レンスター城--
「まったく不甲斐ない者たちばかり、こんな国、さっさと滅びてしまえばいいのですわ!」
 ラケシスの危険な発言。しかし周囲の者にはそれを押しとどめようとする気力もなかった。
 カルフ王の軍が敗れたことやコノートが裏切ったことなど、凶報の詰め合わせを一挙に受け取ったレンスター城。留守を任された僅かな者の願いも虚しく、先に現れたのは退却中の国王の軍ではなくて敵であった。
 降伏勧告もなく総攻撃を開始したトラキア軍に対し、レンスター城には防衛しきるだけの戦力も士気も残っていなかった。ましてや攻城兵器が豊富でしかも竜騎士による立体的な攻撃が可能なトラキア軍の攻城は、大陸で最も苛烈であった。
「あぁキュアン様、エスリン様、どうか私をお守りください……」
「まったく見苦しいですわフィン、騎士ならば潔く散ってきなさい!」
 シグルド軍に参加して大きな経験を積んだはずのフィンであったが、窮地に陥ると祈りを捧げてすがる癖は直らなかったらしい。戦況の打開は不可能ではあるが、こういった態度はラケシスの気に障るらしい。逆に覇気だけは途絶えることのない姫君の周りには自然と人が集まりだしていた。とは言えもはやどうしようもないのでラケシスも具体的な指示は出さず、息巻いているだけではあったが。しかしそれでもその覇気が多くの者の心を救っていた。
「イヤだ、俺は逃げる」
「な……!」
 いかに絶体絶命の状況とは言え、逃亡を考える者は騎士ではない。気弱なフィンではあってもそれは同様である。しかも声の主が個人的に嫌っている男だったから怒りの度合いは倍になった。
「都合の悪いときは傭兵気取りか、自由騎士殿……!」
 傭兵たちの中にはそう呼ばれる人種がいる。騎士としての礼法や実力を備えながら騎士の誓約に囚われない者たちである。かい摘んで言えば忠誠を誓うべき主君に出会えないために傭兵に身を落としている浪人である。
 とは言え、その解釈は彼らの方便であり、騎士から見れば今の言の通りの身勝手な存在である。いくら忠誠を誓っていなくとも、傭兵とてレンスターの禄を食んでいるには違いない。仮にも(自由)騎士を名乗っているのなら保身のために逃げるなど言ってはならない。
「言いたい事は分かるがな。だがな、殴る前に外を見ろ」
 その自由騎士、窓枠にもたれかかっていた大男が顎を杓って外を促した。その仕種もまたフィンを不快にさせるのだが、先に動いた兵士が哀しい声を挙げたのが優先した。憤慨しながらも窓に近づくと、戦闘開始時点とは違った風景が広がっていた。
「陛下……!」
 レンスター城に取りついたトラキア軍に対し、遅れて到着したカルフ王の軍が攻撃をかけている。もしこの攻撃でトラキア軍の攻城が緩くなれば討って出て挟撃も狙える。しかしそれが夢と消えるであろうことはフィンの目にも明らかだった。さらにその後背からコノート軍が急追しているのが見えてしまったからだ。落城寸前の自分の城を目の前にして敵に挟撃されては一溜まりもないだろう。
 こうなってしまったのは山を越え間道を通って来たカルフ王が遅かったわけではない。トラキア軍の前進が輪をかけて早かったのである。
 カルフ王は橋を落としてトラキア軍と交戦し、敗れたものの足止めにはなったはずである。しかし、国土を大河に囲まれているコノート王国は、治水問題が内政の中心に据えられる。洪水で橋が流される事と架け直す事を繰り返すうち、コノートは大陸で最も架橋技術が発達した国となった。軍一つを渡らせるだけの架設の橋を架ける事などお手の物であったのだ。
「いや、俺が言いたいのはそこじゃない」
 ぶっきらぼうな自由騎士が再び顎を杓った。それからは何を指しているのかは全く分からない。
「敵軍の中にアルテナがいる」
「……!?」
 アルテナと言えばレンスター王女にして槍騎士ノヴァの正統後継者の名である。イード砂漠でキュアンが奇襲を受けて戦死した際に巻き添えになったはずである。一緒に殺されたとばかり思われていたが、その言が正しければ生かされていることになる。
「ど、どこに」
 生きているのならばこんな喜ばしい話はないが、この窓から姿が確認できるのも不可思議な話である。
「男なら、目には見えなくても美人がいる事ぐらいは気配で分かるだろう? 母親……エスリンもいい女だったし、アルテナも美人に違いないだろう」
 論点が完全にずれた回答はフィンを満足させるものではなかったが、とにかくアルテナ王女が敵陣にいるらしい。この飄々とした自由騎士を全否定してきたフィンであったが、こういう意味不明でありながらどこか説得力がある言葉で煙に巻かれると何故か納得してしまう。
「そこから先はラケシスに聞け。俺は女の事しか分からないんでな」
