だるさだけはどうしようもなかった。
 フリージの血が続く限り、トールハンマーを受け継ぐ限り、悪魔との契約は更新される。しかしそれでも、公爵家としての血を絶やす事などできない。次の当主となるであろうイシュトーとイシュタルもまた、精神の奥底での激しい戦闘を強いられる事になるだろう。不憫な事だが、避けられない事なのだ。

----その夜。
 ブルームの一撃が功を奏し、何とか追撃から逃げきったグランベル軍。しかし、改めて被害を計上してみたところ、どう考えても戦闘続行不可能としか言いようがなかった。
 グランベルには全滅と言う言葉はない。国が大きくなればなるほど、被害を最小限で抑えようと言う気になるものである。何しろ、「国家の命運を賭けての戦い」などやったことがないほどの大国であるグランベルにとって、全滅してまで挙げなければならない勝利など存在しないのだ。シグルド軍の襲来で擬似的なものは味わう機会はあったが、あれはあくまで内戦であって対外戦争ではまだない。
 そんな価値観で考えれば、これ以上の被害を覚悟してまで不利な戦いを続ける理由などどこにもなかった。戦闘続行不可能と言う見切りの早さも、グランベル特有のボーダーラインの高さであろう。
 雨は夕方ごろにはもう止んでいた。このまま天気がもってくれれば、明日の立地条件はさして悪くないだろう。戦うには悪くないが、それはあくまでもこのまま雨が降らなかった場合である。しかも、今日それに期待して痛い目に遭ったばかりである。後退のタイミングを一日誤ったのは、天気に期待したブルームの判断ミスであった。
「恐れながら、ダーナへの後退、もはややむなしかと」
 勧める案は初日の夜と同じであったが、今のグランベル軍は同じ理由で蹴られるような状態ではない。
「……」
 しかし、ブルームは引くに引けなかった。皇帝から全権を任されて遠征軍を率いてきた身であることと妹エスニャの救援に行かねばならない個人的事情が、敗北を認めさせないのだ。理性で悪魔を抑え込む父と違って本能を慣らすことを磨いてきたブルームの、効果的ではあったが融通が利かなくなった結果である。
 いったんダーナまで下がってしまえば、再出撃は難しい。なまじ落ち着いて緊張感から開放されると、気合を入れ直すのは難しいのである。いくら休養をとっても同じ条件で挑めば士気が上がらないのは目に見えている。となれば本国からの増援を仰ぐぐらいしかない。まさか雨期が過ぎるまで待つわけにも行かない。
「……ロプト教徒どもを呼べ」
 敗北を認めたくないブルームの、その認めたくない部分とは、心のどこかにある引っ掛かりであった。ただ単に引っ掛かりを錯覚することで踏みとどまっているのか、あるいは良く言えば武人としての勘みたいなものが、ブルームの心の中、この悲観的状況下で小さく灯っていた。
 皇帝勅令とあっては容認せざるを得なかったとはいえ、ロプト教徒を陣中に招くなど皆にはもっての外であった。陣列に加えたのはブルームの意向であり皆も従ったが、それはあくまでも同行を許しただけであってこの幕舎に足を踏み入れることまで同意したわけではない。
 この状況下でそんな得体の知れない者を呼んでどうするのか。良く言えば未知の力にすがるわけなのだが、そういう怪しげなものに傾倒した国家や軍隊は死期を早めるのが歴史の常識と言うものである。
「信徒ピネレス、ここに参向……司令官殿、我に如何なる用ありきや……?」
 そういった配下の心配を余所に、まさにその怪しさ満点の雰囲気で現れたロプト教徒に、皆は一斉に眉をひそめた。
「無礼者! 公爵殿を前に顔を隠したままとは何事か!」
「ロプトの教えにてこのままにて失礼仕る……」
 台詞の腰の低さは良しとしても、その他は完全に皆の気に障った。しかもその台詞そのものも怪しい雰囲気を纏っていたので及第点にはほど遠かった。
「まぁいい、そんなことよりも聞きたいことがある」
 気にしていたらきりがなさそうなので、ブルームは本題に入った。
「明日の天気は、晴れるか?雨か?」
 戦闘を続けるためには、晴れている必要がある。いくらブルームでも、これ以上雨に見舞われてはどうしようもない。
 この季節、雨が多いことは知っている。しかし降らない日もある。土地の者ならある程度は把握しているが、正確なものは分からない。
「恐れながら、雨……なれど、閣下には吉兆……」
 珍妙な回答が返って来た。
 晴れ以外に有利な条件は存在しない。しかしこのロプト教徒は雨が降るが吉兆と答えた。
「虚言を弄すな。貴様を疫病神として葬って全軍の士気の糧にしてやるぞ」
 ロプト教徒への偏見は今でも大きい。彼らが軍に同行していたから不幸な雨に見舞われた、と言えば兵士も信じるだろう。上手く立ち回れば軍の鼓舞に使える。
「詳しく申しますれば……今夜はこのまま晴天、未明より雨が降り出し、朝方には雷雨に……」

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