「何故じゃ! 何故、妾の兵は逃げるのじゃ!?」
 早朝、シレジア〜ザクソン間の平野部にラーナの声が響いていた。
 東のグランベル軍を気にしてザクソン城から離れられないと思われていたレヴィン軍であったが、ラーナの思惑を大いに裏切って急西進、戦闘準備が整っていないラーナ軍に朝駆けを仕掛けていた。
 シグルド軍の生き残りを含んだレヴィン軍の強烈な奇襲に対し、ラーナ軍の兵士は迎撃をあっさりと放棄して四散するように逃亡して行った。これは、これ以上の内戦は御免だと言うシレジア人の心情がもたらした崩壊劇と言えた。
 グランベルとの戦争を継続するのはまだ構わないが、身内同士で傷つけあうのはもう懲り懲りだった。和平を唱えるラーナに集った兵士は多かったが、そのラーナから先に手を出したのは密かに動揺を誘っていたのだ。
「ええぃ戦えぃ! 憎きレヴィンの首を挙げた者には思いのままの褒美を与えようぞ!」
 金で釣ることそのものは有効な手段ではあったが、一声で戦線を建て直すにはいささか遅すぎた。欲に目が眩んで踏みとどまった者は、耳を貸さなかった者の流れの中で孤立し、各個に討たれて行った。
「…………」
 騒ぐラーナの影の中で、マンフロイは静けさを保ったまま混乱していた。
 マンフロイは戦争に関しては素人である。拠点であるザクソン城を放棄して西進してきた理由について全く見当がつかなかった。まさしく風の如くラーナ軍を打ち倒し東に舞い戻ったとしても、ずっと隙を伺っていたダナンからザクソン城を守れるはずが無い。
 そこから奥深くはマンフロイの思考には登場しない。仮にラーナだけを駆逐したとしても、グランベル本国の軍がシレジア南部に上陸した場合、レヴィンは挟撃を回避するためにザクソン城を放棄するしかない。どの道の話であれば前倒ししても別に構わない、というのがレヴィンが選んだ戦略だが、マンフロイはそこまで軍事に詳しくはなかった。
 造詣の深さもあるが、それ以前にマンフロイの思考は別の方面で働いていた。ラーナ戦死・レヴィン即位・ザクソン城奪取の結果が、果たして自分の功績と言ってよいものだろうか? そんな事ばかりが頭を巡っていた。
 もともとグランベル王国への忠誠心で働いているのではなく、ロプト教の発言権を強めるのが目的の工作である。ザクソン城奪取がグランベルの利益であっても、マンフロイの功績でないのであれば敗北に等しい。
 ラーナを唆してレヴィンと対立させたのはマンフロイの手腕である、しかしそのはずの不仲は今やマンフロイの手から大きく離れたところへ飛んで行ってしまった。雪解けに時期を合わせつつ少しずつラーナを狂わせていく計画が、レヴィンのあの挑発によって一瞬にして崩壊してしまった。沸点を通りすぎていきり立ったラーナは、もはやマンフロイの手に負える存在ではなくなってしまい、今日こんな結末を迎えていた。
「どう言うことじゃ! ダナン将軍の軍が駆けつけるのではなかったのか! 妾を騙したかマンフロイ!」
「…………」
 言いがかりである。
 援軍が来ぬなら別に構わぬぞ、妾の軍だけで打ち破ればよかろ……と言っていたのはラーナ自身である。形勢が不利だからと言ってマンフロイに責任をなすり付けるのは筋が違う。とはいえ、そんな事を指摘しても何も始まらないのも確かであるから、マンフロイもわざわざ姿を現してまで反論する気にはなれなかった。
 しかし、マンフロイは影の中からとはいえ声を発する事にした。別件ではあるが。
「…………かくなる上はシレジア城に籠城して時を稼ぐが良きかと……守りに徹していれば、もはや拠点が無いレヴィンのこと必ずや崩壊するであろう…………」
 制御不能になったとはいえ、切り捨てるわけにもいかない。シレジアが一枚岩に固まるのを阻止するためにはラーナの存在は絶対に必要である。籠城したとて守りきれるとは思えないし虚しい策だとは分かっている、だがそれでも一日でも決着を先延ばしにするのはマンフロイには有益であった。
「ええぃ忌ま忌ましい! 者共、退却じゃ! シレジア城まで退……」
