「トラキア王国軍、国境線突破!」
 この報に対する四王国の対応は素早かった。
 まず、トラキアと国境を接しているマンスターが、擁している大陸屈指の早馬を飛ばして他の三国へ急報を告げた。四ヶ国の連合を持って迎え撃つのが対トラキアには必須であるため、マンスター王国は援軍を呼ぶと同時にそれまで猛襲を支え続けるという任務を帯びている。
 その急使に対して他の三王国、レンスター・コノート・アルスターの各国王は快諾し、すぐさま連合軍を送る……というのが通例であったが、今回に限っては若干の及び腰があった。
 レンスター王国は四王国の盟主とも言える存在であり、連合軍においても総指揮権を握っている。そのレンスターが出陣しないはずはなく、カルフ王も即座の出兵を確約した。
 ……ただ、勢いがいいのはここまでである。
 コノート王国は国王カールが病に倒れており、しかも余命いくばくもなし、という特別な事情によって出兵どころではなかった。ただ、近衛隊長レイドリックによる「数日の遅延はあれども必ずや馳せ参じる」という力強い回答があったために、マンスターは特に訝しく思うことはなかった。
 アルスター王国の戦力は四王国の中で最も劣っており、軍として活躍してもらうことを期待されてはいなかった。勿論、軍を供出しないわけではないが、この国には他にも重要な役割がある。そのためか、国王エインの回答はやや渋いものであった。
 そのアルスターからはグランベルに向けて使者が発せられる。四王国の連合軍だけでは互角であるため、グランベルからの援軍も必要不可欠なのである。トラキアの増強を看過できないグランベルは北トラキアへの救援に意欲的であり、これまで数度の実績もある。
 アルスターの任務はその外交交渉と、行軍路の整備である。グランベルから北トラキアへ至るメルゲン地方は荒地が多く、行軍の支障となる場所を残していては援軍の到来に時間がかかってしまう。ましてやこの時期は長雨に見舞われることがあり、このあたりのケアは死活問題であるのだ。
 以上のように、今回に限っては戦力に不安を残したまま迎撃に出ることになった。

 マンスター国王イルグは、今年でちょうど在位20周年を迎えていた。
 トラキアと領土を接しているため、防衛のために武断の人である事を求められるこの玉座。その主となって以来、彼はよく務めを果たしてきた。どうしても名声をレンスターに掠め取られてしまいがちになるが、イルグ王の勇将ぶりと武芸百般に秀でた腕前もなくして今日のトラキア半島の姿はなかっただろう。
「よいか! 南の飢民どもが性懲りもなく我が国の領土を侵してきた! 礼儀を知らぬ物乞いに慈悲の白刃を恵んでやれ!」
「オォーッ!」
 士気は高かった。
 イルグが好戦派の急先鋒と言われているのは、兵士を鼓舞するためにトラキア王国を貶める一声を挙げているからである。彼の内ではどう思っているか知る由もないが、国王がこの調子では和平派が台頭する筈はなかった。
 いちいち一言付け加える必要はないのだが、これがマンスター軍に勇猛さと柔軟さの両立をもたらせていた。国王のいつものペースを見て、兵士たちも安定するのである。
「南より敵軍接近!」
 ……だが、王の意志が兵士を鼓舞しているという点ではトラキアも同様であった。今度こそという思いは、トラキア軍に最高潮の士気へと達させていた。
「下がれ! 飢えのあまり門を叩き壊そうとする凶暴な連中は相手にするな!」
 最初の激突で敵の勢いを察知したイルグ王は、軍に後退を命じた。
「レンスターの援軍がそこまで来ている、それまでじっくりゆっくり戦え。奴らの攻勢にまともに付き合えば貧乏が伝染るぞ!」
 王が冷静なうちは、軍もスムーズに動く。たちまちのうちに防御を意識した堅固な布陣に置き換わった。
 それでもトラキア軍の猛攻は完全に防ぎきれるものではなかったが、この戦場における時間の流れを緩やかなものにする事は成功した。相当な距離の後退を余儀なくされたものの、ついに日没まで凌ぎきったのである。
 夜に入り、戦闘は収束した。夕闇の向こうで、焦るトラバント王の怒号が響いてきそうなほどの張りつめた緊張感は漂わせたままで。
 マンスター軍兵士には相当の疲労が見られていたが、敵陣の様子から察して、夜襲への備えを怠るわけには行かなかった。在位20年、イルグ王にとって最も苛烈な一日であっただろう。それほど、今回のトラキア軍は士気・装備・練度ともに優れていたのである。

