ヴェルトマー城内某所、レィム私室――
「……ならばダゴン様やユフィール様……あぁ、もう分かったから話してくれ」
 最近、レィムを頼って来る信徒の数が増えている。
 当初は“黒”を纏っている身では不相応と断りを入れてきたレィムであったが、あまりの数の多さに断るのも億劫になったのか、今ではすっかりマンフロイの留守居役になってしまっていた。それでもこの小さな部屋から出ようとしないのは彼なりの抵抗なのであるが、そんな事はお構い無しにと小さな木戸は頻繁に鳴らされていた。
 最近の信徒達の表情からは、はしゃぎ過ぎの喜びとその反面の焦りが含まれている。ロプト復権まであと僅かまで迫った嬉しさと、そこまで来ておきながら足踏みしている現在に苛立ちを覚えているからだ――と、レィムは分析していた。
「我らが覡アルヴィス様の戴冠はいつなのですか?」
 本の匂いが充満するこの部屋を訪れる信徒達は、こればっかりを聞いてくる。
 アルヴィスの皇帝即位は、おそらくユグドラル統一を果たしてからだろうと言う事はレィムにも分かる。
 地図上でグランベルの領土ではないのはノイマン半島とトラキア半島である。半島2つと言えば少なそうに思えるが、ノイマン半島はシグルド軍残党が多数逃げ込んでいるシレジアがいる。トラキア半島の南部は大陸屈指の軍事国家トラキア、北部はそのトラキア王国に圧迫され続け政治的に安定しない北トラキア諸王国――いずれも一筋縄で行かない相手である。
 大内戦で計上不能な損害を受けたグランベルに、外征に出られる余裕などあるのだろうか――レィムには、遠征する姿がどうしても想像できなかった。
 百余年前に地下に潜って以来の変遷を振り返ると、現在の状態は目的達成まであと一歩のところまで来ている。ここまで持って来るのに百年もかかった事を考えると、ロプト公認は明日にでも迎えそうな雰囲気になってくる。
 レィムはそこまで楽観的ではない。ここ数年の急速な浮上ぶりを見ていれば悲願は目の前にあるという錯覚に陥るのもよく分かる。だがここからが長いのだと理解もしていた。
 アルヴィスの大陸統一は、おそらく早くて3年、遅ければ数十年かかるのではないか――レィムはそう見立てていたが、そんな分析を正直に信徒達に伝えるのは恐ろしいので「浮かれず粛々と待てば近いうちに必ず」と濁した回答を出していた。
「……ふぅ」
 一通り信徒達を追い返して、やっと一息。
 おかげで研究が全く進まない現状への嘆きと、信徒達の浮かれっぷりへの不安。前者についてはロプト公認後にバーハラ城の書庫に籠もればいくらでも取り返しはつくが、心配すればするほど後者の状態に恐怖せざるを得なかった。
 信徒達が陥っている現状への狂喜も焦りも、ロプトの教義から大きく逸脱している。
 ロプトの教えとは、徹底した自我の制御である。
 物事に一喜一憂せずあるがままを受け入れ、己の感情を穏やかにして全てと調和する――ロプト教とは、これを教義にしてきたのではなかったのか。
 大司教ガレは、全てと調和するために全てをロプトの枠に入れなければならないと唱えてロプト帝国を建国した。だが教義の鍔迫り合いで光の神々と幾度も衝突し、多大な悲劇を生んでしまった。
 百余年前、ロプト帝国が打倒され、信徒達は地下に潜った。数え切れない迫害と弾圧に怯えながら、ここまで来た。ようやく日の目が見えかけたことで浮かれるのも分からないでもないが、ここで自我を抑え切れなければ、またロプト帝国時代の悲劇を繰り返す事になる。
 大司教ガレの弟マイラは、光の神々とも調和を果たそうとロプトウスを土着の高位神と位置付ける新たな解釈を発表した。これだけを聞けば画期的にも思えるが、全てが調和するためには全てを包括する絶対な存在が必要だとするロプト教の基本から逸脱していたため異端視された。
 人間にとって唯一無二なもの、例えば――この部屋からは見えないが――あの日輪のように神聖不可侵なものがあって初めて調和はなされる。あらゆる自我を包み込む“何か”がなければ融合は果たせないのだ。そもそも“神”とはそう言う役割なのだから。
「……」
 今のロプトには、それが欠けている。
 ロプト教の復権ばかりが目標となり、ロプトの教義が蔑ろにされている気がしてならない。
 覡アルヴィスと巫女ディアドラとの間の子にロプトウス神が降臨する話が事実だとしても、ロプトの民はその元で調和できるのだろうか。
 大司教ガレと同じ現人神を崇めるのに問題はないが、熟年のガレと胎児の新たな御子とでは意味合いが変わってくるのではないだろうか。
 森羅万象全てを包括する絶対唯一の存在であるロプトウスは、畏怖の存在でなければならない。しかし、ロプトが降臨するにせよ子供にそこまで恐れ敬うことが果たして可能なのだろうか?
