ヴェルトマー城、執務室――
 ユフィール司祭から聞くところによると、シグルド軍に関する考察がグランベル中枢部の目に止まったらしい。学者であるレィムにとって論文が評価されたのは嬉しい限りなのだが、実際に招聘されるとなると尻込みした。
 レィムは学者であり研究者であると同時に、傍観者でもある。常に客観的姿勢を保っておかないと、物事の分析に主観が混じってしまうからだ。今のグランベル王朝も研究の対象である以上、その中枢と関わりを持つのは好ましいものではなかった。
 そんな理由から一度は断りを入れたのだが、アイーダが素直に引き下がらなかったのと、ロプト進出の好例となると司祭から促されたために、レイムは渋々それを承諾した。
「初めまして信徒レィム。この城の主、アイーダと申します」
「……初めまして」
 城主であるアイーダが低姿勢で接してくれているのに、素っ気無い返事しかできなかった事にレィムは少し後悔した。
 義父マンフロイの英才教育によって宮廷作法も話法も覚えていたのだが、まだ自分に自信がついていないレィムは実戦に反映させる事が出来なかった。
 相手が男であれば少しはマシな反応だったかも知れないが、アイーダが女性でしかも美人であったのが調子を狂わせていた。女性について容姿は気にしないつもりのレィムであったが、美人に弱いのは男としてどうしようもない。9つ年上である妻がいささか評価が分かれる容姿であるため、こんな美人と相対するのは慣れていなかった。
「突然呼び立てて申し訳ありません、実は貴方の書かれた文章に興味を惹かれました。そこで是非とも御本人に詳しい話を直接伺いたくて……よろしいでしょうか?」
「……はい、そ…」
「シグルド公子と言えば聖戦士バルドの末裔。貴方のようなロプトの信徒にとっては仇敵となると思うのですが、あのような擁護の考察を書かれても問題は無いのでしょうか?」
 僅かなれども容姿に気を取られていた分だけ、レィムは先手を打たれた。
 研究対象であるグランベル王朝に深く関わるのは学者として避けたい。そのため「……はい、その件に関してならば」と条件をつけようとしたのだが、アイーダに先制されて封じ込められてしまった。
「……理屈から言えば。しかしアルヴィス様もディアドラ様も聖戦士の末裔なので、その観念は薄いものになっています」
 アイーダの真の狙いを測りかねるレィムは、言葉を選んで答えた。
 “黒”の身分であるレィムにとって、覡も巫女も雲の上の存在である。「アルヴィス様」「ディアドラ様」と言う呼び方は本来ならば身分不相応なのだが、アイーダにロプト教に関する知識を与えてやる必要はどこにもなかったので当り障りの無い言い回しに留めた。
 現在のロプト教徒達にとって、アイーダは要注意人物である。
 アルヴィスの名代としての光の部分はともかく、主の意思を反映するべく暗躍する影の部分をも併せ持つアイーダの存在は、現在のロプト教の役回りに近しいものがある。今まではアイーダがその役を担っていたところにマンフロイ以下が割って入ったのだから、好意的でないのは確かだ。
 共存できれば言う事は無いのだが、アルヴィスとの密な関係が噂されてきたのが事実であれば、独占してきたアルヴィスを取られて嫉妬心を燃やされる可能性が高い。事実、アイーダには父親不明の私生児が存在し、現在12歳になるその男子は産まれてすぐにエッダ教会に入れられたらしい。守秘性に絶対の強みがある教会に預けられたところから、明らかになってはならない父親は誰なのか推して知るべしと言えよう。
「信徒レィム、貴方は対シレジア戦略についても献策されましたね? アルヴィス閣下も大層お気に召され、貴方の策を採用なされました。私も読ませていただきましたが、素晴らしい着眼だと思います」
「……アルヴィス様ならば私の献策はお耳汚しに過ぎません」
 アイーダの賛辞は美辞麗句だと分かるが、それでもこの評価は不に落ちないものがある。
 ラーナとレヴィンとを離間させる策は、これと言って奇抜なものではない。シレジアお家騒動によってレヴィンが出奔した事実を鑑みれば、ラーナとレヴィンとが不仲なのは容易に想像できる。そこを衝くぐらいを思いつかないアルヴィスではない筈だ。
「マンフロイ大司教がそれを受けてシレジアへ潜入しておりますが、大司教から何か伺っておりませんか? あれ以来、報告が思うように上がって来ないので閣下も心配されておられるのです」
「……私の身分では大司教猊下の御尊顔を拝する事も出来ませんで」
 大嘘である。
