グラン暦761年、レンスター城、謁見の間外側――
 レンスター王カルフは、どちらかと言えば臆病な性格である。宿敵トラキアとの抗争においては地槍ゲイボルグを振るって勇猛果敢な戦いを見せるが、国王として玉座に鎮座しているときは理知的で慎重であった。
 その傾向が顕著になったのは、王太子のキュアンがシグルド軍に参加して以来の事である。宣戦布告したわけではないが、逆賊と手を結んでいるためにグランベルとは潜在的な敵対関係にあったため、カルフ王は謀殺の可能性を警戒しなければならなかったからだ。皇帝戴冠式に出席しなかったのもそれ所以であるが、彼の性格が過剰に働いてしまった結果である。
 これによってグランベルの不興を買い占めたカルフ王は、厳重に敷いていた警戒態勢をさらに強化する危機感に追われた。結果、国王が使用する区域へと続く廊下には重鎧をまとった騎士が短めの等間隔で立ち並ぶことになっていた。
 黙って立っているのは、意外にも最も苦痛な作業である。何もできない分だけ暇を持て余すわけであるが、気を抜いてしまうと鎧の重みが体にのしかかって来る。気を張りつめさせていれば気にならないのだが、ただそこに立つだけでは集中力を持続させるのは困難と言う二律背反が騎士達を襲っていた。
 裏を返せば、これに耐えられるような者は真の精鋭である。増加警衛で含有率は下がっているものの、要所には優れた騎士が目を光らせて国王の安全を保証していた。
 一方で立っているだけではやっていられない者は、動かずして可能な事を模索する。目の前の変わらぬ白い壁と仲間の重鎧以外に景色が変わる瞬間、つまり賓客の通過こそが彼らの最大の娯楽のタネであった。
 ただし粗相があってはならないので鉄を鳴らすのは厳禁である。首を動かさずに、鉄仮面の窓に映る一瞬を焼き付けるしか垣間見れないのだが、何の変化もない時間を変えるにはそれで充分であった。
 そんな毎日が続き、今日と言う日を迎えていた。陽が赤みを帯び始めたころ、廊下の奥から何やら女性の声が聞こえてきた。騎士達は耳だけをそちらに向けて何事かと聞き入り始めた。
 まず彼女の声の張りに惹かれ、目の前を通過したに見えた気高さと美しさに心奪われた。そして虜になった直後、彼女の剣幕の内容に紅潮から一気に青ざめた。
「…………まったく、兄が犬ならここの王は蛙も同然、国土が狭い上に王の器まで小さいときましたわ!」
「姫様、どうかお気を静め下さい。カルフ陛下にも考えがおありでしょう、安全の保証を頂けただけでも何よりではありませんか」
 この廊下を守る騎士達は、保全の都合上、誰がいつ頃通るのかを掌握している。女性となれば数も搾られるので特定は容易であった。ノディオン王国の王妹ラケシスとその従者に違いない。
「安全の保証など嬉しくともなんともありません。ただでさえノディオンが本来の地ではないのに、ましてやこんな片田舎に長居するつもりなんかありませんわ!」
 実際に言えばレンスターはグランベルを除けば大陸五指に入る栄えた都市である。
 レンスター王国とノディオン王国とは大陸の東方と西方に離れて位置しているが、お互いの実情を知らない仲ではなかった。むしろここ十年ほどは蜜月関係が続いているぐらいである。お互いに故人であるがレンスター王太子キュアンとノディオン王エルトシャンはグランベルの士官学校で机を並べた親友同士で、エルトシャン王の妃グラーニェはレンスター出身でキュアンの仲介によるものだった。
 アグストリア戦役の際、グラーニェはアレス王子を連れてレンスターの実家に戻っており、バーハラの戦いで敗れたラケシスが義姉にあたるこの女性を頼ってきたのは当然の流れであった。
「しかし姫様、『グランベルに攻め込むから兵を貸しなさい』は、いくらなんでも納得されるわけはないでしょう」
「イーヴ……貴方は騎士でありながら王の意思に非を唱えるの? それに、あれはカルフ王がこの絶好の機会を逃すほど愚かだっただけですわ」
 カルフ王よりも臣下の批判の方が気に障ったか、仰角気味にそっぽを向けて歩く速度を上げるラケシス。
「とは言え……」
 ラケシスとカルフ王。
 通り一遍の社交辞令を済ませた後、ラケシスはカルフ王に対し、レンスター騎士団ランスナイツを供出しろと迫った。
 グランベルがシレジア征伐に出たのは、まさかレンスターが動くとは夢にも思わなかったからだろう。イード砂漠でキュアンとランスナイツの半数を失ったレンスターにそんな余力は無い、とアルヴィスが踏んだからであった。どだい、シグルドの動きに便乗するのがせいぜいのレンスターに、隙だらけであっても独力で攻め込んで来る気概はあるまい――というグランベル側の分析は完全に正しかった。
「だいたい、シレジアと連合すらしていなかったなんて、お馬鹿さんにも程がありますわ!」
 レンスターの方針がもしも主戦であれば、グランベルに敵対視されているシレジアと手を組むのは当然である。同盟国さえいれば、シレジアも抗戦か降伏かでああまで揺れる事もなかったであろう。
 グランベルがシレジアと正面を向き合った場合、レンスターは右側面に位置する。シレジアとレンスターとが同盟を結べば、シレジア出兵はおいそれとできるものではない。大内戦で深く傷ついたグランベルに、シレジアとレンスターとの二国を同時に相手にしては余裕などない。少なくとも、遠征は延期せざるを得なかっただろう。
