ヴェルトマー城内、某所――
 暗い部屋の中で一人の男が小さな机の上に向かって、何やら文章を綴っている。
 机の上に立てられた、この部屋の唯一の灯りである蝋燭によって照らされた男の身体は、夜に溶け込みそうな黒いローブに包まれていた。もしも一般的な市民が彼の服装を見たら、間違いなく邪教の徒と認識するだろう。
 それが、彼がこんな密室に閉じこもっている何よりの理由である。アルヴィスによって密かに保護されているとは言え、ヴェルトマー城内であってもロプト教徒の存在は公認に程遠い。
「レィム様……」
 小さな木戸が鳴らされ、その向こうから幽かな声が届いた。
「……どうした?」
「火急の用なりて……」
「……あぁ、入っていいよ」
 男は、滑らかに走り回るペン先を止めずに、答えた。次いで木戸が渋い音を立てて開き、同じような格好をした人間が入って来た。彼はフードを深く被ったままのため、声から成人男性と判断するぐらいしかできない。
「ときに、その言葉の“間”は……」
「……あぁ、研究の都合でこないだから始めたんだ。気にしないでくれ」
 入って来た男は、部屋の主が知らぬ間に発言の前に妙な間を置くようになったことに訝しんだが、非難できる立場ではなかったのでそれ以上は追求しなかった。
「……それで、今日は何だい? 最近、私宛の用件が増えて書き物に集中できないんだが」
「大司教猊下が御不在ゆえ、レィム様に頼る他無く……」
 入って来た同胞の言葉に、彼の右手の動きが止まった。
「……ならばダゴン様やユフィール様やバラン様に伺えばいいだろう? お前と同じ“黒”の私に御用聞きに来てどうする」
 ロプト教の聖職者は、纏っている法衣の色によって階級を判断できる。最下層の修道士達が黒のローブ(法衣として認められていない)、最高位である大司教への階段を上るに従って、法衣の色は赤くなっていく。なお、大司教すら纏うことが許されぬ真紅の法衣が存在するらしいが、それを身に付ける事ができるのが誰なのかは明らかになっていない。
「血の交わりに勝る絆はありませぬゆえ……」
 この場合の血の交わりとは、この二人の男が血縁関係にあるというわけではなく、部屋の主である彼が大司教の代理を務める理由を指す。
 彼の名はレィム。若い世代のロプト教徒の中で傑出した才能の持ち主であり、早くからマンフロイに見出されていた。その将来を嘱望したマンフロイは、彼に一人娘を与えて婿養子に迎えていた。大司教の地位は世襲ではないが将来の最有力候補として推薦しているに等しく、レィムは地位の割と不相応な役割を担っている。
「……もう分かったから、早く話してくれ」
 レィムは止めていたペンを机の上に投げ出した。大司教の婿養子として特別扱いされるのは好きでなかったが、たった今さっきまでのように修行せずに趣味に没頭できる特権を与えられており、それを遠慮なく
行使しているので強く否定もできなかった。
 彼の本質は学者であり、研究こそが趣味である。イードの砂漠に埋もれなければ生きていけなかった現状を分析しても面白いことなど何一つあるはずもないのに。
 かつてロプト帝国が栄えていた頃の研究に没頭するロプト教徒はいるが、レィムのようにナーガの世に興味を示す者など他にいない。マンフロイはレィムの才能を高く買っていたが、この趣味だけは毛嫌いして止めさせようとした事があった。結局は強硬な抵抗に遭って断念したのだが、それが怪我の功名となって今ではマンフロイを大いに助けている。
 ロプト勢力の情報収集能力がどんなに優れていても、それを整理する者がいなくては宝の持ち腐れと言うもの。アルヴィスに運命を賭けていても全ての情報を提供するわけにはいかないものである、分析力に富んだ者が身内にいると言うのは極めてありがたいものなのだ。
「聖霊の森が再び騒がしくなっております、おそらく例の話かと……」
「……大司教猊下が放り出してシレジアへ飛んでしまったせいだな」
 バーハラの戦い直前から、マンフロイはヴェルダンへ潜入していた。南西部にある聖霊の森はディアドラの故郷であり、別派ながらロプトの民が住まう隠れ里である。
 ロプト帝国崩壊後、その教えを信じる者は地上からことごとく姿を消した。それでも多くのロプト教徒が“ロプト狩り”によって火あぶりにされ、生き残った拠点と言えば今ではイード砂漠や聖霊の森を含めて五指で事足りるまで衰亡していた。
 ここまでを踏まえて考えると、言わば聖霊の森は貴重な同胞である。だが、マンフロイがこんな大事な時期に向かったのは友好的な会談が目的ではなかったのだ。
 しかしマンフロイはその工作の中途でアルヴィスに呼び戻され、シレジアへ向かう事になった。結局、ヴェルダンは未解決のままで放置されてしまった。席を外してもしばらくは大丈夫だろうとマンフロイは読んだようだが、どうやらそうは行かなかったらしく、こうしてレィムのところまで問題が上がって来ることになった。
 起こっている問題とは、イードと聖霊の森との派閥闘争である。
 一度はディアドラを放逐した前科があるものの、巫女の生地と言うのはやはり強い武器になる。ディアドラが世界の頂点に立ったのを見ると、分け前をものにせんと接触を図ろうとしたのだ。
 これに対し、世界の運命を背負っていたディアドラはその精神状態からして受け答えできなかった。アルヴィスへの想いと理性が衝突する毎日を送っていた巫女にとって、新たな問題を抱え込めるほど余裕があるはずもなく、周囲の者も気を遣ってディアドラを長老と会わせるのを避け続けた。
 聖霊の森のロプト教徒たちは、大なり小なりディアドラやアルヴィスと同じ血が流れている。狭い隠れ里では血族結婚の必要性も生じて来るため太聖母シギュンまでの系譜はとても書ききれるものではない。婚姻関係を表す二重線は普通は横に伸ばすものだが、斜めはおろか縦に伸びるケースすらあったのだ。
 それだけならイードのロプト教徒にも言えることだが、肝心なのは聖霊の森の者達全員がアルヴィスとディアドラとの外戚である点だ。
 正統ロプト教徒のイードの者達にとって、異端である聖霊の森は紛れもなく敵である。その彼らがこれから訪れるであろうロプトの御世に割り込んで来られてはたまったものではない。
 だからマンフロイは自らヴェルダンへと赴いていたのだが、アルヴィスの命令は断りようがなかった。片手間でも何とかなると言う外れた目論見もあったが、まだまだアルヴィスの御機嫌をとっておかなければならないのがロプト教徒の苦しい実情である。
「……うん、放っとこう」
 一度は転がしたペンを拾って手元で遊ばせていたレィムが、そんなことを言い出した。
「……たぶん、何も出来ないと思う」

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