「それではこれにて失礼します。母上もどうかお健やかに」
 誠意の欠片も無い言葉を残したレヴィン。彼に向かって花瓶が投じられるも閉じられた扉に遮られて届かなかった。
「あ、あの、ラーナさま……?」
「えぇい、そなたたちなど呼んではおらぬ! 早ぅ消えぃ!」
 高価な陶器が割れた音に驚いて顔を覗かせた侍女たちだったが、ラーナの喧騒によって首を引っ込めざるを得なかった。
「さすがは吟遊詩人、御子息に言葉を操らせては右に出る者はおりませぬな……それにしても不可解な行動に出て来ましたな……」
「不可解ではなく不愉快じゃ!」
 抑えの効かない怒りは、自分の影から現れたマンフロイに対したとしても熱を冷ましようが無かった。
 この日、シレジアの今後の方針について討議する名目で現れたレヴィンは、詩人としての経験を最大限に生かして徹底的にラーナを挑発した。もともとレヴィンを陥れる予定であるラーナは目的達成のために我慢強く相手をしたものの、人間の精神力は有限である事を証明したに過ぎなかった。
 しかもラーナの怒りが爆発する瞬間を見切って退室したため、侍女たちやマンフロイにまで影響を及ぼしているのだ。
 ラーナにしてみれば、グランベルの使者であるマンフロイに八つ当たりして心象を悪くするメリットは何も無い。と、頭で分かっているにも関わらずこの状態である。彼女の理性ではマンフロイに怒気を向けるのは避けたがっているのだが、代わりに花瓶を投げたぐらいでは収まるものでもない。
「兵じゃ!兵を挙げるのじゃ! 小憎らしい息子を討ち滅ぼすのじゃ!」
「挑発が目的ならば、怒れば術中に嵌るゆえ……」
「意図的ならばなおさら許すわけにいかぬのじゃ!」
 マンフロイの気休め程度では静まりようがなかった。
 彼の話術は、相手の心の闇に食い込んで内部から籠絡する種のものである。それゆえに相手の心理状態は虚ろなものであることが要求される。しかし、今のラーナは怒りのエネルギーが全方位に向かって放射されている。
 我を忘れている状態は一見して隙が大きそうに思えるが、実は最も堅牢である。何しろ、入り込める余地がどこにもないからである。言葉で誰かを操ろうとするならば、相手は言葉を解さなければならない。いくら人語を解したとしても、聞く耳を持たないのではどうしようもないのだ。それをどうにかするには言葉以外の何かが必要なのだが、マンフロイは言葉以外にこれと言った能力は持ち合わせていない。
 そもそもマンフロイがシレジアを訪れた理由は「ラーナとレヴィンとを争わせてシレジアを弱体化させる」事である。もしもこの時期に内戦が起こってしまえば、グランベルが遠征する来春には勝者のもとで一枚岩になっている可能性がある。
 動かせる兵力はラーナの方が大きいが、レヴィンのもとにいるのはグランベルと戦った最精鋭である。残党とは言え「シグルド軍」の称号を背負ったのが相手では、おそらくラーナが敗れてしまうだろう。ましてや今日のレヴィンの挑発は明らかに罠であるから、これに乗せられて兵を挙げるのは愚の骨頂と言えよう。
 アルヴィスがユグドラル大陸を統一して帝政を敷かなければ、ロプト教徒が日の目を見ることは出来ない。100年もの雌伏に耐えて来た彼らだが、いざ手が届きそうなところまで来ると途端に焦るものである。沈着なマンフロイであっても、シレジア攻略が困難になって悲願成就が遠のくことを享受できない。
 だから、絶対にラーナを暴走させてはならないのだ。内戦の真っ最中に雪解けが訪れるタイミングを見計らって事を進めなければならない。
 だが、そこまで分かっていたとしてもマンフロイにはどうする事も出来ないのだ。理性が効かない状態では、何と言おうと意味が無いのだから。
「……」
 マンフロイは、スリープの杖を持って来なかった事を後悔した。
 いわゆる魔法と言う名の奇跡は、その力を封じた魔導書なり杖なりを発動体として用いなければ効果が現れることは無い。なお、実際には本や杖の形状でなくても構わず、単に便宜上そう呼んでいるのみである。
 ラーナの手が付けられない激昂も、一夜の眠りを挟めば和らいだかもしれない。催眠状態の彼女の心に干渉すれば、怒りを静められたかもしれない。僅かな不用意が、大きな痛手となった。
「誰か!誰かおらぬかえ!」
「は、はい!何でございましょうかラーナさま」
 声に応じて侍女たちが入ってきた。それに伴い、姿を見られるわけにいかないマンフロイは再び闇へと消えざるを得なかった。
 兵を挙げると叫んだ瞬間から、ラーナが侍女を呼ぶのは分かりきっていた事だ。だが、百余年もの月日を耐え忍んできたマンフロイは、その副作用で咄嗟に脳漿を働かせる敏捷性に欠けていた。有効な手を見出せぬまま時間切れに遭い、最悪の状態のまま退かざるを得なかった。
