アルスター王国。
 今や北トラキア最後の砦となったこの国は、奇妙さという点で他の三王国と一線を画していた。
 結果的に四者四様の対応を見せることになったが、その中でアルスターは目立たなくともしたたかだった。
 そもそも、この国はトラキア王国軍の侵入に対し、軍を出さなかった。戦力としては弱小でさして期待されていなかったとは言え、ないよりあった方がいいに決まっている。しかしアルスターの旗がトラキア軍と交じりはしなかった。
 理由はある。グランベルからの援軍を呼ぶための調整と、その行軍路の整備である。この役割は四王国の地理的な配置から自然と来ているのだが、それと同じぐらい自然に理由を隠れ蓑にしたくなるものであった。
 グランベルという友好的で大きな力が側にあると、自国の強大化など望まなくなる。長いものに巻かれたり大樹の陰に寄るのは楽だからである。費用や労力や時間の対効果を考えれば、自力を付けるのよりも遥かにお得である。
 なので、トラキアの気配を感じる度に"グランベルへの頼り方”を身につけていった。他の三王国が激しい傷と経験を糧に試行錯誤して対トラキアの戦術を会得していく一方で、建国当初は四王国最強だったはずの騎士団は今や完全に形骸であった。
 そして、ここ百年で最大の危機が訪れようとすると、この方向性は再転換することなく加速することになった。アルスター国王エインは、仲睦まじい王妃と離縁してまでグランベルとの婚姻関係を求めたのである。
 北トラキア四王国では、レンスター王国がシアルフィ公家と縁組していた。ただ、シアルフィ公家の謀叛とキュアン王子の便乗を鑑みれば、これはグランベル王国との婚姻関係とは言い難い。キュアン王子とエスリン公女との単なる恋愛結婚か、あるいは野望を前提とした血盟としか考えられない。アルスターのように、国益を重視した国家同士の婚姻ではないのだ。
 そういった外交関係の締結は、四王国ではあまりいい顔をされない。トラキアの脅威に対してある意味で運命共同体であるため、他との関係は四王国の繋がりを疎かにされた気になるのだ。対グランベルの窓口であるアルスターは交渉役として多少の融通は利くものの、政略結婚などという明確な手段は取れなかったのだ……従来は。
 しかしキュアンが横死し、盟主に近い存在だったレンスターの力が弱まると、外交の拘束は緩くなる。四王国としての将来に不安を覚えたアルスターは方向転換し、独自の生き残り策を立てた。それがフリージ公女エスニャを王妃に迎える事であった。
 公式には伏せられているとは言え、他人の子を身籠もっている女性を王妃として迎えるなど前代未聞である。一応は出産を待ってからとなったが、それを差し引いたとしてもなりふり構わない姿勢が窺えた。
 アルスター入りしたエスニャは、”グランベルの傘”の具象体であった。様々な面においてグランベルの恩恵をアルスターに与える事が彼女に期待されていることであった。
 そして、トラキア北上の報が届いた。彼女の出番である。
 国王エインがグランベル帝国に対し正式に援軍を要請する一方で、エスニャは兄ブルームに対して兄妹として手紙を書いた。妹想いのブルームの性格ならばむしろこう言った私的な文書の方が効果が高いのである。エスニャの性格上、それを計算してこの手段を選んだわけではないが、”嫁に行った妹からの兄への手紙”に勝利を確信していたのはさすが宰相の家系と言ったところか。帝国からの公式回答が来る前から、エスニャは新しい夫に勝算を告げていた。
 となれば、アルスター王国の方針は決まったようなものである、時間稼ぎしかない。レンスターへの援軍など出さずに、アルスターに籠城することを決めたのであった。
 
「堅いな、こうまで手こずるとは思ってもいなかったわ」
 籠城のアルスターを包囲したトラキア軍。すぐさま攻城を開始したが、思ったよりも堅牢な守備に舌を巻かざるを得なかった。
 アルスター城は高地の上にあり、地形的に守備に向いている。竜騎士には高さなど無関係だが、地上軍はそうもいかない。いくらトラキアの地に生まれ育って山岳戦は得意であっても、攻城戦となると一筋縄にいかない。しかも季節柄かこれに悪天候が重なったために視界が悪く、攻城兵器も期待したほどの成果を挙げられなかった。
 ただ、足踏みを強いられてはいてもトラバントの表情には険しさがない。レンスターまで抜いて気が良いせいであるが、アルスターを無理して攻め落とす必要がないせいもあった。
 小国は滅ぼさなくても従属化させられる。レンスターのように因縁が深い相手ならばそうも行かないが、アルスター程度ならば戦力差を確定させられれば勝負は決まるものだ。マンスターに対しては国王を討ち軍を撃破したが城までは攻めていない。無力化さえすれば危険はなくなるからだ。
 その意味でアルスターも同様である。このまま籠城したとて自力で追い返せるわけではない。ただ単に、グランベルの援軍をあてにしているからだ。裏を返せば、その望みの綱さえ断ち切ってしまえば勝手に白旗を揚げて来る相手なのだ。もちろん、その前に落城させられればそれに越した事はないが、出来なくとも話が停滞するわけでもない。包囲していると言う事実そのものが、グランベルをおびき寄せる餌となるのだ。
