コノートとマンスターを分かつ橋を落としたのが何者なのか、それを詳しく調べなかったのはカルフ王の不明であったのだろうか。
 マンスターへの援軍として急行していたレンスター軍にとって、橋が落とされたことによって到着が遅れる事の方が重要であった。妨害したのが誰にせよ、橋が落ちているという事実に変わりはなく、一刻も早く修復して軍を進めるのが唯一無二であった。
 なのでマンスターへの救援を至上とするならば橋を落としたのが誰かなどこの際どうでもいい話ではあったのだ……当時は、だが。
 ところが、その後に不運が重なった。
 修復している間にマンスター軍が敗れ、駆けつける必要性がなくなった。そして、コノート王カールの崩御によって現在位置で戦う意味もない。喪中を表す旗を掲げ、事実上の中立を宣言したコノート領内にいてももう仕方がないのだ。
 予期せぬ出来事が続いたために、カルフ王は自国領内への撤退を命令することになった。そこで問題が浮き上がった。
 コノート王国の領土は、巨大な三角州である。言い換えれば、大河に押し流された土砂が河口付近に堆積してできた土壌がコノート王国である。つまり、コノート王国の国境は河であり、隣国との往来には橋が必要である。
 ……そう、レンスター軍が自国に戻るためには同じくもう一つの橋を渡らなければならないのだ。

「急報、急報ーッ!」
 駆けつけてくる斥候の声はいつも緊張感をもたらすものであるが、さすがに3度目となると、またか、という気にもさせる。
「何事だ」
 カルフ王は冷静というかやや醒めた感じで返した。急報というからには何か大事があったに違いないが、こうも立て続けに起これば感覚も麻痺してくる。頻繁に起こればその価値も下がってくるものであり、急報と聞いても鈍い反応しか返せなくなり始めていたのだ。
「はっ! 閣下、実は……」
 馬上のままの斥候が、カルフ王ではなく側近の将軍に耳打ちする。周囲の兵士に聞かれないようにしたのは、そうしないとまずいという彼なりの判断であろう。しかし王に対して耳打ちするのは僭越であるため、カルフ王の信頼篤い側近を中継させたのであった。
「陛下、お耳を……」
 側近が馬を寄せてカルフに耳打ちする。
「退路が断たれました。橋を落としたのはコノートのレイドリックが指揮する部隊とのことです」
「……!」
 何かの間違いではないのか、と思いたくもなったが、最終的に受け入れたのはどこかに思い当たる節があったからだろう。
 コノート王国は国王カールの崩御で軍を出せる状況ではない。現にコノート城は喪旗を掲げて戦闘不参加を表明している。レンスター側に言わせればサボタージュ半分もいいところであるが、とにかくコノートは軍を出すつもりはないのだ。
 万やむを得ない事情による参戦拒否を、少し悪意的に捉えれば、国王の容体にかこつけた参戦拒否である。レンスター軍の弱体化によって形勢が良くないため、洞ヶ峠を決め込んだ……という考え方もできる。
 解釈をねじ曲げるならばその程度までなのだが、もしも、コノートが初めからトラキアに内通していて橋の破壊によって連合軍の分裂を謀っていた……と考えれば、話は通じる。百年も蜜月関係を続けていればこんな勘繰りはやってはいけないことなのだが、それでも疑う心をどこかに持っていたのはカルフ王の慎重な部分ゆえであろうか。
 ただ、そのカルフでさえこうして退路の橋を落とされて初めて気づいたほどである。コノートの裏切りはそれだけ唐突で衝撃的なものなのだ。
 コノートを“敵”として認識するようになると、現状がいかに危険な状況下に置かれているかが見えてくる。
 正面、(まだ姿は見えないが)対岸にトラキア軍、後方の遮断された退路はレイドリックが率いるコノート軍。そしてレンスター軍がいる場所は敵となったコノート王国の領内である。気がつけばレンスター軍は包囲されているのだ。このまま放置すれば、トラキア軍とコノート軍の挟み打ちに遭うのは目に見えている。
 となれば包囲網が完成する前に、どちらかに打ちかかってしまうしかない。問題は、どちらを選ぶかである。