 ロプト帝国が巻き起こした数々の悲劇は、初代皇帝ガレ崩御後の子孫達が“支配者”であった所以にある。領土の面で大陸全土を統治していても、神ではなく皇帝としての意思では包括する枠がどうしても狭くなる。軍事力を持って支配するのと、教義によって精神に影響を及ぼすのとでは範囲に雲泥の差が出る。結果、その枠外の反対勢力と衝突を繰り返し、皇帝が発する本筋から外れた天意によって虐殺が行われる結果となった。
 グランベルの皇子として生まれてくる御子がロプトウスとして君臨する時、年端もいかない子供だった場合、誰かが後見人とならなければならない。となれば、その時点でロプトウスの絶対性は崩壊してしまう。ロプトウスは唯一無二なもの、何人たりとも触れることが出来ない神聖不可侵なものでなければ、人々はその傘の下で調和できないのだ。
 だが、あの浮かれようと焦りようの今のロプト教徒達は、御子が成人するまで待ってくれるのだろうか。
 ディアドラ懐妊の報は大陸中の知るところだ。非常的措置として認められたアルヴィスとの結婚で待望されたバーハラ直系の男子と喜ぶ大多数の者と、ロプトの御子の誕生に浮かれる少数の者。
 皇子か御子か――ロプト復権を果たしたとしても、解釈の違いで衝突が起こるのだろう。
 あと30年は健在であろうアルヴィスの英才教育を受けて立派に成人してくれるのがレィムの望みだが、アルヴィスの手から奪って一刻も早く君臨させようとする信徒達が必ず出てくるのだろう。
 裏を返せば、そんな動きを見せようとすること自体が既にロプトの教義から外れている。御子を待つのは当然だとしても、その間だけでもロプトの民を包括する指導者が必要なのではないだろうか。
 教団のトップである大司教マンフロイは地の底にいたロプト教徒をここまで浮上させた功労者だが、本人が不在な事が多く指導者に向いていない。せめてもっと腰を落ち着けてくれれば、信徒達も収まるのであろうに。
「……シレジア工作は、巧く行っているのだろうか」
 義父を思って独りごちる。
 魔術も話術も、マンフロイほど傑出した者はいない。だから政治工作を行うに大司教自らしかおらず、そのため何かにつけ指導者は留守をしてしまう。せめてシレジア工作を早々に完了させて戻ってきてほしい――あぁ、聖霊の森がまだあるんだっけ。
 ……だが、レィムの願いを他所に、マンフロイはシレジアで窮していた。指導者たるマンフロイが出先で行き詰まれば行き詰まるほど、ロプトの民は教義から逸脱した群れになってしまう。その危険性とその現実に、レィム以外の誰も気付かないままに。

NextIndex