グラン暦760年、バーハラ決戦から2日後。北トラキア地方コノート王国――
「陛下ぁー! 陛下は何処におわす!」
 コノート王室の親衛隊長を務める黒衣の将軍が、甲冑から発するけたたましい金属音を鳴らしながら回廊を駆け回っていた。
 つい数年前に即位したばかりのコノートの新王カールは多少の放浪癖があり、王宮内でよく行方不明になる。身体が弱いカール王は王宮の外に出る事はないのだが、人間一人を隠すにしては王宮は充分に広い。じっくり探せば必ず見つけられるとは言え、火急の用があって慌てて捜索してもすぐには発見できない。
「陛下、陛下! 何処におわす! 御返事くだされ! レイドリックでござる!」
 国王が見つからないのは、親衛隊長である彼の責任である。若いカール王が病弱な王子であった頃から側に仕えていたせいか王の性癖には甘く、執務を投げ出して姿を消すのをよく見逃している。今日もそうだったのだが、たった今飛び込んで来た情報のために自己始末に追われていた。
「陛下ーッ!」
「まったく、相変わらずうるさい奴だなぁ。お前の声は城のどこにいても聞こえる」
 王宮の南東の角付近、吹き抜けの1階で持ち味の大声を張り上げたとき、真上から初めて反応があった。
「陛下!そんな所でいったい何をなさっておられるのですか!」
「何って、トイレに行っていたのだが……」
「この非常時に何故にのんびりとトイレなんぞに入って!」
「何故にと言われても、トイレに入るのは用を足すからしかないだろう。……それとも何か哲学的な答でも要るのか?」
「冗ぉ談を言っておる場合ではございませぬ! 緊急事態の発生です!」
 見かけの偉丈夫とは裏腹にいささか冷静さに欠けるレイドリックと対照的に、カール王はいたってのんびりとした性格だった。彼は、レイドリックの唾が降り注がないよう立ち位置をずらすと、用を足した後に両手の処理に用いたタオルの両端を結んで放り上げた。
「分かったからとりあえずこれで汗を拭け。夏場のお前は暑苦しくてたまらん」
「は、はぁ……いや、だからこんな事をしている場合では!」
 階下で無邪気に笑う国王。この距離でレイドリックの顔面から発する熱気が本当に伝わったりはしない。ただ、この忠実な家臣の反応がたまらなく好きで、戯れるのが純粋に楽しいのだ。
「分かった分かった。で、緊急事態が何だって?」
「グランベル内の大勢が判明したのです! 鎮圧に成功しました!」
「だったら緊急ではないじゃないか。相変わらず慌てん坊な奴だなぁ」
 マンスター地方の一王国に過ぎないコノートの者にとって、六公爵の闘争やアルヴィスとシグルドとの決戦と言った細かい話は詳細についてはわからない。大きな内乱が起こったが、叛乱軍を破って体制を保持した――ぐらいの認識でしかない。
「叛乱軍が勝ったならうちにも関連性が沸いて来るんだろうけど。結局、今まで通りじゃないか」
 グランベル以外の国家にとって、国の歴史はグランベルとの外交の歴史でもある。大国グランベルがクシャミ一つすれば周辺国家には突風が吹き荒れるのである。グランベルの一挙手一投足について注意を怠っていないのはどこの国も同じである。
 もしもその体制に変化が生じたら、コノートにもその余波は襲う。その意味で今回の大内戦はコノートの国家運命も揺さぶりかねないものではあった。だが、結局のところは体制派が勝ち、友好を保っている現在の外交状態にほとんど変化は無さそうだとカール王は踏んだのである。
「しかし! これでレンスターが!」
 吹き抜けになっている階上の手すりから大きく身を乗り出すレイドリックの巨体。そこから発せられる声が、この時に最も大きくなった。つまり、レイドリックが最も伝えたかった“緊急事態”なのである。
「あ、そうか」
 調子は相変わらずなものの、カール王も事態の重大さに気付いた。拳で掌を叩くあからさまな動作が軽く見させてはいたが。
 レンスター王太子キュアンが、自国の槍騎士団ランスナイツの約半数を率いて、グランベルの叛乱軍へ援軍として密かに出兵した。ところがその途上でトラキア王国軍の奇襲を受け全滅したのだ。
