ザクソン城――
 シレジアの機動戦力はここに集結し、東との睨み合いを続けている。
 バーハラの戦い以後、シグルド軍は追撃を避けるためにリューベック城を放棄。その空城に進駐した新ドズル公ダナンの軍と睨み合いが続いている。
 シレジアは、半島周囲の制海権を握っていないために前に出られない。砂漠の際にあるリューベックは防衛に適した地形なのだが、海を渡られてシレジア本土に上陸される可能性を考えるとリューベックでの抗戦は現実的ではなく、ザクソンに籠もったままにあった。
 悲観的な状況にあったが、シレジア兵の士気は意外にも低くなかった。
 最終的に敗れはしたものの、グランベルをあそこまで追い詰めた事実は、兵士達に強い自信を与えた。永世中立を唱え、対外戦争が無かったシレジアの兵士達にとって、「やれる」と言う無形の味方は何よりも心強い増援となっていた。
「……」
 それを目の当たりにして来たレヴィンは、シレジアの今後の方針に迷った。
 シグルド抜きではあの軍の強さは再現できない。言い換えれば、シレジア兵の自信は何の根拠も無いものであり、戦いが始まってしまえば脆く崩れてしまいかねない。
 その一方で、この士気を維持できるのならば勝てそうな予感もする。防御戦とは勝てずとも負けなければ良いのであり、慣れ親しんだ地の利を生かして立ち回れば追い返せるのではないだろうか、と言う気がしてくる。
 何しろ、シレジア王国は戦争可能期間が他国の3割減である。どんなに精強で多数の軍であれ、シレジアの冬の中で戦いきれるものではない。現にグランベルは冬の到来を考慮して年内の遠征を断念している。シレジアは雪融けまでの時間が保証されたわけであるし、侵攻が雪融け後と分かっているのだから対処もしやすい。グランベル軍の実力も分かり、情報に関しても不安は無い。
 それだけの好条件を備えてはいるが、やはり皮算用ではないかと言う不安も払拭しきれない。事実、シグルド軍はグランベルには勝てなかったのだ。どれだけ戦術的勝利を積み重ねても、ただ一度の敗戦で勝敗が決してしまうのがグランベルとの戦争だと言うことを、レヴィンは痛感していた。グランベルはシグルドを討つために支払った代償から立ち直っていないが、それは内戦を行ったシレジアも同じである。結局のところシレジアとグランベルとの戦力比はほとんど変わっておらず、シレジアはシグルド軍と同じく一度の過ちが致命傷となる運命を背負っている。
 戦争は平穏の正反対の状況である。平穏でないと言うことは予測のつかない事の裏返しである。過ちを犯せないシレジアが予想不可能な戦争状態に突入するのは危険極まりない。シグルドが、ディアドラが参戦したと言う、ほんの小さな予想外の出来事で斃れたように。
 母ラーナに召喚された時、普段のレヴィンならば無視したであろう。和平を説いてくるのは目に見えていたし、それ以前に顔も見たくなかった。さらに陰謀に巻き込まれかねない危険も孕んでいては、のこのことシレジア城に赴くのは愚かな行為であった。
 しかし、レヴィンはラーナの話を聞きに行ってしまった。王侯貴族のエゴを嫌って来たレヴィンにとって、自分のみの考えでシレジアの命運を賭けるのは好きでなかった。そして、ラーナの話に耳も貸さないほど抗戦論に自信があるわけではなかった。
 結局、ラーナの説得を受けたレヴィンの秤は降伏にやや傾いた。どだい、シグルドに賭けた時点でシレジアの命運は決まっていたのだから、これ以上の抗戦は状況を悪化させるだけだ。それならばすみやかに清算して被害を最小限に留める方が利口だ――そう考えるようになった。グランベル相手に最小限で済むかどうかは置いておくとして。
 そう固まりつつあった時……シレジアの命運は再び大海原に投げ出された。
「殿下、グランベルの密使を名乗る女が来ておりますが、いかが致しましょうか?」
「…………俺の部屋に通せ。それから、他に誰も近づけさせるな。もしフュリーが戻って来ても追い返すんだ。使者が来たことも隠せ」
 この時間帯、フュリーは私室に戻って来ることはない。それでも念を押しておいたのは、レヴィンにとってこの使者が大きな意味を持っていることを感じたからであろう。
 降伏するにしても、さっさと頭を下げるのが最上と言うわけでもない。駆け引き抜きの外交など存在せず、降伏を選ぶにしても正しい降伏のやり方と言うものがある。いかにして好条件を引き出して頭を下げるかが外交の妙であり、シレジアの命運を守れるかどうかはこの巧拙にかかっているのだ。
 それに必要なのは、シレジアへの侵攻がいかに困難かを知らしめてやる事である。密使が来たことが漏れてこのザクソン城が揺れるような事があれば元も子もない。フュリーを含めて極秘に通せと命じたのはそのためである。
 
「お久しぶりでございます、レヴィン殿下」
「てめぇ……」
 眼光鋭くも、密使の正体にレヴィンは絶句した。
 女だとは分かっていたのだから、冷静に考えれば予想がつきそうなものではあった。しかし天馬騎士隊が主力のシレジアでは重要な地位に女性が就いていることも決して珍しくない。さらにシグルド軍で過ごして来たレヴィンにとっては、密使であっても女性であることに対して警戒心を払わなくなっていた。
「確かアイーダと言ったな。今度はザクソン城前で凱旋式をやろうって提案か?」