 マンフロイがその現状を受け入れたのは、少なくとも明朝いきなり開戦と言うことにはなるはずなく、明くる日にはまた制御可能なラーナに戻っているだろうと見越したからだ。

 だが翌日の朝日が昇ってみると、事態はマンフロイの思惑とはかなりの誤差が生じていた。
 長時間に及ぶ陰に潜む術を維持しきれなくなり、一旦は姿を消したマンフロイが再びラーナを訪れた時、彼女は既に挙兵の態勢を整えてしまっていた。レヴィンと比較されたりで何かと低く見られているラーナだが、先王崩御の際に一夜にして権力を掌中に収めた実績がある。やや視野は狭いが、その行動力は決して侮れないものであったのだ。
 この時期に開戦→レヴィンが勝利してシレジアを纏め上げる→防御態勢を整えグランベルの侵攻を迎撃→アルヴィスの大陸統一が果たせない→ロプト復権が遠のく――この図式だけは絶対に避けたいマンフロイ。
「息子がああ出て来たのなら降伏を促すのは不可能じゃ、戦わねばならぬのなら早いに越した事無いであろ?」
 ラーナは平静さを取り戻してはいたが、挙兵の腹積もりは不変であった。
 グランベルに降伏するためにはレヴィンを除かねばならない――ラーナにとってこれは不可欠である。当初はレヴィンを口説く方針でいたラーナであったが、いつでも挑戦を待っている風の口ぶりだったレヴィンを見る限り、懐柔は困難なものであるようだ。となれば、実力を持ってレヴィンと抗戦派を屈服させなければならない。しかも、降伏の条件をより良いものにするためには早期に成し遂げなければならない。
 ただグランベル側にとっては降伏を認める気など元よりさらさらなく、どう転んでも出兵するのは確実である。ラーナがレヴィンを打倒しても、グランベルが侵攻しようとすればシレジアは防衛する気になるだろう。
 最上は雪融けを迎える来春までラーナとレヴィンとが対立し続ける事である。内戦は大いに結構だが、それまでに決着がつかれては困るのだ。だから今の時期に挙兵されてはグランベルの計画から大いに外れてしまう。
 そんな事情から挙兵して欲しくないのだが、そんな思惑をラーナに告げられるわけがない。彼女は、降伏すればシレジアと自分の権勢が安堵されると信じている。だからこそ、懐柔できたのである。
「妾が敗れることを心配しているのかえ?」
「然り……」
 確かにレヴィンよりかはラーナが生き残った方がまだ好都合だが、現状では返り討ちになる可能性の方が高い。
「どうしてもそなたの不安が晴れぬと言うのならば、リューベックの軍の支援を仰ぐにやぶさかでないぞえ?」
 内戦の引き金となりシレジアを分裂に追い込んだのは彼女だが、シグルドを引き込んで勝利を収めたのも彼女である。シグルドと同盟を結んだ事による悪影響はともかく、勝つために手段を選ばない性格は一つの才覚であろうか。
 ラーナの最大の武器は、自分が無力である点だ。
 グランベルにとっては、ラーナを見殺しに出来ない。シレジアへの足がかりを考えれば彼女の協力は不可欠である。しかし、大内戦が終結したばかりで余力が残っていないグランベルに対し、軍を出せとは無理な注文である。
「……」
 マンフロイは、政治的権力を有していない。
 アルヴィス個人に仕えているため、グランベルの軍に関しては何ら影響力を持たない身だ。言い換えれば、マンフロイ自身とロプト教の枠を超えたところでの外交は全く出来ないのだ。
 現在リューベック城に駐留するダナンの軍が東からレヴィンを牽制すれば、確かにラーナの軍が勝ちを拾う可能性は一気に跳ね上がる。それぐらいはマンフロイにも理解できる。しかし、それを承諾するだけの権利をマンフロイは預かっていない。
 軍を動かすのはアルヴィスの裁量であるから、バーハラに戻って主の裁可を仰ぐのが正論である。そもそも今回の使命はシレジアに対する工作であるが、ラーナのこの提案はもはや外交の範疇だからだ。しかし、マンフロイにとって子供の使いに成り下がるのだけは避けたかった。
 ロプト復権のためには、アルヴィスが帝政を敷いた時にどれだけの政治的権力を握っているかにかかっている。そのためには、今のうちから功績を積み上げていかねばならない。せっかく対シレジア工作を任せてもらったのである、このチャンスをものにできなくては今後の発言権に大いに影響してしまう。
「……」
 そんな理由で、マンフロイはラーナの提案に対しての返答に窮した。
 グランベル軍の支援無しにレヴィンに勝てないから断れない。
 自身が軍権を握っていないから独断で承諾する事が出来ない。
 アルヴィスの信を失えないから主に裁可を仰ぐ事が出来ない。

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