フリージ城執務室、夜――
 夜の執務室を覗くような者などいないためにこの真実は明らかにはなっていないが、もしも誰か今この部屋に押し入ったならば、まずこの奇妙な光景に首を捻るのだろう。
「……これで全部、と。署名と捺印をお願いします」
「あぁ。相変わらず早いな」
「この机……亡き義父様の机と、このペンが使いやすいだけです」
 そう言って年代物の執務机を感慨深げに撫でるのは、なんと女性である。
 そして本来の持ち主である男は、父から受け継いだはずの机を彼女に譲って、どこからか椅子を持ってきて横に座っているのだ。
 男の名はブルーム、そして女性の名はヒルダという。

「それで、出陣の許可は下りまして?」
「いや、それが……どうにも色好い返事はいただけなかった。やはり俺をグランベルに残されるつもりなのだろう」
 この二人、フリージ家当主とその妻の間柄なのだが、主導権を握っているのは完全にヒルダの方である。ブルームが恐妻家というわけではなく、ヒルダの資質が抜きんでいているからなのである。
 グランベル屈指のおしどり夫婦と謳われてはいるが、元はと言えば政略結婚である。アルヴィスの資質を早くから見抜いていたレプトールは、遠くない将来にヴェルトマー家の隆盛が必ず来ることを予測し、息子ブルームの妻にヴェルトマー家一門に名を連ねるヒルダを選んだ。しかも、武人であるブルームを補完すべく利発な女性を迎えたのである。
 しかも、その能力はレプトールの予想を遥かに越えていた。宰相としてバーハラ城にほとんど常駐するレプトールは、安心してフリージの留守を任せて辣腕を振るうことに専念できた。それもこれも、ブルームを支えるヒルダの領地管理能力が公爵位に値するほど優れていたからに他ならない。さすがに、息子が妻に机を譲って自分は捺印するだけと言う状況が起こることがあると知れば憤慨もするだろうが、とにかく、レプトールの眼力によってフリージ家は安泰となったのである。
「アルヴィス公が御自身で、は分かるが……」
 今のグランベル王国には、アルヴィスと言う屋台骨が不可欠だ。それをより強固にするためにはその名声をさらに高めて神通力を強くすることが必要である。それが最も分かりやすいのは戦勝であり、凱旋式の挙行である。となれば、来春のシレジア討伐はアルヴィス自らが出兵するのが筋である。
 となれば、グランベル本国の留守を預かれるのはブルームしか存在しなくなる。シグルド軍の残党には侵略する余力はなく、アグストリアやヴェルダンと言った隣国は過去の存在である。がら空きにしたとて空き巣に入られる可能性は皆無なのだが、3年前のヴェルダン侵入が全ての引き金だったことを考えると思い切った真似は出来ない。
 とそこまでは分かっているのだが、ブルームは自分の出陣を強く望んでいた。
 別に、功名欲しさではない。
「アルヴィス様が生かして捕らえよと厳命されても、ティルテュが抵抗したら兵士が殺してしまうかもしれませんわね」
「む……」
 ヒルダの表情と口調は軽いものだったが、それを聞いたブルームの表情は重く強張った。
 その顔つきを見たヒルダは一応は謝ったが、茶化すのは中止しなかった。
「あらあら、御免あそばせ。あんまりにもあなたがティルテュを助けようと躍起なものですから」
 ブルームの妹ティルテュは、あろうことかシグルド軍に参加してグランベルに弓を引いた。精神修養を頼んだクロードと一緒にブラギの塔へ向かったはずが、何があったのか叛乱軍に身を投じ、しかも部隊指揮官にまでなっていた。クロードに騙されたのか無理矢理に引き込まれたのかは知らないが、ティルテュが逆賊に加担したのは紛れもない事実なのである。
 それで済めばまだ情状酌量の余地があるのかもしれないが、シグルドやクロードがが斃れたにも関わらず降伏せずにシレジアに戻ったとあっては、被害者だと説明するのは至難である。世界を安定させる使命を背負ったアルヴィスであるから、シグルド軍の残党に対しては甘い顔をするとは考えられない。そして、女性だから刑が軽くなると考えるのは淡すぎる期待であろう。
 それ以前に、ティルテュが戦死しては僅かな可能性すらなくなってしまう。シグルド軍残党に関しては生死を問わない方針のアルヴィスが軍を率いて行った場合、戦闘になれば助かる可能性は皆無に等しい。
 だから、ブルームは自らの手でティルテュを保護しようとフリージ軍の出兵を願い出ているのだが、アルヴィスは承諾してくれないのである。
「……何か言いたそうだな」
「えぇ、妹想いの夫を持った女は苦労するのですよ」
 右手の甲を口元に当てて笑うしぐさは、明らかに夫をからかってのものだったが、ブルームは「悪かったな」としか言い返せなかった。
 ティルテュに対するブルームの溺愛ぶりは知る人ぞ知るところである。悪魔の血を受け継ぐフリージ家は、お互いに明日をも知れない家族に対する愛情がかなり深いものになっている。ブルームは早くからフリージの怒りを押さえ込むことができただけに、制御しきれていないティルテュをいつも気遣っていた。
 あげくに、末妹のエスニャがティルテュを心配してシレジアへ旅立ってしまい、ブルームは密かに気が気ではなかったのである。内戦が激しくなり帰国ができなくなったエスニャはそのままティルテュの側に留まっているらしいが、やはりシレジア遠征を行えば戦闘に巻き込まれる可能性もある。
「でも、気持ちはよっく分かりますわ。ティルテュやエスニャは、私にとっても可愛い妹……家族として、死なせたくありませんもの」
 目を閉じ、両手の指先を軽く交差させて義妹たちを想うヒルダ。しかし、状況は芳しくない。
「だが、アルヴィス公は……」
 義理とは言え(ディアドラを除いて)唯一の肉親である弟アゼルとて例外なく処刑するつもりのアルヴィスに対し、ティルテュの助命を嘆願するなどブルームにはできるわけがなかった。もうじき帝位に上り詰めようかという主君が身内を切り捨てようとしているのならば、いくら溺愛していても臣下の立場では何も言いだしようがなかった。
 助からない妹の運命に落胆するブルーム。机に打ちつけられたその両拳に、そっと手を重ねたヒルダが、夫の耳元で小さく囁いた。
「分かりました、私が何とかして参ります」
 