 半島北部への進出に燃えるトラキア王国に対し、北トラキアの諸国家は軍事同盟を結んで対抗していたが、その最大戦力であるレンスターの軍事力が半減した事実は、自動的にその他の国家が危険に陥ったことに繋がる。
 挙句の果て、そのレンスターがグランベルの叛乱軍に肩入れしたために、正規軍が勝ち残ったグランベル王国からの援軍も期待できそうも無いのである。
 南トラキアとの闘争の歴史の中で、グランベル王国の援軍によって北が救われたのは幾度もある。これはトラキア王国が強大になっては困るので弱小勢力が割拠していた方が都合が良いと言う身勝手な理由による介入だったのだが、それでコノート王国を含む諸国家が永らえられたのは紛れも無い事実なのだ。諸国家は次のケースを想定して各々にグランベルと軍事同盟を結ぶなどしてグランベルと友好的な立場を採り、平穏な日々を勝ち取っていた。
 だがレンスター王国ただ一つの国の暴走によって、全てはぶち壊し。北トラキア全体が危機に瀕するようになってしまったのだ。現在のところレンスターを除く北トラキアの諸国家はグランベルと友好的だが、巻き添えを食う可能性は充分に考えられる。
 グランベルの内戦に乗じて勢力拡大を計ることはどこも行いはした。だが、レンスターは結果を見極めてから動くよりも、リスクを背負ってでも儲けを夢見て博打に出てしまったのだ。
「う〜ん」
 カール王は悩む(ような格好をわざとらしくしている)が、レンスターとグランベルの軍事力を省いてトラキアの侵攻を跳ね返せるかとなると悲観的である。コノートの軍事力は特筆するようなものではない上に、野望達成の現実味が帯びただけにトラキアはこれまでで最も本腰を入れて侵攻してくるだろう――
「うん、裏切ろう」
「なるほど! ……と、なんと陛下!」
 王があまりにも平然と口にしたために家臣もつられて相槌を打ってしまったが、よくよく考えてみればとんでもない話である。
 トラキア半島での抗争の歴史において、北vs南の構図は一度たりとして崩れたことがない。ノヴァが地槍ゲイボルグを振るって兄ダインに反旗を翻して以来、北トラキアの人間は南と戦うことを共通の価値観としてきた。南からの侵攻に対し自然と剣を持って立ち向かうことは、北の面々にとってごく当たり前の話であるのだ。
 そんな北側の、その国王ともあろう者がしれっとした顔で南側につこうなどと言い出すのは、狂気の沙汰もいいところなのだ。
「しかし陛下! レンスターやグランベルの増援が来ずとも、それがしが身命を賭してトラキアを打ち払いますゆえ! どうかご再考を!」
 責任感の強いレイドリックに限らず、臣であれば誰でもこう言ったであろう。それだけカール王が口にしたことは禁忌の手段であるのだ。
「王命」
「は、はっ……い、いえ、し、しかし!」
 簡潔だが絶対である単語に一瞬だけ気圧されたものの、レイドリックは引き下がるわけにはいかなかった。
 階下の国王は無言で歩き出し、南東を向いた窓の前で止まった。
「降りてこなくていいからお前も外を見ろ」
「は……」
 二階の窓の外には、見慣れた田園風景が広がっている。
「王宮の外に出たことがない。外にいる人も物も見たことがない。けれど、コノートが好きだ」
 二階の床を隔てた下から聞こえる、主君の声。身体が弱い王は、王子の頃からも含めてずっとこの王城の中で生きてきた。コノートはもともと気候が良く、トラキア王国の勢力圏に近付く山間部での療養ができなかったからだ。
 即位してからは、国王としての責務によって余裕はますます減少していった。家臣一同は国王の負担をできるだけ軽減しようと尽力していたが、最終的にどうしても王の裁可は必要である。この国には伝統的に宰相を置かない習慣も拍車をかけていた。
 だから、カール王は生まれ育った空間から外に出たことがなかった。持ち前の放浪癖が発現しても、王宮の外に出ようと言う願望は理性を上回らなかった。穏和な性格と、自分の体力を推し量る知性と、そして脳裏に浮かぶ、きっと慌てて探し回っているであろう親衛隊長の顔とが夢を押しとどめるのだ。
