トラキア半島中西部、ターラ公国――
「ほぅ、傭兵王陛下から親書とは珍しい。『水門』をもっと開けろ、と言ったところですかな?」
 長年仕えている執事が覗き込む先には、癖のある雄大さが入った字体が連なっていた。
 トラキア王国に現国王トラバントが即位して以来、半島でこのターラ公国だけがトラキアの脅威に晒されたことが無い。地の果てにあるわけでなく、逆に隣接国でありながら、である。
 ターラが安全でいられたのは、執事が口にした『水門』のおかげである。もちろん、これは一種の隠語である。
 トラキア王国は貧困に貧困を重ねている国である。高い山脈に囲まれた土地が肥えている筈がなく、農作物に恵まれていないのはやむを得ない話であろう。だが、それに悪影響を及ぼしているのがトラキアの外交面であった。
 国境を接しているわけではないが、トラキアはグランベルの仮想敵国である。大空を飛ぶ竜騎士を擁するトラキア王国が、もしも豊沃な北トラキア地方を手に入れれば、グランベルにとって大きな脅威である。
 北へ攻め込むだけの余力を持たさないために、グランベルは北トラキア諸王国と連携して経済封鎖を行っている。流通を制限することでトラキアを弱らせているのだ。
 そこに目をつけたのがターラである。グランベルの経済封鎖令の影で、ターラは密かにトラキアに物資を流していた。
 ターラはトラキア半島の西側で南北に走る峡谷にあり、ミレトス地方〜メルゲン〜ターラ〜トラキア領ルテキアという位置関係の要所である。グランベルがどれほど大きな声を挙げても、実際にトラキアと接しているのはターラであるため融通はいくらでも利くのだ。
 ただ、派手に流すとグランベルの介入を招くことになるため、ターラはトラキアの内情を見ながら必要なものを小出しにしていた。その微妙な調整を比喩して『水門』と呼ぶのである。
 トラキアにしてみれば物資を(比較的)安価で買える貴重な取引相手である。これを攻めとるのは自らの首を絞めるに等しく、北トラキアに侵入する際に西周りのルートを用いることはしなかった。裏を返せば、ターラはグランベルに密かに逆らうことで自国の安全を買っていたのである。
「では北上の噂は本当のようですな」
 戦争するとなれば平時よりも多くの物資が必要となるのは当然である。ターラ側からみれば、『水門』の調整を要請されればそういうことだと容易に想像できる。以前に『騎士殺し』と呼ばれる槍を特別に取引したことがあったが、それから数十日後にトラバントはキュアンを討ち取っている。
「それもあるが、」
 と、ターラ公ルェードンは頷いた後、隣国の気の早さにため息が出た。投げ出された親書をあらためて覗き込んだ執事も、続きの文章に目を丸くした。
「お嬢様と、アリオーン王子……?」
 ルェードンの一人娘、リノアン。まだ3歳である。
 貴族社会において、本人が物心付く前に結婚相手が決まっているケースは少なくない。ルェードンもそれぐらいは承知していたが、まさか自分のところの娘に縁談が舞い込むことは想像していなかった。
 娘を愛してはいたが、自由恋愛をさせてやろうという気持ちはさらさらない。良縁を探してやるのが父親の務めであり、その際に娘の夫の父親を基準に選ぶのはその範疇内であった。さすがにまだ早い気もするのだが、チャンスであれば話は別である。
 良縁か否かと言えば、前者に属するところだろう。水門の存在で安全を保っているとはいえ、枕を高くして寝られるわけではない。絞り過ぎればトラキアの恨みを買い、開け過ぎればグランベルに目をつけられることになる。血縁関係となれば少なくともトラキアの脅威に晒されることはなくなる。
 ただし、中間地点でいる事に意義があるターラが片方に寄れば、遠のいた方の不興を買うのは自明の理である。グランベルを敵に回せばそれこそ安眠どころではなくなる。
「返答は急いでいない……と」
 ターラにしてみれば、縁談を持ちかけられるタイミングがあまりに微妙すぎた。
 トラキアの北上が成功して、半島の統一を達成できれば、ターラがトラキア王国と結ぶことに意味がある。アリオーンは王太子であり、となればターラ公爵家はトラキア王家の外戚となる。大躍進は約束されたも同然であろう。統一トラキアの国力であれば、グランベルと敵対しても充分に対抗できる。
 問題は、トラキア軍が失敗した場合である。元の貧しさに戻ったトラキアの同盟国とされれば、ターラに未来はない。南北の縁が深いため北からは裏切り者と罵られ、グランベルからはミレトス経由の経済制裁が行われるのは確実だろう。そしてトラキアからは防波堤にされてしまう運命が待っている。
 危険な賭けである。普通に考えるならば自重が最善の選択だろう。だが、わざわざ「返答は急いでいない」と書き記されると、人間は欲が出るものである。
 物には売り時・買い時と言うものがある。トラバントが半島統一を成し遂げてからこの話を進めた場合、リノアンは高値で取引できなくなる。あるいはその時にはターラに価値無しとして売れなくなってしまうかもしれない。
 苦しい状況の同盟の方が有難みがあるわけだから、この縁談を進めるならば早い方がいい。しかし、それは先行投資であり、ハイリスクハイリターンの賭けと言えよう。
 公爵位を号しているとはいえ、グランベルのそれと肩を並べられるわけではない。名ばかりの爵位を抱えるルェードンに、野心がないわけでもなかった。統一トラキアが実現すれば、内政・軍事共にグランベルと対抗しうるだけの強国が誕生することになる。その中の公爵位となれば実を伴うものになる。ましてや王妃を出すのだからなおさらだ。
 リスクを嫌ってそのビッグチャンスを見逃すのは実に惜しい。
「……」
 しかし、最終的にルェードンが選んだのは保留であった。
 野心よりも保身を優先したのは、領主としての善良な心が所以であったが、彼が小人物である裏返しでもあった。無論、娘への愛情も理由の一つではあったが。

 彼の選択が、正しいものであったかについては判断が難しい。
 もし賭けに出ても、それによって成功したかどうかは微妙なところである。それゆえ彼の判断は間違いではなかったのだが、待っていた運命は明るいものではなかった。最終的にターラが歴史の表舞台に出ることはまともになく、人々の知らないところでひっそりと幕を下ろすことになった。

Next Index