「前座で時間を潰している場合か! さっさと片付けろ!」
 一方のトラキア軍。聞こえてくるのは王の烈しい叱咤ばかりであった。
 トラキア王トラバントという人は、烈しさも静けさも、豪胆さも狡猾さも兼ね備えた稀有な人である。国内の貧困を武力によって解決しようとするわりにはターラ市に婚姻政策を持ち込んだり、奇襲によってキュアンを暗殺しておきながらすぐには攻めずに機が熟すのをじっと待っていたりもする。半島統一という大きな目的のためには手段はおろか自分の精神状態も選ばない人物なのである。同じく目的のためには手段を選ばないが、そのためには人間の情や精神を完全に抹殺していたシグルドと比べてみると、トラバントは全く正反対の方向に究極的な人間と言えよう。
 ミーズ城出陣時、外の静けさと内に燃える炎とで兵士を焚き付けたトラバントであった。だがマンスター軍を一日で壊滅に追い込めなかったことに計画の躓きを感じたのか、彼は早くも業を煮やしていた。
 トラキア軍の北上は、常に時間との戦いである。
 北トラキア4王国の連合軍を撃破するのは最低条件であるが、グランベルの干渉が来る前に終わらせないといけないという時間的制約にも縛られているのである。
 敵地である北トラキアに攻め込んで4王国を破り、そしてその敵地で態勢を整えてグランベルからの遠征軍と戦わなければならないという、非常に酷な条件が課せられているのだ。そのためには、まず4王国を出来るだけ素早く撃破して次のステップに進みたいところであるが、昨日は押しに押した末に勝負を決められなかった。これでまず一日の損である。
 前線であるマンスターが踏ん張れば踏ん張るほど、北トラキア連合軍は迎撃の態勢が整う。つまりトラキア軍にとって駆け登るべき一段が大幅に高いものになってしまうのだ。この最初の一日の損は、最終的には一日どころでは済まない話になってくるのである。
「夜目が利く兵を集めろ! 夜襲をかける!」
「そ、それはいくらなんでも無茶でございます!」
 昼間の戦いの流れを鑑みれば、今宵の敵が夜襲に備えているのは誰でも想像できる。トラキア軍が時間のロスに焦っているのは敵も承知、遅れを挽回しようと夜襲をかけてくるのではないか、と警戒するのは当然の帰結である。
「怖じ気付いたのなら来んでよい! わし一人で蹴散らすわ!」
「どうかそれだけはお止めくだされ! おい誰か!ハンニバル将軍を呼んで来い!」
 王の覇気と根気だけが国を支えているトラキアでは、何人であっても王へ影響を及ぼす存在になれない。今のように多少の行き過ぎはあるとしても、それだけの前進意欲があってこそトラキア王国は一枚岩であり続けられるのである。そんな絶対の王に干渉することへの畏れ多さは、バーハラ王家へのそれに匹敵するものがあるだろう。
「相変わらずでいらっしゃるか、陛下」
 唯一の例外を挙げるとすれば、今ここに姿を現したこのハンニバルという老将であろう。“トラキアの盾”の異名は、大陸屈指の名将である彼を冠した二つ名である。
「陛下、どうかこの場はお静めくだされ。もしもお聞き届けくださるのならば、代償として我が息子の首を差し出す所存」
 ハンニバルは、国王と会話をするときに決まって“息子の首”とか“娘の命”とかを持ち出す。ハンニバルは独身であるため、子供と言っても養子を指す。とはいえ、いくら同じ血が流れていないにせよ子供は子供である。毎回のように軽々と差し出す言動を非難する者は多かった。
「……ふん、わしは寝る。言う通りにあとでルテキアに幽閉してくれるわ」
 ところが、トラバントはこれがお気に入りであった。目的のためならば家族の命すら全く厭わない、という王の精神が、ハンニバルの“人質発言”を好意的に受け止めさせるのであった。
 激しさが収まって冷静さが顔を見せ始めたトラバントは、明日へ備えて充分な休養を取る事を真っ直ぐ選んだ。声の張りにはまだ怒気が宿っていたが、別にふて寝ではない。

 翌朝。結局のところ、さすがに見え見えの夜襲は来なかったものの、マンスター軍の神経を大いにすり減らして翌朝を迎える事になった。
 一方もトラキア軍も、昨日勝てなかった事と今度も失敗に終わるのではないかと言う焦燥感が兵士たちに広がっていた。
「食い物に淺ましい飢民どもへの、徹宵の警戒ご苦労! 今日中には奴らを片田舎に隔離しなおすぞ!」
「南中までにマンスターを抜き、日没までにコノートへ入る! 前進の足を止める者はわしの槍が串刺しにしてくれるわ!」
 だが、国王の変わらぬ好調さを見て、兵士たちは新たな力がみなぎった。
「かかれ!」
「オォーッ!」
 戦闘二日目。両軍は再び真っ向からぶつかり合った。
 そして、その戦場へと急行する一軍が北にあった。カルフ王率いるレンスター軍である。

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