「グランベル軍の進発を確認しました!」
 その報に、天槍グングニルの穂先が西を向いた。トラキア王国の、最後の戦いが訪れたのだ。
 アルスター城の包囲はコノート軍が引き継いで行う事とされた。もっとも、戦力としてさしたる規模ではない以上、本気の攻城は無理な話である。下手な動きをさせないために監視するのがせいぜいであった。これは、味方にはついてくれたものの何かと使いづらいコノート軍の最大限の活用法であろう。どうやっても溶け込めない北と南が共同戦線を張るならば、別行動を取らせるしか手がなかったのである。100年と言う月日がもたらせた価値観とは、かつての同胞をこうまで憎しみ合わせるのかと痛感させられたのだ。これにはトラバントも渋い顔をして考え込む事となった。結局、その解決策が浮かんだのかは誰も知るよしもなかったが。
「北と南、教育を同一にするしか手はないかと思われます。そのためには北の者を南で育てるのが何よりでございましょう」
「わっはっは、この嘘つきめ。お前の人攫いがそんな善行なわけないだろうに」
 行軍中、ハンニバルとそんな話をする。
「それと陛下、レンスター戦でのような無茶はなさいませぬよう。このハンニバル、息子の肝を贄に捧げてでもお願い申す」
 レンスター軍を撃破してさらに意気上げたトラキア軍。しかし国王が単騎で囮になったことは家臣の肝を充分に冷やした。
「王の評判を下げたことには何も言わないのか、酷い家臣だな。どうせ生贄に出すならそれよりも次の戦勝を祈願して、とか言えんのか」
 トラバントは冗談が嫌いな性格だったが、このハンニバルに対してだけは長い付き合いのせいか軽口の叩き合いになる。
「何を今さら……悪名が増えることなど厭わない御方なのですから。臣が申し上げているのは策をあんな用い方をしたからです」
 キュアンの首を餌にレンスター軍の統率を乱す作戦を言い出したのは、実はハンニバルの方である。
 イード砂漠での奇襲後、戦利品として持ち帰ったキュアンの首。それをわざわざ保存したのはトラバントの趣味であったが、戦いに持ってきたのはハンニバルである。これを掲げればレンスター軍の足並みは必ず乱れると踏んだからであった。
「言っておくが、アルテナを連れてきはしたが、はなからレンスター城に開城を迫る気まではなかったのだぞ。わしはお前と違って娘がかわいい」
 いつも二言目には子供を人質に差し出すハンニバルへの皮肉であったが、効果はなかった。むしろ作戦の不採用の理由に対して残念な表情をした。
「陛下らしくございませぬな。目的のためならば血を分けた肉親の命をも厭わない、どんな悪評も厭わない意志の強さが陛下の美点でありますのに。トラキア百年の夢よりも姫様が大事とは、このハンニバル、少々失望しましたぞ」
「ふん、貴様と違って欲望の対象ではないわい」
  ハンニバルは独身であるが、多数の養子を抱えている。その内訳は圧倒的に男の子が多いため、ハンニバルは稚児趣味の人と噂されている。王国きっての武人でありながら、養子たちに武を受け継がそうと言う気は全くないらしく、「父上」ではなく「父さん」とは呼ばせている点からそれが伺える。親子としての情愛がないから気軽に人質に差し出せる、それはきっと飽きたからーーとささやかれている。
 もちろん、王国の宿将相手に面と向かって言える者などいない。噂はハンニバルの耳にも届いてはいるのだが、よそで話していることについていちいち首を縦横に振る気もなかったので真相は不明である。ただ、国王トラバントが戯れ目的でよくこの話を持ち出すので国内ではハンニバルの性癖は半ば国王公認である。
 トラバントは、個人の性癖については一切関知しない人である。国を豊かにすると言う目的のためならば何でもするトラバントにとって、国へ多大な貢献をしているハンニバルが個人的に問題がある人物であっても咎める気は全くなかった。これはトラキアと言う貧しい風土の特徴とも言えた。才能以外についてとやかく言う余裕などないからである。
 ちなみにグランベルのように”格”を重視する貴族社会ではそうもいかない。余裕がある分だけ才能以外に口出しできるからだ。前身のグランベル王国も、そして今の帝国であっても、上に立つ者にはそれに相応しい格が必要とされる。ハンニバルがもしグランベル人であればどれほど有能であっても一将軍ぐらいが関の山であろう。醜聞好きの貴族社会では彼の性癖はいささか分が悪いからだ。もっとも、いったん高い地位を得てしまえば何をやっても許されるのもグランベルではあるのだが……。
 大内戦があった後である、孤児などいくらでも転がっている。レンスターを攻略したときに多くの兵士が宮女に群がっていた一方で、ハンニバルは教会を訪れている。目ぼしい少年がいないか探しに行ったのだ。教会側としても、里親が来てくれるのはありがたい限りであった。それも名のある将軍のところに出すとなれば、リストの中から特に秀麗で聡明な子を選んで紹介することになるという寸法。端から見れば、戦災孤児を引き取って自分の子として育てる武人、とは美談である。そしてその正体が何であるかは他人の知るところではない。

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