 ……最終的にティルテュは罪一等を減じられ、それからの人生を地下の一室で過ごすことになる。
 執拗な残党狩りでグランベルに捕らえられたシグルド軍指揮官のうち、死罪を免れ得たのはティルテュただ一人のみである。自分の弟をも磔としたアルヴィスが、いくら女性とは言えティルテュに気心を加えた理由は、同じヴェルトマー公家一門の出であるヒルダの懸命の嘆願工作によるものであった。
 快活なティルテュにとって陽の下に出ることの無い生活は重い負担だったのか、彼女はそれから十年強で生涯を閉じることになった。
 あまり良い余生とは言えなかったかもしれないが、ともかく彼女は運命からさらに十数年を長く生き延びることができた。これは、間違いなくヒルダの功績であろう。
 その十数年の間、ヒルダは地下に潜ったティルテュによく会いに行っていた。そこでどんな会話がされたのかは当人同士しか知らないことであるが、自らが苦心して助けたティルテュに対し、今さら酷いことをしたとは考えにくい。
 ただ、命こそは助けられたとは言えティルテュを地下に閉じ込める結果となったことに関して、ヒルダは責任の一端を感じてはいたようだ。後年、筋が違う怨恨を抱いたティルテュの子供たちに刃を向けられても、ヒルダは何の弁解もしなかったという――

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