 軍の規模で言えば、レイドリックに制裁を加える方が楽ではある。しかし敵に地の利があるコノート領内でレイドリックが正面から斬り結んでくれる保証などどこにもない。コノート側にしてみればマンスター軍を孤立させ、今またレンスター軍を動揺の目に遭わせただけでも「仕事はした」と言えよう。自分は逃げ回ってあとはトラキアに任せたとしても功績は充分であろう。保身のために裏切ったコノートであれば、そこまで考えていてもおかしくはない。
 レイドリックがどこかに消え失せるのならそれも好都合と橋を修復してレンスター国内に退却する、という手もあるのだが、橋の破壊がどの程度なのか分からないのでは危険度が高すぎる。トラキア軍が到着するまでに(レイドリックの妨害と相手をしながら)直せるのかとなると悲観的である。
 いっそのこと本拠であるコノート城を攻めるとしても、ただでさえ攻城戦は時間がかかる上に野戦をしに来たせいで攻城兵器を一切用意していない。これではコノート城を包囲している間にトラキア軍に追い付かれてしまう。
「全軍前進! トラキア軍を迎え撃つぞ!」
 後が駄目ならば前しかない。もともとはマンスター軍への救援のために来ており、橋が壊れていたから軍が立ち止まっている。救うべき相手がすでに敗れてしまったとはいえ、前進する予定を完全に変更したわけではない。引き上げを考えたのはカルフの内の話であり、兵士末端にとっては橋も修復できたしいざ、というところである。
「渡河した後は橋を落とせ! 決死の覚悟でトラキア軍と矛を交えよ!」
 カルフの意図は二つあった。
 一つは橋を落とすことによって後方を遮断し、レイドリック率いるコノート軍に背後を襲われる危険性を断ち切るためである。
 もう一つは兵士への鼓舞である。トラキア軍と戦うために来たとは言え、盟友であるマンスターが敗れた事実を聞いて士気が低下している。トラキアと正面から戦って勝てるのかと言えばかなり怪しいのだが、やってみなくては分からないのが戦争と言うものである。士気を高いレベルに保っていれば不利であっても長く戦え、その分だけ勝機を窺うことができる。
「前方にトラキア軍を確認!」
 対竜騎士を想定した円陣を敷き、背後の橋を落としてすぐに決戦のときが訪れた。
 戦力では劣っているが、竜騎士と言う特殊な兵種への対策においては、レンスターが大陸で最も優れている。そうはさせまいとトラキア地上軍が妨害してくるのをさらに……というのがこの二国間の戦争のセオリーである。たいていは最終的には地力の差が出てしまうのだが……。
「わっはっは、久しいな老いぼれカルフ! 冥府の息子に会いたくなって死にに来たか!」
 キュアンを討ち取ったことで気が大きくなっているのか、最初にトラバントの一声が響いた。これは両国間の戦闘においていつも行われているセレモニーのようなもので、トラバントにとっての対レンスターの重要性が滲み出ている一幕である。そしてカルフ王はいつも通りに何も返さなかった。国の命運と民の夢を賭けて来ているトラバントが無視されたことに腹を立てて戦端を開くのがいつもの流れであった。
「おい、あれを持って来い! 縄に結んでだ!」
「……?」
 トラバントが継いだ二の句に、レンスター軍側は王も将兵も一斉に首を捻った。こんなケースは初めてであり、そもそもこちらに聞こえるように大声を張り上げる必要がどこにあるのか分からないからだ。
 訝しむ暇もなく、しかし頭の中には残る程度の間を挟んだ後にトラキア軍の突撃が開始された。
「敵軍、来ます!」
「竜騎士の陽動は無視しろ、奴らだけではどうせ何もできん」
 空を舞う無限の機動力を誇る竜騎士が敵軍を攪乱、あるいは急所を衝き、陣形が崩れたところを地上軍が襲うと言うのがトラキア軍の戦術である。これは天馬騎士を擁するシレジアにおいても同じであり、この時代における”空”の使い方であった。
 一方で、弓矢と言う致命的な弱点を抱えるために使い方を限定せざるを得なくもあった。空を飛ぶ分だけ”落馬”のリスクは馬よりはるかに高い。たとえ軽傷程度の矢であっても竜から落ちてしまえば即死なのである。弓矢が怖い竜騎士は、同じ場所にとどまって戦うには不向きである。一進一退の攻防ができないために戦場の中心にはいられないのだ。