 逃げるのは信条ではないであろうラーナも形勢が悲観的なのは認めたらしく、激昂しながらも退却を指示することを決めた。
 だが、その瞬間――
「やぁやぁ、息子と口も利かずに帰るとは随分と冷たいじゃないですか、お母様」
「……!」
 その瞬間、明らかに意図的であろう場違いに陽気な声がラーナの指示を中断させた。
 そしてラーナが声の主の姿を認めた途端、言いかけた命令は途上のまま捨て置かれてしまった。
「そりゃあたくさん親不孝しましたけれど、戻ってきて1年以上も経つのにまだ許してくれないんですか?」
 戦場の雰囲気など無縁な、レヴィンの朗らかな口調。
「黙れ! そなた、何故に妾の邪魔を、シレジアの安寧を妨害するのじゃ!」
「こやつ……」
 ラーナの影の中で、マンフロイはレヴィンの出方の意味を探っていた。このわざとらしい態度は、あのときの挑発に近しいものがあった。今もまたレヴィンに煽られる格好で軍の操作を忘れてしまっている。にこやかな笑顔を作っている裏で、レヴィンの軍は密かにラーナを包囲しはじめている。計画的犯行だから軍を動かす余裕もあるレヴィンと、完全に頭に血が上って指揮官である事を忘れてしまっているラーナ。
 競り合っている間に雪解け、という最高の結果は得られそうにないのは覚悟していた。一枚岩になってしまうのは仕方がないとしても、両軍が合い食めばシレジア王国の戦力は大きく減衰する……それぐらいで我慢しておこう、と踏んでいた。
 しかし、いくらラーナとレヴィンとでは結果が見えていると言っても、まさかここまで一方的な展開になろうとは予想だにしていなかった。ラーナ軍兵士の大半は蜘蛛の子を散らして逃亡したために、実際の戦死者数はごく微小である。彼らが全員戻ってきた場合、シレジアの戦力はほぼ無傷と言って差し支えない。
――まずい……。
 このままでは、シレジア王国を弱体化させると言う工作目的そのものは何一つ成果を挙げなかったということになってしまう。結果的にザクソン城は手に入れたものの、それだけを頼りに功を誇るのはいくらなんでも無理がありすぎる。
 マンフロイの婿養子レィムは、シレジア王国について、情勢を書き並べた上で「放っておいても自滅の道を歩むと思われる」と結んでいた。その文章を読んだアルヴィスがマンフロイに工作を命じたのだから、「放っておいた場合の成り行き」よりも高い状態に持っていかなければならない。レィムが分析した自滅の道がどの程度のものか、アルヴィスの認識でのそれはどうなのかは分からないが、少なくともマンフロイの功績は褒められたものではない。むしろその逆にボーダーラインを下回っているかも知れず、「手を出さない方が良かった」などと言う結果に終わってはロプト教の立場はない。
 マンフロイ個人はアルヴィスを畏れてなどいないが、グランベルの指導者としてロプト教を釣り上げてもらわなければならない。アルヴィスが不要と言ってしまえば、ヴェルトマーで保護されているロプト教徒たちはイードの砂の下に潜るしかない。百余年の悲願が目の前にありながら一から出直しなど容認できるはずもなく、マンフロイは心ならずもアルヴィスに忠実でいなくてはならなかった。
 グランベル帝国建国の暁にロプト教は公認となるのは保証されてはいる、しかしディアドラの腹の中にいる御子が君臨したときロプト教が世界を包括できているかとなると、これから積み上げる功績の高さ次第と言うものだろう。
 今回のシレジアに限らず、トラキア半島以下問題は山積みである。しかし機会は数多くあるものの大内戦中のような非常時でないために、アルヴィスがロプト教徒をどこまで起用してくれるか分からない。
 つまり、マンフロイにとってこのシレジア工作は絶対に大成功で終わらせなければならない。この機会を逃せばロプト復権は二度と日の目を見なくなるかもしれない。ロプト公認は所詮は口約束である、アルヴィスやディアドラが心変わりすればたちどころに消滅してしまう事もあり得る。仮に文書を交わしていたとしても、迫害の対象であるロプト教徒が契約不履行を訴え出られる相手などどこにもおらず、黙殺されるのがオチと言うものだろう。
