ヴェルトマー城――
「…………以上がシレジア王国の現状です」
 この城の現在の主は、“ヴェルトマーの魔女”アイーダである。
 本来の主であるアルヴィスがバーハラを離れられないために、右腕と謳われる彼女が留守を預かっている。
「シレジア軍はザクソン城に集結、抗戦の構えを見せている、か……」
 家臣を下がらせた後。報告書を机の上に投げ出し、後頭部で手を組んでアイーダは独りごちた。
「おそらく、実情はこの通りではあるまい……」
 六公爵時代において、当主アルヴィスの影として暗躍してきたアイーダの経験は、この報告が正しいものではないと読んでいた。
 シグルドの武力を頼って反旗を翻したシレジアが、そのシグルド抜きでなおも戦う気があるとは考えにくく、よしんばそうであっても、この短期間でシレジア国内が一枚岩となるのは至難である。
 ザクソン城に兵を集めていたとしても、それをもってシレジア国内が抗戦で一致していると断定するのは早計すぎる。水鳥のように水面下で必死にもがいている、と考える方がはるかに妥当である。ましてや、マンフロイ以下の闇の一族が扇動を仕掛けているのに。
「情けない……」
 後ろ手に組んでいたのが移行し、そのまま頭を抱える。
 問題は、そこまで分かっていながらも「抗戦の構えを見せている」と言う報告が上がって来ることである。
 グランベル六公爵家の中で、ヴェルトマー家の情報収集能力は最低と言っていい。
 例えばエッダ家は大陸中のエッダ教会を結ぶ巨大なネットワークを所持している。フリージ家当主だった、故・宰相レプトールの権謀術数を支えたのは真贋を見抜く確かな情報筋だった。シアルフィ家が野望を抱いたのは、クルト王子の遺児(ディアドラ)がヴェルダンに隠れ住んでいると言う情報を得たからだ。ドズル家やユングヴィ家にしても高い情報収集能力を持っていたに違いない。
 その中で、ヴェルトマー家だけは情報に疎いものがあった。王党派と反王党派との果てしない政治闘争とは距離を置いて中立の立場にいたヴェルトマー家は、勝つため負けぬための緊張感と無縁であったために積極性が足りなかった。
 でありながらディアドラを奪取して国内の発言権を独占できたり、シグルド軍内の不平分子を籠絡してバーハラ決戦での勝利を拾ったりできたのも、ヴェルトマー家ではなくマンフロイ以下のロプト教徒の存在があったからだ。
 ロプト教――
 大司教ガレによって建てられた帝国が当時のユグドラルにどんな爪痕を残したのか、それは誰でも知っていることである。そのロプト帝国の唯一無二の国教がそのロプト教である。大司教ガレが得た力、暗黒神ロプトウスを唯一絶対の存在として崇めることが教えである。
 ロプト帝国が十二聖戦士によって倒されてから百余年。当時のことを知る者など誰一人いないが、ロプト教を憎悪する心は万人が共通して抱く価値観である。
 アイーダも、決してその例外ではない。
 もしも主君アルヴィスの身体にロプトの血が流れていなければ、マンフロイがどれだけ有能であったとしても力を頼ったりはしなかったであろう。マンフロイがロプト教の公認と引き換えに力を売り込んで来たときアイーダは強く反対したが、アルヴィスに忠誠を誓う身ならば出自であるロプト一族を否定することができない矛盾に陥り、主君の意向もあって受諾した。
 結果、ヴェルトマー家はロプト教徒と言う絶大な影の戦力を手に入れ、ディアドラ奪取を始めとした様々な工作を成功させた。アイーダはその功績も能力も認めているが、認めるにしても限度と言うものがある。
 ロプト教徒はヴェルトマー家に所属しているわけではない。ロプト教の存在が表に漏れればアルヴィスの立場が危うくなる。アルヴィスが絶対的権力を握るまで表には出られないために影であり続けなければならない。そのためにアイーダとマンフロイとの関係は微妙なものになってしまっている。アルヴィスの名代の資格がありながら、アイーダはマンフロイに対し命令する権利を有していない。マンフロイはあくまで「存在しない」戦力であり、存在しないものに対し権力を行使することはできようもない。
