バーハラ城――
「やはりロプト教徒など当てに出来ないわけですね」
 やや高潮気味のアイーダが、主に向かってそうまくし立てていた。
 何しろ、陰ながら没落を期待していたマンフロイがシレジア工作に失敗したと聞いては喜びを隠しようもなかったからだ。密かにレヴィンと手を組んで妨害した成果が挙がったのは、アイーダにとっては最上の結果と言えよう。
 結果シレジアはレヴィン派が掌握し、政治的に安定の兆しを見せている。王太子レヴィンは今まで拒んでいた戴冠も解禁するらしく、シレジア王国は4年ぶりに空位から脱することになる。
 ただこれが同盟国の話ならば喜ばしいことなのであろうが、シレジアはれっきとした敵国でありグランベルとは戦争中である。バーハラから見ればシレジアが一枚岩になって嬉しいことなど何一つ無い。
 母と子の政治対立をいっそう煽ろうとした結果がこれでは、政治工作は失敗に終わったと言わざるを得ないだろう。
「まぁ致命的ではないから別によしとしよう、それよりもこれからについてだ」
 アルヴィスにとっても、こうなるのは計算外だったであろう。とはいえ皮算用は行わないアルヴィスであるから、こうなった場合の手も考えているのに間違いは無い。無論、予想の範囲内であっても叶って欲しくはなかったのは確かなのであろうが。
「対シレジアは正攻法で行くとして、まずはマンフロイの後任についてでございますね?」
 グランベル人は対外戦争で敗れることは微塵も考えない。絶対的な優位性を持たずして大陸の覇者にはなれず、裏を返せばそういう価値観を持っているからこそグランベル人なのである。シグルドにあそこまで詰め寄られたのは、あくまでシグルドもまたグランベル人だからである。シグルド軍は「地方」の将兵を用いるのが巧かったが、別に地方の軍が強いわけではない――グランベル人はそう解釈していた。
 アルヴィスもアイーダも、シグルドとその軍の強さを認めていても、参加していたシレジア兵が強いと認識しても、シレジア王国そのものが強いとは考えもしていなかった。シグルド軍残党こそは警戒しなければならないが、シレジアそのものに敗戦する可能性は想像の範疇外であった。
 とどのつまり勝利するのは確定で、勝利するのに苦労するかしないかだけの差しか考えておらず、それを惜しんでマンフロイに工作を仕掛けさせただけに過ぎない。失敗に終わった上に火に油を注いでしまった結果、勝利への苦労はいっそう大きくなるだろう。しかし勝利するに違いは無いのだから、この失敗は致命傷ではない、とアルヴィスは言ったのである。
 なお、グランベルが敗れる可能性を微塵も考えないのはグランベル人として当たり前で、アルヴィスのように「辛勝でも勝利」を容認するだけでも国内屈指の柔軟性の持ち主である。
「その後任をよこすように伝えたのだが、見ての通りだ」
 アルヴィスは執務室全体に行き渡るように腕を振ったが、そこにはアイーダ以外に人影は無かった。
 マンフロイが重傷を負ったのを聞いたアルヴィスは、ロプト教会に対しその後任を出せと通達したのだが、マンフロイの後を受けられそうな人材は出て来なかったのだ。
「閣下の側に上がれずして権力を主張するとは、身の程も知らない徒でございましたね」
 あえて過去形で言ったのは、ロプト教徒を過去のものにしたいと言う願望があった。
 アイーダが知る限りでは、大司教マンフロイの下には司教がいなかった。イード砂漠に埋もれていては教区を統括する司教など不要などであったのだろう、マンフロイを除けば一足飛びに数名の司祭と多くの信徒がいるのみであった?
 つまるところロプト教会とはマンフロイのワンマン経営だったわけであり、その後を継いで覡でありもうじき皇帝となるアルヴィスの側に仕えられるような人材などいなかったわけなのだ。
 アイーダにとってみれば、過去の所業を差し引いたとしても、そんな脆弱な組織が世間に出てきたりアルヴィスの寵を奪っていくのはもっての外であった。
「上がる器量は無くとも、意見はあるらしいがな」
 アルヴィスが影からコソコソとを言う輩を最も嫌っているのはアイーダも承知している。向かい合う気概も無いなら砂の下に埋もれていればいい――とアイーダは思ったが、そこへ主君が言葉と共に数枚の紙束を差し出してきた。
「余所から見れば我々グランベル人はこういう思考の持ち主に映るらしいな」
 他人から見た自分の評価というものは大なり小なり誰もが気にするところである。自分個人に限らず国への評価も同様だ。
「拝読いたします」
 真摯に受け取りつつも、アイーダは偏見色の強い眼鏡をかけて読み始めた。どだい周辺諸国のグランベルへの評価と言うものは、僻みや一方的な被害者意識で満ちあふれているものである。大国から言わせてもらえばその見苦しい劣等感こそが小国の証明であるのに。
「これは……」
 しかしアイーダは、心当たりある筆跡の持ち主が書いた文章に面食らった。単純にグランベル人を評価したのではなく、グランベル人なら次はこうするだろうと、シレジア戦線における次の戦略を打ち出してきたのだ。
「マンフロイの娘婿と言うのは面白い見識を持っているな、我々グランベル人から見ても辛辣な手段だ」
 バイロンを除くためにクルトを暗殺させたアルヴィスであるが、その彼から見てこの進言は非情の手段であった。
「受け手に選択肢が多そうだが、どれを選んでも深みに嵌まる。先日の離間策は学者から見た分析だったが、むしろ政略家の素質がありそうだ。もう一度だけ従ってみよう」
「……」
 離間策は工作の巧拙で成功か失敗か分かれるが、今度の手は間違いなく一言で決まる。アイーダから見ても今度の策には穴が無く、密かに共闘関係を結んでいるレヴィンには悪いが助けようも無い。
 対シレジアにおいて、アイーダにはもうやるべき事はないようだ。それだけ会心の一手だったわけだが、おかげでその間にすべきことが見つかった。
 この紙束は、いったいどこから上がってきたのだろうか。以前のもそうであったが、マンフロイが不在であってもアルヴィスとロプト教徒との線は切れていない。ヴェルトマーであれば分からなくもないが、バーハラに定住しているアルヴィスにどうやって近寄っているのだろうか。もしかしたら、既にロプト教徒はグランベルに根を張っているのかも知れない。早急に調べ上げなければ、手遅れになってしまうやも知れない。

 翌日、グランベル王国の共同統治者アルヴィスの署名による公式の使者がシレジアへと発せられた。
『本年中に逆賊シグルドの遺児セリスを引き渡せば、軍を撤退させ、無期限に不可侵とする恒久の盟友となることを確約する』

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