グラン暦762年明け、中立都市ダーナ――
 この都市は、十二聖戦士が神から聖なる武器を賜った砦があった地である。グランベル王国の領内となったが、聖地は国家の支配下に置くべきではないという観念から、すぐに自治都市となった。
 それ以後もグランベル王国の保護を受け続けてはいたが、聖地という不可侵の建前はそれよりも強固で、独立都市という印象は確固たるものがあった。757年にイザーク王国のリボー一族がこの都市を略奪した際、グランベルで沸き上がったのは保護下の都市が侵されたことよりも聖地への冒涜への怒りであった。
 それぐらい、このダーナという都市は国家の支配権から独立した存在なのである。財政面はしっかりと保護を受けていながら名も守っているところが、聖地ダーナのしたたかな一面であろう。
 中立で国家の支配権が及ばないということは、そういう組織や人が自然と集まってくるようになる。

「……なんだ、また客が増えてやがるな。まったく、こんなクソ不味い酒で繁盛するたぁトラキア様々だよなぁ……なぁババァ?」
「い〜っひっひ、不味かったら来なければいいんさね、お前さんに逃げられても、お客はまだたぁ〜っぷり来るんだから」
 カウンターで薄気味悪い老婆が意外と健康的な歯を見せて笑う。その顔でよりいっそう酒が不味くなったが、男は席を立とうとはしなかった。
「冗談じゃねぇ、せっかくドデカい仕事にありつけるんだ、酒が不味いぐらいで出て行けるかってんだ……おかわりだ、とっとと持って来やがれ!」
「さぁさ、どんどん飲んどくれ。お高くしとくよ」
 本来ならばこんな酒場が繁盛することは有り得ない。だがそれが実現したのは、この店がただの酒場ではなくトラキア半島を統括する傭兵ギルドだからである。
 ここ数年間、大陸各地で戦争が起こり続け、傭兵業界は大賑わいとなった。戦乱の世が続くのは市民には歓迎しかねるが、傭兵たちにとっては需要の発生源である。国王たちは戦力補強のために大盤振る舞いで呼び寄せ、傭兵たちの懐を大いに潤した。
 その好景気もまもなく終わろうとしている。グランベル王国の大内戦も落ち着き、シレジアを討ったアルヴィスは皇帝に即位した。世界はもう平和へと舵を取っているのだ。
 そして現在、大規模な戦争が起こりそうと目されているのが、トラキア半島である。イード砂漠でレンスター軍を撃破して勢いに乗るトラキア王国が、半島統一の大攻勢に乗り出すというのがもっぱらの噂である。
 トラキアが攻めるとなれば、防御側となる北トラキアの面々からのオファーが期待できる。ましてやレンスターの戦力が半減となれば、切羽詰まってかなりの好条件を提示してくるに違いない。
 よって、味も女っ気もないこの傭兵ギルドでも大賑わいとなっているのである。
「そう言や、ガレンツはどうした? 今時ならもう来てるはずだろ」
「故郷(くに)に帰ったってさ。奴さん、トラキア人だったんだな」
 別のテーブルでナイフを磨いている男がそう答えた。
「世知辛ぇなぁ……」
 所詮は仕事上の付き合いとは言え、一時期の戦友が傭兵をやめて里帰りしたと聞けば男たちも感慨深くなる。
 2杯目の酒をあおるも、やはり不味いものは不味いのか渋い顔が緩むことはなかった。
「ま、奴さんはもともと騎士だったんだ、戦友の現役復帰に乾杯だ」
 男がナイフでグラスを鳴らした。惜別の心を乗せた金属音と共に、グラスを上げて南に向かって軽く掲げた。
 傭兵たちにとっては国境も身分も関係ない。名前と剣だけが全てなのである。
 彼らはお互いについて詮索しない。どだい傭兵をやっている人間にまともな人生を歩んできた者などいやしない。そして皆が素性を話したがらないのは、嫌な過去があるからだけでなく、そのさらに「下」を行く傭兵仲間が存在するので迂闊に喋れないのだ。
 そして、そういった事情を抱えた男たちのその一部において密かに共通する因子があった。「トラキア人」というものである。
 トラキア王国が貧しいというのは誰でも知っている。これといった特産物が無い上にグランベルの経済封鎖によって外貨の獲得手段が制限されているため、国民は痩せた土地で懸命に食料品を生産している。
 そんな貧しい国家において、平時は維持費の固まりでしかない騎士団が維持できるわけがなく、事実上の解散状態に追い込まれている。それどころか、その騎士達は傭兵に身を落として日銭を稼ぐといったことも日常的に行われており、貧困の深刻さは酷くなる一方であった。最終的には国王トラバント自らが傭兵にならなければやっていけないほどのものであった。
 ところが昨年の暮れごろから、その傭兵たちが忽然と姿を消した。トラキア本国が彼らを呼び戻したからである。
 この現象は、トラキア王国が軍備編成に入ったことによるものに違いなかった。そこから戦争勃発を察知した傭兵たちが続々とトラキア半島に集結し始めているのである。この情報入手は北トラキア4王国もグランベル王国よりも早いものであっただろう。
「俺もそろそろ一旗揚げないとな。下手したらこれが最後のチャンスかもしれねぇ」
 今回の傭兵ギルドの賑わいは、これが最後の大口客ではないかという恐れの裏返しの集団である。大陸の中心であるグランベル王国は落ち着きを取り戻し、大規模な戦争を起こすとは考えにくい。となればこの南北トラキアの争いが最後の国家間戦争になってしまうかもしれない。
 傭兵たちにとって、平和とは失業の危機である。戦争してくれとは言えなくとも、せめて商売繁盛をと願うのは救われない性というものであろうか。
「せいぜい出世しとくれよ。もしお前さんが騎士に取り立てられたら、孫娘を紹介してやってもいいぞぇ、ひっひっひ」
「冗談じゃねぇ! 将来ババァみてぇになる女と寝れるか!」
 傭兵たちにとって最大の夢は騎士になることである。中には好き好んでアウトローに走る者もいるが、多くの者は陽の当たる地位で身を立てたいと願うのだ。
 大陸最強の剣士ヴォルツや地獄のレイミアのように、傭兵として名を轟かせてもそれは成功ではない。駆け出しの傭兵たちにとって尊敬の対象ではあるが、傭兵は傭兵である限り決して勝ち組ではないのだ。
 剣で身を立てるならば、剣を振るって証明する場所が必要である。傭兵たちにとって戦争は、金稼ぎの場だけではなく、夢見続けてきた士官への道なのである。

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