 三度目の顎の先にいたラケシスは、男に名指しされて思考を始めた。猛き覇気はいったん炎を鎮め、青白く静かに灯る。周囲を圧倒するような雰囲気はないものの、近寄りがたさは物静かなときの方が強いように感じる。彼女は、優雅な仕種で数歩進むだけで周囲を魅了しただけで答を出した。
「アルテナ王女は、トラキアの傀儡となるために生かされてきた、ということですわ」
 男は、正解、と言わんばかりに頷いた。
「いきなり領土を併呑するのは無理がありますわ、レンスターはレンスターとしての枠組みを残しておいた方が統治は楽でしょう」
 トラキア王国が半島の北半分を版図に加える際、いきなりの併合は現実的ではない。幼いアルテナを傀儡のレンスター王として立てて後見した方が反発を抑えられるだろう。
「で、だ。どうする?」
「どうするも何も……」
 奪回しかない。
 しかし今の戦力で可能かと言えば無理な話だろう。最前線にいるわけなく、本陣に斬り込んでアルテナを救出してしかも連れて脱出となるとそれこそ夢物語だ。
「では殺せばいいんですわ、大義名分を消すのが目的なら同じことでしょう?」
「女を殺すのは俺の主義じゃないな。女に死ぬと言わせるのは趣味だが。な?」
「知りませんわ!」
 ラケシスにそっぽを向かせた男の素早い切り返しのおかげか、幸いにも彼女の言葉の危険性に皆が気付くことはなかった。
 アルテナを傀儡とするのならば、言い換えればトラキアにとっては大義名分である。レンスター占領後の青写真として考えているのならば、その手の内からアルテナを零れさせるのは大きい。とはいえ、それを実行に移せるかとなれば無理な話であり、少なくともレンスター騎士の力を借りられる筈がない。
「だから俺は逃げる。ラケシスはナンナを連れて逃げる。フィンはリーフを連れて逃げる」
 アルテナを大義名分として認めないためには、リーフの生存は絶対である。ゲイボルグの継承者は姉であるアルテナだが、弟であってもリーフには男子と言う強みがある。アルテナを否定するためには多少の無理があってもリーフを立てて対抗するしかないのだ。
「リーフのお守りはお前の仕事だろ。主君の命令を守らずに勝手に死ぬのが騎士か?」
「卑怯者……」
 フィンにはそれ以外に返す言葉がなかった。
 都合の悪いときは傭兵風を吹かせて逃げ、こう言った時には真顔で騎士道を語ったりする。自由騎士とはその名の通りに、好きな時に自由に騎士のふりができる人種なのだ。そんな自分勝手な人間を指して言うには卑怯者しか相応しくない。
 飄々とした態度と個人的な些細な理由から嫌っているフィンであったが、納得せざるを得なかった。彼の言う騎士道は実は正しくはないのだが、頭で分かっていても何故か反論の余地がなかった。
「決まりだな、よし、支度してこい。俺はグラーニェを連れて行く」
 男がフィンとラケシスとの肩に手を置いて先に行ってしまう。
「……」
 やけに固い手の感触が肩に残り、その灯火を受け止めるように手をやるフィン。何とも形容しがたい、妙な心地。
「懐かしいですわ、その顔」
 立ち尽くしていたところに、微笑むラケシスが歩み寄る。覇気ではなくて花のような気品を浮かべて。
「はい……?」
「鏡をご覧なさい。彼と出会ってすぐの頃、私はいつもそんな顔をしていましたわ。そして……」
「そのうちあの雰囲気に……」
 騙されて、と言いかけてさすがに口をつぐんだ。失礼だというのとラケシスが騙されるような女性ではないと言う個人的願望から来るものであった。
 だが、何を言いかけたのかは看破されたらしい。暖かなラケシスの視線が僅かに鋭くなった。
「いいえ。殿方は腰が命、ですわ」
「……!」
 純真なフィンにとって最も触れたくない汚らわしい部分を出されては絶句するしかなかった。ラケシスなりの反撃なのであろうが、その手法にはどこか男の影響を受けた節があった。
「イーヴ! アルヴァ! エヴァ! 出陣します、護衛なさい!」
 次の瞬間にはまたいつものラケシス姫となり、周囲を覇気で包み込んでいた。

 懸命の捜索にも関わらずついにリーフ王子は発見されることはなく、次戦を控えているトラキア軍は時間的都合から捜索を打ち切らざるを得なかった。
 リーフと言う対抗札が残っている以上、トラキア軍は迂闊にアルテナを立てるわけにも行かなかった。その存在でレンスターの民を丸め込むのが目的だから、泥沼の継承戦争に陥るのは避けたかったからである。結局、アルテナの存在は公表されず、公式にはイード砂漠で両親と共に戦死したとして時を経る事になる。
 一方でリーフ王子は、生存のみが噂となって北トラキアの地を騒がせ続ける事になる。彼が再び歴史の表舞台に立つのはこれから14年後、グラン暦776年の話である。

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