 あの罠を仕組んだのはアルヴィスだが、実行犯となるとヴェルトマーにいて凱旋式へとエスコートしたこのアイーダの印象が強い。
 シグルド軍は罠と承知で飛び込んだのだから罠に嵌められたと言うのは筋が違うが、やはり平静ではいられない相手の一人である。
「いえ、本日はレヴィン殿下の味方として参りました」
「…………そのセリフも聞き憶えがあるな。大方、俺に吹き込んで母上と争わせようって腹か?」
 本当は“母上”などとは呼ばないのだが、これ以外の呼び方をすると母ラーナとの確執をこちらから披露することになる。アイーダほどの大物が自ら出向いて来たのならば、それだけ重大な用件があるのは確かである。そんな折にシレジアの弱さを露呈してやるのは愚かとしか言いようがない。無論、万やむを得ずに、と言う表情も見せてはならないのは言うまでもない。
「御慧眼、恐れ入ります。ただ正確には、ラーナ先王妃殿下を影で操る不浄の徒と対抗していただきとうございます」
「……!?」
 あっさりと認めたのも意外だったが、後段で挙げた対象がレヴィンの度肝を抜いた。
 グランベルが謀略を仕掛けるのならば、自分よりも“あの女”を籠絡する方が容易い。子であるレヴィンもそう思っている。当然、今日のアイーダの訪問がシレジアへ打ち込む最初の楔と言うことはありえない。間違いなく、ラーナの方にも陰謀の手が及んでいるだろう。ラーナが早々と降伏を説いて来たのは、既に陥落した後だったのかもしれない。
 という線で考えれば、ラーナを影で操る者が実在することは十二分に考えられる。だが、その者は間違いなくグランベルの手の者である。
「ちょっと待て。今のお前が対抗しなきゃいけないヤツなどいないはずだ」
 ヴェルトマー家は当主アルヴィスが主君であるディアドラと結婚し、最盛期を迎えている。他の5公爵家は全て当主を失っており、ヴェルトマー家の勢いに対抗できるはずがない。言わば、今のグランベルはヴェルトマー家の独壇場で、その家中ナンバー2であるアイーダにとって、足を引っ張り合いをしてでも争わねばならない敵など存在していないはずだ――レヴィンからはそう見えた。
 レヴィンの推測は妥当である。だが、妥当な推測が出来る分だけ、突飛なな考え方はできなかった。
「ディアドラ様とアルヴィス様の母君、シギュン様の出自が聖霊の森であることは御存知かと思います。この森は……」
「ちょっと待て!」
 今度の静止の声は、音量と緊急度の面において雲泥の差があった。
 吟遊詩人として放浪した経験を持つレヴィンは、聖霊の森の正体を知っていた。聖霊の森――この始祖の名はマイラ。……ロプト帝国皇帝ガレの弟である。
 暗黒神ロプトウスを絶対的唯一神と位置付けたロプト帝国に対し、建国以前の風習であった多神教であるユグドラルの神々の中で高位の存在だと位置付けたマイラは、帝国からは異端視された一方でこの穏健な見解を是とする“マイラ派”と呼ばれる一派を生み出した。エッダ家始祖である聖者ブラギがマイラ派の教えを受けていたなど、マイラ派はロプト教の一派ながら一定の尊敬を受け、ロプト帝国が打倒された後も迫害を受けることはなかった。以後、彼らはヴェルダン地方の森の中に隠れ棲み、今日に至る――。
 ディアドラのサークレットには、ロプト帝国時代の幻の美術がふんだんに用いられていた。今では聖霊の森としてヴェルダンの民から崇められているが、そこに棲む民は紛れもなくロプト教徒なのである。
 絶世の美女シギュンは先代のヴェルトマー公ヴィクトルと結婚し、後にクルト王子に見初められた。遺した二人の子が、アルヴィスとディアドラである。
「…………あんたの言いたい事が分かったぜ。こいつは間違いなく“不浄の徒”だ」
 直系ではないにしても大司教ガレと同じ血を引くアルヴィスとディアドラが、今は二人してユグドラルの頂点に君臨している。二人にロプト帝国再建の意志があるにしても無いにしても、過去の栄光の復活を求めて群がるロプト教徒がいても何ら不思議ではない。
「分かった、あんたの用件を呑もう。十二聖戦士・風使いセティの血が云々言うつもりはないが、俺が倒してやる」
「有難うございます」
 “ヴェルトマーの魔女”の異名を持つ身にしてはらしくなく、アイーダは素直な頭の下げ方をした。ロプト教への嫌悪は、ユグドラルの民にとってそれだけ共通した価値観なのである。主の出自が関わってジレンマに陥っているアイーダにとって、憎悪を剥き出しに出来るレヴィンは何よりも頼れる相手だった。
 こうして、継戦中であるグランベル王国とシレジア王国との水面下で奇妙な同盟が生まれた。国家を超越した、ユグドラルの害悪を阻止するのが目的の協力関係。
 だがアイーダはグランベルの重臣であり、レヴィンはシレジアの王太子である。アイーダの退出際にこんな会話も忘れられずに行われた。あまりに快活に交わされた言葉に、後で二人は笑みまで零した。
「言っておくが、ロプトの操り人形になった母上と戦ってシレジアを弱体化させる気はないからな。この国は俺が守る」
「殿下の御健闘、心から願っております。闇の謀略ではなく光の行軍によってシレジアが打ち滅ぼされん事こそロプトを駆逐する鍵でございますゆえ……」

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