 カール王は、コノートについて本と書類で読んだこと以外に知らない。記述される文章と羅列される数字と、窓の外に広がる一枚の絵のような風景だけが、カールが知る「国と国民」だった。
 ……だが、直接感じたことがないコノートを、カール王は好きだと言った。
「陛下……」
 身体が弱く、一日の半分以上の時間をベッドの中で過ごし、軽い決裁をこなして、疲れてまた横になる。調子が良い日はたまにふらりと部屋を抜け出して親衛隊長を困らせたりもするが、当のレイドリックにとってみればそれが「陛下にとって唯一の娯楽」であると知っている。
 そんな国王でも、国の運命を背負う義務があるのだろうか。レイドリック自身、心のどこかでカール王はコノートとは縁が薄い存在だと思っていた。
「だから、この絵を焼け野原なんかにさせない」
 カール王は、窓の外の風景をそう表現した。季節や天気によって様変わりはするが、触れられない見るだけのものには違いはない。
 コノート王国は、地理的に言って対トラキア王国の最前線である。北トラキアの諸王国が連合しても、実際に戦闘を行って国土が荒らされる場所は、トラキア王国により近いマンスターやコノートの地なのだ。ダインとノヴァのと争いから百年、トラキアと戦うのはレンスターとばかり思われているが、実のところは楽をしているという事実はあまり知られていない。
 そして、レンスターとグランベルとが期待薄とあっては、コノートが被る被害は計り知れないものとなるだろう。
「トラバントは信用が置けるやつだ、コノートだけ戦わないといえば相手しないと思う」
「……」
 トラキアの傭兵王トラバントと言えば、「目的のためなら手段を選ばない、残忍で狡猾な男」と言うのが定評である。ついこの間も奇襲によってキュアンを討ち、あまつさえ、同行していたその妻エスリンと娘アルテナをも殺したと言われている。
 おそらく北トラキアで、カール王以外にトラバントに好意的印象を抱いている者はいないだろう。トラキア半島の災厄は全てトラバントの野心から来ているものであり、平和を望む者であればトラバントを憎むのは当たり前の価値観なのだ。
 武に生きるレイドリックでさえ、トラバントの武勇に敬意は表しても支持だけはしていない。侵略戦争が是非も無いというトラキア王国の内情を聞き及んでいようとも、当事者にとってみればたまったものではないからだ。
 過去からこれまで積み上げて来た侵略と防衛の歴史に辟易して、和平を唱える者がいないわけではない。だが、それは北側にとって圧倒的に不利な話であった。
 もしも和平統一が成り立ってしまえば、南の貧しい民は大挙して北に押し寄せてくるだろう。いくら北トラキアが肥沃で相対的に裕福であっても、多数の難民を抱えられる余裕などどこにもない。過去、急激な人口の増加が国家生産力の上昇に繋がるのは稀なケースで、器の方が対応しきれずに自滅するのが関の山である。
 北トラキアは、土地が肥沃なのであって土地が広いと言うわけではない。収穫が期待できそうな平野部は既に埋まっており、余っているのはメルゲン周辺のような荒野ばかりである。そんな痩せた土地を提供したとしても、耕し終わる前にトラブルが発生するのは誰でも想像できる。
 そもそも、たとえ対等の形で友好的統一が果たされたとしても、ここまで経済格差があっては南の民が蔑視されるのは目に見えている。南側にしてみれば、対等の和平では救われない以上は武断を持って北を支配するしかない。一方で北側にとっては南の土地には何の価値もない上に厄介な難民が雪崩れ込んで来るとあっては、和平の思想が発言権を得るわけがない。
 結局のところは戦争しかないと言う結論のみ合意する南北トラキア。その主戦場として余計な被害を被るコノートの人間であっても、それを覆そうと言う考え方は持っていない。隔離された人生を送ってきて見識不足のカール王だからこそ、裏切りという策が思いつけるのだ。