 言っている事自体は事実なのだが、そのマンフロイの娘婿であるレィムが顔を見たこともないわけがない。ましてやその居留守役まで担っておきながら何も知らない筈が無い。シレジアの一件について義父マンフロイ本人から話を聞いた事は無いが、報告そのものは届いている。本来ならば司祭クラスが受けて反応するべきなのだが、何故か最下層のレィムの所にも届いている。理由は何となく察しがつくが。
 ラーナの懐柔に成功したとの喜ばしい報告があるのをレィムは知っている。ただ、マンフロイとの接触の有無を聞かれた事について警戒心を覚えたので、咄嗟に惚けたのだ。
 そう言えば、最近は報告が届いていないなぁ――と訝しんでいると、アイーダが意外な反応を見せた。
「左様ですか……」
 レィムが知らない旨を伝えると、アイーダは思いのほか大きな落胆の表情を見せた。
「……」
「……」
「……あの、何か……?」
 長い沈黙に耐え切れなくなって様子を伺ったこの直後、レィムは内心で「……あ」と後悔した。アイーダの落胆が罠である事に気付くのが少しばかり遅かったからだ。
 アイーダの表情にかかっていた雲は一瞬にして晴れ、元通りになった。
「いえ、リューベック城のダナン公子がザクソン城攻めを計画されています。その件に関してマンフロイ大司教と調整しておきたいのですが……」
 会話と言うのは一つの外交である。
 罠にかかったと気付いたとしても、相手が喋り始めては相手しないわけにいかない。外交はいかに相手を黙らせるかが勝負である。ずっと口を閉じていれば相手が高圧になるだけであり、状況が不利だと分かっていても交戦しなければならない。
「……シレジア工作においては大司教に一任されています。本国の方から調整するのはそれに反します」
「えぇ、それは理解しております。しかしマンフロイ大司教の工作は、シレジア攻めを目的とした手段。ならばダナン公子のザクソン城攻めはそれに優先すると考えるのが妥当ではありませんか?」
「……」
 敗者は、言い返しようが無くなって口を閉じてしまった。
 レィムの弁舌の才能は秀でたものではない。マンフロイから色々と教え込まれてはいたが、アイーダとは踏んだ場数が違いすぎたのだ。
「生憎とアルヴィス閣下からは直に接触できないため、名代として私からお願いします」
 ロプト教徒はまだ公認の存在ではない。
 アルヴィスの自領であるヴェルトマーならば多少の融通は聞くが、バーハラに鎮座しているとロプト教徒との接触するのが困難になる。警戒厳重なバーハラ城でアルヴィスの私室に辿り着けるのはマンフロイを除いて他にいない。
 本来ならばアルヴィスの近習に偽装させた関係者を配置してチャンネルを開けておくのが筋なのだが、当のアルヴィスがその必要性を感じなかったのかマンフロイの勧めを蹴っていた。アルヴィスは別にそれを不自由と思わないのか、それともマンフロイを信用しているのか、とにかくアルヴィスの方から使者が発せられる事は今まで無かった。
 その逆にマンフロイからの報告も、本人以外を通してアルヴィスに上がってくる事は無かった。身軽なアイーダがアルヴィスの側に侍っていた頃は受け取りようもあったのだが、今ではそれも叶わない。
 そんな意思の疎通が不十分な現状についてアルヴィスは不自由と思わないのか、無いなら無いで構わないのか、とにかくマンフロイが不在の時はアルヴィスとロプト教徒との関係は切れている。これに関しては不服もあったが、目立った動きができないから、とやむを得ないとしてきた。
「……はぃ…あ、い、いえ、その前に」
 アイーダの真っ当な申し出に誘導されて了承しかけたが、レィムは寸でのところで夢から醒めた。
 今でこそロプト教徒たちはヴェルトマーから完全に独立した組織になっているが、アルヴィスに売り込んだ直後は様子見のためにアイーダの指揮下に置かれていた。その関係から、マンフロイ以外にもアイーダと面識のある司祭もいる。
 ならば何もシグルドに関する論文を撒き餌にしてまでわざわざレィムに頼む必要などどこにもない。そもそもロプト教徒の誰かと接触しない限りはレィムが招聘される事自体があり得ない話だ。
 となれば、マンフロイとの接触を求める要請は見せ札で、まだカードを隠し持っていると考えるべきだろう。
 それに気付いたレィムは、素直に従わずに逆襲に出た。
「……その前に……それは、アルヴィス様の御意志であられますか?」
「……!」
 レィムはこの逆撃に手ごたえを感じた。
