「誰か、誰かおらぬのかえ!?」
 シレジア城――
 先王妃ラーナは、シグルド軍が敗れた報告を聞いて以来、ずっとこのような調子だった。
「ラーナさま、どうか落ち着いてくださいませ」
「そうでございます、何があろうともシレジアの風が守ってくださいます」
「そなた達には聞いておらぬ!あぁ、誰か、誰かおらぬのか」
 何も分からない侍従達を下がらせるラーナ。彼女は、慄いていた。
 怒り狂ったグランベル軍が明日にでも押し寄せて来るのではないかという恐怖心が、どうしても頭から離れないのだ。だが、そのあたり実際にはどうなのか調べようにも、今のラーナの回りにはこれと言った人材がいなかった。学者としても著名だった宮廷魔術師クブリ以下、主だった者は内戦の際にラーナを見限っていたからだ。
 内戦はラーナが勝利した。だが彼らは罪を赦されても戻って来ることはなかった。結局、やはりラーナの周囲には誰もいないままなのだ。
 シレジア王国は、どちらかの道を選ばなければならない。
 グランベル王国と、戦うか、和を乞うか――
 和を乞えば赦してくれるのか。赦してくれないのならば、赦してもらうために何をすれば良いのか、それとも戦うしかないのか、では戦って勝てるのか。
 いくつもの選択肢を試すことはできないことはラーナも承知している。それだけに判断に迷うのだ。
「あぁ、誰か、誰か妾を導いてたもれ!」
 ……その時だった。
「御側に……」
 誰もいなくなったはずの部屋で、ラーナに応えた声があった。
「誰じゃ!?」
 ラーナが声がした方を向くと、そこに小さな黒い点が浮遊していた。
「な……」
 ラーナが得体の知れないものに驚いている間に点は大きくなり、やがて変形して人の形を象った。
「我が名はマンフロイ……闇を知り、闇を癒す者なり。初見なり、先王妃ラーナよ……」
 黒い人影からは深い紫色のローブを来た醜悪な老人が姿を現した。
「な、何者じゃ……」
「我らが覡アルヴィスに影で仕える者……」
 マンフロイと名乗った、何から何まで不信な老人はそう答えた。
「アルヴィス公!? ではそなたはグランベルの使者かえ!?」
 覡と言う、男性の巫女を現す単語がどう繋がるのかを完全に捨て置いて、ラーナはアルヴィスと言う人名のみに飛びついた。
 虫の良い解釈ではある。だが、とにかく救いを求めていた時に現れたと言う一点が、味方だと言う認識をさせた。負の感情を扱わせれば随一のマンフロイである、そう思われるように姿を現すタイミングを計っていたのだが、当然ながらラーナは知る由も無い。
「然り……貴国の現状を見れば大仰に使者を送れぬゆえ、我が遣わされた……」
 マンフロイのこの言葉は、グランベルから見れば虚言であるが、ラーナにとっては的を得ていた。
 シグルドが斃れればシレジアは終わり、と言う認識が出来る者は数少ない。実際、シレジア軍そのものが打撃を被ったわけではなく、貴重な同盟者がいなくなったに過ぎない。シレジアに戦う余力は充分に残されてはいるのだ。
 主戦派は戦って勝つ自信があると言うよりも、謝って済む問題ではないと言うやや後向きな理由であるが、とにかくシレジアには戦うつもりの者も多くいるのである。
 ラーナ個人は、どちらかと言えば和平派である。野心がシレジア王国の枠よりも大きくはないラーナにとって、対外戦争で勝つ事にあまりメリットを覚えない。独立を守るための戦いもあるのは承知しているが、多くの損害を出しながら新たに得るものが無いと言うのはいかにも味気なさ過ぎる。
 だから、和平を選択してシレジアが守れるならばそれに越したことはない。とラーナは考えている。
 問題はグランベルが赦してくれるのかどうか――この一点がどうしても確証を持てなかった。
 そんな折にアルヴィスの使者が現れたのである。見た目の胡散臭さは別にしても、有難い事この上なかった。しかも、密使を遣わせたと言う点もそれに拍車をかけた。今、大っぴらにグランベルの使者が現れでもしたら国内は大混乱するだけである。和を乞うにしても戦うにしても、一枚岩になるのが急務なのはラーナも百の承知なのだから。
「それで、アルヴィス公はなんと仰せじゃ?」
「我らが覡アルヴィスは、グランベルに刃向かう者のみが滅することを望んでいる……」
 解釈はどうとでもとれる。
 特に“グランベル的解釈”と言うものが、歴史上、周辺国家にどれだけの影響を与えたのかラーナとて知らぬはずはない。だが、相手の心の闇に食い込むマンフロイの話術は冷静な思考を奪う。理性を超越した心の闇と会話するために、少し冷静に考えれば分かるはずの罠も見抜くことができなくなってしまうのである。
「それで、それで良いのじゃな?」
「然り……ゆめゆめ忘れる事なかれ……」
 マンフロイと名乗った老人はそう言い残して影に姿を変え、逆順を辿って黒い点となり空間に消えた。
「……」
“グランベルに刃向かう者”とは?
 ラーナの主観において、国内でシレジアの平穏を脅かしている者とは?
 それは、シグルドに付き従って、グランベルと戦った者――
「誰か!誰かおらぬかえ!」
「…………」
「えぇぃ!呼んだならばすぐに来るのじゃ!」
「は、はい!何でございましょうかラーナさま」
 ラーナが言う今度の“誰か”は先ほどと対象が違ったのだが、隣室にいる侍従たちはさすがに判別できなかった。ラーナが扉に向かって非難しなければ、おそらく流してしまったであろう。
 侍従達に政治や軍事の話など分かるわけがない。むしろ、分かってはいけない立場である。だから間近でどんな話をされようとも頭の中に入れないようにしている。
 実は壁一枚を通してラーナとマンフロイの会話も耳に届いていたのだが、理解しようとはしなかった。だから、ラーナの次の言葉が何を意味しているのかは分かるはずもなかった。
「すぐにレヴィンをここへ呼んでくるのじゃ」

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