「やだなぁ、俺は俺なりにシレジアの事を考えていたんですけどね」
 ラーナの注意を引きつつ会話を引き延ばしてその間に包囲網を完成させるのがレヴィンの狙いと見受けられるが、分かっていても防ぎようが無かった。マンフロイがそう看破したとしても、実際に軍を動かすのはラーナであり、彼女の指揮能力ではもっと前から動いていたとしても脱出は厳しいものであっただろう。
 言葉は、人を救う事もあれば殺めることもある。
 そして、国家の存亡を左右する事もある。
 あのときの挑発もそうだったように、吟遊詩人レヴィンの言葉はシレジアの命運を大きく揺さぶった。そして、それとともにマンフロイの野望もまた風前の灯火となりかけている。
 全ては、レヴィン一人のせいで――
「我に必殺の秘術あり……レヴィンの注意を他に向けられるよう……」
 レヴィン一人さえいなければ。
 それは、当初の計画のどこにもない、レヴィン暗殺という結論に辿り着かせた。しかしアルヴィスが外征に出て完勝するのがグランベル帝国建国への道のりであるため、内部工作は行っても要人暗殺はやりすぎというものである。だが、手ぶらで帰るわけには行かないマンフロイにとって、逆転の目はこれしかなかった。
 多くの兵士たちが見守る中でロプト教の姿を晒すのは避けたかったが、ここでレヴィンを討たずしてラーナにもマンフロイにも勝利の目は無かった。
「あ、あいわかった。妾が息子の気を逸らせれば良いのじゃな?」
「視線は前を向かれたままで……」
 ラーナには影に潜んでいるマンフロイの姿は見えていないが、声は右耳の後ろから聞こえてくるので応答の際に後を向きかけるラーナを制した。
 影の中にいる間は安全だが、レヴィンを攻撃するならば姿を現す必要がある。ラーナのすぐ後方を警戒されれば必殺の一撃も回避される恐れがあるため、できるだけ前を向いたままで、そしてレヴィンに隙が生まれているのが望ましい。
 ラーナがどうやってレヴィンを罠に陥れるのか知らないが、一瞬の隙を見逃すまいとマンフロイは精神を集中させる。
 するとそれは唐突に訪れた、ラーナが突然あらぬ空を指さして素っ頓狂な声を挙げた。
「あ、あれは何じゃ!」
 何ともあからさまな手段であったが、幸か不幸かレヴィンは釣られて左後方を振り向いた。
「ヘル!」
 余計な御託を並べる余裕など無い相手である。マンフロイは、レヴィンの視線が逸れた瞬間、反射的に影から飛び出して暗黒の魔法を唱えた。
 ……だが、そのレヴィンが手強い相手と言う点と功を焦った故の視野の狭さが、マンフロイから正常な思考能力を麻痺させていた。
 マンフロイがヘルの魔法を唱えた直後――
「……!!」
 背中からの痛みと圧力と。
 燃えるような熱さと、やけに空虚な冷たさと。
 赤くなったり黒くなったりする世界と、光が一面に瞬く世界と。
 胸まで貫通して飛び出た穂先の感触と、作られた穴から吹き出す血の温かさと、抜け落ちていく魂の感触と。
「センキュ、フュリー」
「はい……」
 黒い濃霧が覆い始めた世界のどこかで、そんな会話が聞こえた。
「母上、おおかた俺を殺して降伏すればシレジアは助かるとでも吹き込まれたんでしょう。だがこいつはグランベルの密使じゃない、こいつは不浄の……」
 レヴィンは、あえてラーナの指先に反応してみせてマンフロイを誘ったのだ。
 そして、あのときの挑発も、ラーナを制御不能に陥らせて陰で操る自分を釣ることこそが目的だったのだ――
 それに気付いたとき、法衣に覆われて隠れた肉体はドロドロと溶け出して土に還っていく感触が共に訪れた。

 ロプトの秘術がある限り、マンフロイに死が訪れる事は基本的に無い。
 だが、心の臓まで再生しようとするならば1年から2年はかかる。
 これまでの百年間であればそれでも良かったが、ここまで時の流れが速まってしまえばその退場は致命と言っても差し支えなかった。

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