 ロプト教徒は、覡と巫女であるアルヴィスとディアドラに仕える信徒達である。つまり、政治面でナンバー2であるアイーダとは無関係でアルヴィスのみに仕える者達なのである。ヴェルトマー家の情報収集はアイーダの管轄であり、アルヴィスからアイーダを通して行われて来たものが、マンフロイの登場によってアイーダを通さない全く新しいルートの命令系統が誕生したことになる。
 アイーダは、そこが気に入らなかった。
 ヴェルトマーのナンバー2として、アルヴィスの右腕としての強い自信がある。だが自信の強さはプライドの高さの裏返しでもある。ロプト教と言う危険な存在が、アルヴィスの元で功績を挙げて発言権を強めていくのは見逃せない。しかしその陰で、マンフロイが自分よりも重用されかねないことに対して抱く負の感情も隠れ棲んでいた。
 ヴェルトマーの留守をアイーダに預けてバーハラで政務を執るアルヴィスにとって、わざわざヴェルトマーに使者を送って命令を出すのと、手近な場所にいるマンフロイに頼むのと、どちらを選ぶだろうか。
 表立って行動できないマンフロイには出来ない任務は確かにあるが、アルヴィスの影として暗躍するならばその方が都合が良い。ロプトの秘術があれば要人への接近も容易であろう。アルヴィスがロプト教徒を使うのも当然と言えば当然だ。
「……」
 ヴェルトマーを預かるようになった最近のアイーダは、ロプト教徒を除いた既存のヴェルトマー家の者のみで情報収集を行っている。ロプト教徒を頼らずとも同じだけの成果を挙げられるのならば、アルヴィスにとって危険な存在を用いる必要はなくなり、腹臣に一本化されるに違いない。
 だが、アイーダが期待したほど成果は挙がらなかった。アイーダ本人がヴェルトマー城から離れにくくなって以来、入手する情報の質と量は目に見えて劣っている。
「いっそのこと……いや」
 実力で勝てないのならば、搦め手を用意することになる。
 もしもロプト教徒の存在を明るみにしてやればマンフロイを火あぶりに追い込む事ができる。しかし、アルヴィスもディアドラもそのロプトの一族であるために、暴露することは主君を危機に瀕させる事になりかねない。現在、グランベルの民はアルヴィスを救世主に近いもののように認識しているがそれでも危険だ。いつかは明らかになる日が来るのかも知れないが、それはもっと確固とした権力を握ってからの話だ。
 となると、残る手段は一つしかない。
「ラーナとレヴィン、狙うは……」
 扇動を仕掛けるならば、ラーナの方が易しい。シレジアの権力を握らんとした結果が内戦であり、シグルドとの同盟であり、そして現状である。吟遊詩人として見識を広めシグルドの右腕として戦い抜いたレヴィンと比べてはるかに躍らせやすいだろう。
 ただ、当然ながらマンフロイもラーナに目をつけることだろう。マンフロイの工作に割り込んでシレジアを混乱に陥れるならば、手がついたラーナではできない。
「よし……」
 翌日、アイーダは自らシレジアに向かった。
 ラーナが埋まっているならば、籠絡の相手はレヴィンだ。マンフロイがラーナを操ろうとするならば、レヴィンを躍らせて対抗させる。グランベルの目的がシレジアの混乱であるのならば、ラーナとレヴィンとのどちらが勝とうが問題はない。争わせることそのものが最終目的だからだ。
 言い換えれば、アルヴィスに損益を出させないでマンフロイを叩くことも可能だ。レヴィンに肩入れして、ラーナと糸を引くマンフロイを攻撃しても、目的そのものは立派に達成できる。
 ロプト教は、最終的に敵となる存在である。
 主君アルヴィスの性格からすれば、いつか公認することになるだろう。だが、そこからは一歩も前に踏み出させてはならない。グランベルがロプトに乗っ取られるようなことだけは阻止しなければならない。
 そのためには、今のうちから出る杭を打っておかなければならない。功を立てさせないように妨害工作を行うのは、グランベルの未来のため――
 アイーダは、自分の行為に対しそう理由付けてシレジアへと向かった。識域下の冥い感情を隠したままで――

Next Index