 だがカールは、知識は不足していても、知性に関しては高いものを持っていた。
「どのみち、最後にはグランベルが出て来る。コノートにちょっかいをかけたら自分の首を絞めるだけってぐらい、トラバントは分かってる」
 キュアンの暴走のせいで北トラキアの諸王国が見捨てられたとしも、その地をトラキア王国が占有するのを黙認するようなグランベルではない。むしろ領土拡張の絶好の機会とばかりに乗り込んで来るだろう。トラキア側とすれば、半島北部の覇権を賭けた決戦の前に、せっかく友好的なコノートに手を出したりするような余裕などない。
 裏を返せば、その時点でコノートの友好的中立の地位を容認したことになる。軍威に晒されることもなく、独立を守ることで難民の流入も阻止することもできる。
「しかし、いくらそれでコノートが救われようとも、陛下は!」
 コノート一国の保身のために親密な隣接国全てをトラキアに売り渡した、として非難されるであろうことぐらいレイドリックにも分かる。
 国王カールの評判と言うものは、未だ白紙の状態である。彼が全く表立たないために、病弱であること以外にカールを評価する材料が存在しないのだ。先王崩御の際にこの国にも継承者争いが発生したが、大方が勝利を予想した王弟ではなく病弱な王太子が玉座に上がったために注目が集まらなかったのだ。
 そんなカール王の、最初の対外的評価が「裏切り者」となるのを黙認できるようなレイドリックではなかった。武人である彼にとって、主君の名誉も自分の勲も同じものである。今まで身体が弱いカール王の負担を支えてきただけに、その感情は強いものであった。
「別にいいよ、もう長くないし」
 この台詞をさらりと言えるのは、長年に渡って病魔と同居してきたからこそなのであろうか。自分の命数が残り少ないことは気付いていた。そしてあまりに自然に告げられたために、言われた方は「長くない」が国王の寿命を指していることに、すぐには思い浮かばなかった。
「ぁふ……たくさん喋ったから疲れた。部屋に戻って寝る」
 それにレイドリックが気付くより先に大きな欠伸をして、忠臣の反論を未然に防いだ。本当に疲れたのに間違いはないが、大きいアクションを起こしたのには確かな打算があった。その振る舞いに不自然さが無かったのは、彼が少年から青年には変化できない、完全に固定された環境によるものだろう。
「はっ、おい、誰か!」
「いいよ、一人で帰れる」
「なりません! 誰か! 陛下を御寝所へお連れしろ!」
「うー、だからお前の大声は頭に響くと言ってるじゃないか。おかげで頭が痛くなってきた」
「な、な、なんと」
「あはは」
 武人と言うものは正直な人種である。下手に知恵がついた文官よりはるかに純粋で、からかうには絶好の標的と言えよう。ただ、この組み合わせに関しては、主従関係を枕木とした戯れの対象ではなく、昔から変わらず続く信頼関係の表現であった。
「あ、そうそう」
 侍女の肩を借りて廊下の先に消えようかとしたカール王がふと立ち止まり、レイドリックに聞こえるように声を漏らした。
「どうせなら2回裏切るのも悪くないかな」
「……?」

 密かに告げた通り、カール王の容態は快方に向くことなく、762年、トラキア王国が総力を挙げて北進を開始した最中に病没する。大将軍まで昇格し軍権を任されていたレイドリックは既定通りに盟約を破棄、国王不在となったコノート軍をよくまとめて戦い、レンスター王カルフを討ち取る殊勲を挙げてコノートを戦火から守りきった。
 後年、レンスター再興の旗を掲げるリーフ王子がレイドリックを打倒するため「国王殺し」の嫌疑をかけたプロバガンダ工作を行ったが、当の本人は否定しなかった。カール王が崩御するタイミングがあまりに良すぎたため、その説は広い支持を受けた一方で、国王の汚名をレイドリックが代わりに被ったと言う完全擁護の説については最後まで市民権を得る事はなかった。

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