 ところが、シレジアが生き残りを賭けて踊っていた間、レンスターは何のアクションも起こしていなかった。キュアンの独断専行に振り回された被害者であるカルフ王は、完全にグランベルと敵対するのを嫌ったのである。
「戦う気がないなら、せめてこの私を捕らえて差し出せば、少しはグランベルにいい顔もできるでしょうに……それすら出来ないような小心者の血筋から、どうしてキュアン王子のような方が生まれて来るのかさっぱり分かりませんわ!」
 キュアンは北側の王族でありながら半島統一の大望に燃える野心家であった。そのため、同じくアグストリアの覇者を目指すラケシスとは意気投合し、よく日課のティータイムに相伴していた。似た者同士の二人は自分の夢を語り合い、お互いそのための協力は惜しまないと誓い合った密かな盟友であった。
 ラケシスは、そのキュアンのいたレンスターを頼って来たのである。キュアンの実父であるカルフ王に対し、当然ながら息子と同程度かそれ以上の覇気を期待していた。結果、その分だけ失望と怒りは増幅されてしまっているのだ。
 なお余談であるが、キュアンとラケシスとの交流はある副産物も生産していた。昼下がり、毎日のようにラケシスと顔を合わせることになったキュアンの、いつも連れていた従者が、気高くそして麗しきラケシス姫に惹かれて行ったのは自然の流れである。ただし、「臣下の分際で王に恋慕するとは不敬罪に値しますわ!」と言う痛烈な回答が寄せられたのもまた然りではあったが。
「この国にはこの国なりの事情がありましょう。今日が駄目でも辛抱強く説かれれば、カルフ陛下もきっと心変わりされましょう。それにここにはレンスターの騎士がいます、こんなところで不興を買っても損にしかなりません」
 イーヴもまた騎士である。廊下の脇に立ち並ぶ騎士達の視線にはとうに気付いていた。騎士達はラケシスの覇気に気押されて頭が真っ白になっているので何を言っても問題ないのであろうが、もしも万が一、彼らが醒めてしまうようなことがあればラケシスの言動は不利に働くことになる。王が蛙だとか馬鹿だとか小心だとか、国は片田舎だとか……いくら賓客であってもここまで言い放ってしまえば無事を保証するのは困難と言えよう。
「騎士……? 私にはまるで見えませんわ、ここには鎧の置物が並んでいるだけでしょう?  そもそも騎士ならば聞き流して当然、王の会話を盗み聞きしようなどとは臣下の分際で僣越の極みと言うものですわ!」」
 立ち止まって優雅に廊下を見回したラケシスの口から出た言葉は、またもや安全か危険か考えようともしない一言であった。
 最終的にシグルド軍最強の近衛騎士隊を擁するようになったラケシスが、重鎧の中に人が入っているかどうか見抜けないはずはない。王にとって騎士など眼中に無い――と言う意味があったのだろうが、そこまで頭が回らない状態にある騎士達はより一層深く思考能力が硬直することになった。
「どうか御自重下さい、このレンスターの地にはグラーニェ王妃様もアレス殿下もいらっしゃいます。ノディオン再興の芽を、姫様御自身で摘み取られてはなりませぬ!」
 ラケシスと相対する場合、王と臣下の境界線は絶対である。
 それが分かっているイーヴであったが、主家を想うあまりついつい踏み込んでしまう。出過ぎだとは分かっているしそれに厳しい主君であるとも承知の上だが、罰を恐れずに忠言するのは彼の救われぬ美徳であろうか。
「……」
 ただ、イーヴの忠言は正論である。まだ幼いアレスがノディオンに返り咲いて王となるにはまだ長い年月が必要である。それまで匿ってくれそうな場所となればレンスター以外に考えられない。ラケシスには、レンスターに礼儀正しくある義務があるのだ。
「……分かりましたわ、貴方の忠節に免じて今回だけは聞き入れて差し上げますわ」
「ありがとうございます」
 渋々と頷いた主君と、頭深く下げる騎士。しかし、激昂が収まったわけではなかった。
「ですが、王の領域を踏み荒らしたことは別です! 罰として今宵の晩餐会は、イーヴ、貴方が代わりに出なさい!」
「えぇ!? しかしそれでは何の意味もありませぬ! カルフ陛下主催なのですよ! それを……」
「そんな些事など知ったことではありませんわ! まったく、王の領域を貴方にまで踏み荒らされたおかげで気分が優れませんわ! わたしはもう休みます、護衛は不要です!」
 一時は立ち止まっていたラケシスであったが、そこまで言い放つと足早に去って行ってしまった。
 追いかけて呼び止めるタイミングを逸したイーヴは、そこに捨て置かれた。
「はぁ……」
 休むと言っても、王の領域などまるで気にせず土足で踏み込んで来る自由闊達な男のところへ行ったのだろう。護衛の有無そのものに興味を示さない(あるいは眼中に無い)ラケシスが、わざわざ不要と言うのはそれ故だろう。
 それにしても今夜の晩餐会はどうしたものか、と悩みふけるイーヴが、重めの足どりで廊下を後にして行った。
「……」
「……!」
 そして、ラケシスと、その残り香とも言うべきイーヴが立ち去った後、緊張の糸が切れた騎士達の約半数がその場に倒れ込んだ。

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