 強固な組織の中にいる者ほど「独断」は危険なキーワードになる。組織が巨大になればなるほど命令系統は確立され、それに反するには大きな代償を覚悟する必要がある。ましてや大内戦の直後であるグランベルは叛乱に対し神経質になっており、アルヴィスの右腕として高い評価と主君の信頼を受け、広めの自由裁量枠を任されているアイーダと言えども決して例外の存在ではない。
 裏を返せば、それをあえて犯すだけのリスクを背負うのは並大抵の精神力ではおぼつかない。覚悟するだけならば可能かも知れないが、魔の領域に踏み入れて顔色一つ変えずにおれるのは常人には不可能な業と言えよう。優れた洞察力を持っているとは言え所詮は凡人に過ぎないレィムにも看破できるほどアイーダに大きな反応があったのはそれ故である。
「……我らロプトの民は、アルヴィス様やディアドラ様以外の者にお仕えするつもりはありません」
 アルヴィスの意思に拠らない独断であるのならば、ロプト教徒として従う必要は無い。レィムは意志強く拒否した。
 どちらかと言うと穏健派であるレィム個人としては、覡と巫女にしか仕えない現在の方針に諸手を挙げて賛成はしていない、むしろどちらかと言うとアイーダとはもっと友好的に共存したいと言うのがレィムの考えである。しかし今のレィムにヴェルトマーに隠れ棲む全ロプト教徒を代表して答える権限も無ければ、一任されてここに来たわけでもない。ここで個人の好みを押し出すのは間違いであろうから、やや他人行儀だがロプト教会の現在の方針を通す事を選んだ。
「左様ですか……」
 アイーダは、先ほどと同じような落胆の色を見せた。しかし今度のそれは何か裏があるように見えた。
 猜疑に満ちた目で見れば、落胆一つ取ってもここまで違って映るものなのか。小さな事例だが、学者であるレィムには大きな発見だった。
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「………………」
「………………」
 今度は引っ掛かるつもりはないので沈黙を通した。だが学者としての救われない美徳「好奇心」がレィムを強烈にくすぐった。
――いったい何を隠しているのだろう?
 成り行きの都合上こうしてロプト教徒の代表としてアイーダと会談している。もしもそんなしがらみが無かったら、タネ明かしを迫ってみたい。傍観者である事を決め込んでいる以上、自分自身が関わる気はない。だが舞台で踊らずともその袖では何が起こっているのかは知りたい。この罠の裏にはいったい何が隠されているのだろう?
 アイーダの提案を拒否する方向だけは固定にしておいて、何とかして聞き出せないだろうか――そんな危険な誘惑の虜になりそうなレィム。
 すると――。
「クスッ、教えて差し上げましょうか?」
「あ……」
 よほど強く顔に出ていたのだろうか、アイーダにあっさりと看破され、レィムは研究課題であるシグルドを知ろうと続けている口真似さえ忘れて紅潮した。
 挙句の果てに、アイーダの今の笑顔に妻帯者でありながら心奪われそうになったのが頬の赤みに拍車をかけていた。それを見てますます美しく微笑むアイーダ。
 笑うほどの余裕を持たせたとあっては、完全に形勢逆転である。
「貴方にも立場がありますでしょうし、ここからは友人として交わす取り留めの無い会話です。実は……」

 その夜――
 一礼して執務室を退出し、ややうな垂れつつ廊下を歩くレィム。黒いローブを纏った異様な格好は衛兵の注目を集めるが、アイーダが手配したのか止められる事は無かった。
 あれから交わされた一個人としての会話はかなり弾んだ。特に、命題としているシグルドについて深く語り合えたのは学者として本当に至福の一時だった。今までずっと資料をかき集めてばかりの研究だったが、実際に敵対した人間から生の声を聞けるのは貴重な収穫であった。しかもアイーダは敵ながらシグルドを高く評価しており、その強さに惹かれていた。思わぬところに同士がいた喜びもあってか、夜が更けるまでシグルド談義に花を咲かせた。
 だが、心の隅々まで満足した後は、少しばかりの余韻と二つの後悔が残り、帰路のレィムの頭を重くさせていた。
 一つは、妻以外の女性と時間を忘れて会話を楽しんでしまったこと。妻は9つも年下の夫に対しても貞淑な女性なのだが、せっかく作った夕食を共に出来ないと不機嫌になる。
 そしてもう一つは、アイーダの執務室に自由に出入りする許可と、それに伴っての積極的な談義――言い換えれば情報交換――を、いつの間にか約束されていたことである……。

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