 レンスター軍が円陣を敷いたのは、竜騎士に付け入る隙をなくすためであった。どこからでも攻撃できる竜騎士に対しては、どこから来ても対処できる陣形が用意されたのは自然の流れと言えよう。
 そして攪乱に乗らないように命令を下す。小うるさいことを除けば、これで竜騎士は空を飛んでいる意味が薄くなる。ランスナイツは半減したものの、正味の地上戦だけならば戦えない相手ではない。
「あ、あれは!」
 前線が斬り結んですぐの話である。機を窺ったままただ舞っているだけの竜騎士の群れの中から一騎抜け出した。
「トラバントだ!」
 一際目立つ、巨大で黒い飛竜。北の民にとっては災厄の使者と言ってもいいだろう、トラキア国王騎”フレスベルグ”である。それが単騎で陣を外れ、レンスター軍の左に回り込むように飛び始めた。
「あれをご覧ください! 下の方です! 」
 先程トラバントが発声した謎の一言の答が、最初に発見した兵士の指先にあった。トラバントの手元から縄が伸び、何かを吊るしているのだ。
「な……!」
 その答が正確に分かったのは、カルフだけであった。
「カルフ! 貴様のためにキュアンとゲイボルグを取っておいてやったぞ、冥土の土産にでもどうだ!」
 キュアンの首が穂先に刺さった地槍ゲイボルグ。その根元の方に縄が結ばれている。そのため、槍の先の方が下がっている。
 王子と家宝の存在を明らかにしたトラバントは、ことさらに低空で飛んで見せた。ゲイボルグの穂先が平地に転がっていた小岩と火花を散らし、大地に線を描く。巻き上げた砂埃がキュアンの首に塗れ、次いで首そのものが。高笑いを挙げながら誇らしげに王子を引きずり回すトラバントは針路をやや左に傾け、ことさらにレンスター軍に接近する。円陣を敷くレンスター軍の縁をなぞる様に滑る様に飛び、より近くで見せしめを行う。
「放て! 射落とせ!」
 目の前であんな挑発をやられてはたまったものではない。レンスター王国の誇りと名誉に賭けてもあれを止めなければならない。大激怒したレンスター軍は一斉に左翼を向いた。
「わっはっは、そんな軟弱な矢がわしに効くか!」
 2発ほど飛竜に命中したものの、竜騎士は弓矢が弱点だという法則を完全に無視して舞う。そしてついにはレンスター軍の真上に飛び込み、手を伸ばせば首に届くかもしれないぐらいの高さでさらに挑発する。
「左斜形陣、突撃せよ」
 もしもトラキア地上軍を指揮するハンニバルの声が届いていれば、レンスター軍が我に返るのはもう少し早かったかもしれない。国家の威信を賭けてトラバントを追い回すレンスター軍は、現在物理的に国家の運命を賭けて戦っていたことを我とともにすっかり忘れていたのだ。
 ”トラキアの盾”と呼ばれる大陸屈指の名将ハンニバルの下知の元、トラキア地上軍がレンスター軍の右翼に集中攻撃を仕掛けた。トラバントに気を取られて左を向いていたレンスター軍にとっては後背を襲われた格好になった。
「踏ん張れ! 何としてでも立て直、ぐぁ……!」
 隙を突かれて混乱に陥ったレンスター軍右翼に対し、待機中の竜騎士がさらに襲いかかった。混乱することで浮き彫りになった急所、部隊指揮官を集中的に狙ったのだ。
「やむを得ん、退け!」
 勝敗が決したのも早かったが、カルフの戦闘放棄も早かった。確かに戦況は圧倒的に不利であるしここから逆転も無理な話であろう。にしてもこの見切りの速さは臆病と言っても差し支えないだろう。慎重派であるカルフは、余力が残っているうちに次の機会を探しに出ることを選んだのだ。
「息子の首を前にして逃げるかカルフ! キュアンも貴様に会いたいと冥府から呼んでおるぞ!」
 トラバントの勝ち誇った声に耳を貸さず、カルフは河に沿って上流へと退却して行った。不利な退却戦とは言え戦う余力を残してのものであったから、兵力温存を選んだのかトラキア軍は追撃を控えた。
 橋は自ら落としてしまったが、上流へ行けば地力で渡河できる場所ぐらいあるだろう。そこを伝ってレンスターに戻る。帰る道はそれしかない。

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