ユングヴィ公女エーディン。
 事実上の非戦闘員であるにも関わらず、彼女は剣戟と怒号が渦巻くリューベック城の激戦の中にいた。
 常に全力を発揮して戦わねばならない兵士達にとって、すぐ傍に癒し手がいると言うのは何より心強いのだが、当の本人が危機に晒される可能性が残れば話は別である。だから兵士達はエーディンにもう少し下がって欲しいと思っていたのだが、彼女は頑なに首を振る。

 そもそも、何故ここで戦争しているのか――。
 真実を語るとすれば、故バイロン卿の陰謀によって、イザークのリボー一族が釣り出されたのに端を発しており、その前にバイロンに対しディアドラの確保とグランベルの転覆を持ち込んだマンフロイの遠大な計画がそもそもの始まりである――のだが、その真実はほとんど闇の中である。
 しかし今でも多くの将兵は、ヴェルダン王国軍の侵入が全ての序章と信じて疑わない。
ユングヴィに始まり、ヴェルダン・アグストリア・シレジア、そして今またグランベルを目指して転戦する将兵は、今まで密度の濃過ぎる人生を歩んで来たせいで、真実を見出すだけの余裕を誰一人として持てなかったのだ。
 エーディンもその一人であり、そして自分が「全ての始まり」と認識していた。
 ヴェルダン戦役の後、“西”の監視を怠った責を咎められて形でユングヴィ領の統治権を2年間剥奪される事になった。彼女は言わば戦争の被害者側の人間であるが、蛮族に国土を犯された事実を容認できないグランベル中枢部にとって、誰かに責任をとらせなければグランベル王国の面目が丸潰れになってしまうからであった。今後も他国を威圧し続けるためには“威信”の維持は必要不可欠なのだ。
 そしてユングヴィを守る義務が無くなったエーディンは、エバンス城に駐留するシグルドの保護される形で落ち着き、そのまま戦争に巻き込まれて行く事になった。
 彼女とて、なし崩し的に巻き込まれていたわけではない。正確には巻き込まれた現実の中で何かしら戦争に参加する意味を見出そうとした。
 一つは、幼い頃に生き別れた実姉ブリギッドの捜索である。これはアグストリア地方最北端オーガヒル島で運命の再会を果たした。弓使いウル直系の姉はなんと海賊に成り下がっていたが、とにかく無事でいた。

「頭下げなッ!」
 ブリギッドの怒号と共に伸びた左手が、エーディンの髪を掴んで引き倒した。
 うつ伏せに倒れたので視覚では捉えられなかったが、一瞬前に首があった付近を恐ろしい勢いで何かが通過して行った。
「ボーッと突っ立ってんじゃないよ、この馬鹿ッ!」
 さすがに妹相手に鉄拳は無かったが、声は誰を相手しても変わらない。聖弓イチイバルを継いでも根は海賊のままらしい。
 ブリギッドは戦争が終わればユングヴィ公となる身であるが、エーディンから見て、姉の今の状態から想像すると心配の種ばかりだ。指導者と言う立場は公爵も頭目も同じだが、グランベル貴族としての気品があまりに無さ過ぎる。礼法等は一通り心得てはいるものの、とにかく似合わないのだ。
 いろいろと世話になったオーガヒルの海賊達を悪く言うつもりは無いが、もう少し育て方が何とかならなかったのかと文句の一つも言いたくなる。
「あたいも焼きが回った! スワンチカと正面から喧嘩は気合入れ過ぎたよッ!」
 しかしそんな姉ブリギッドは、妹エーディンにとって眩しい存在だ。
 腹違いの弟アンドレイとの結婚を蹴る為に修道院に籠城したエーディンにとって、全てに能動的なブリギッドは一つの憧れなのだ。
「ジャムカーッ! 横に回り込むから援護しなッ!」

 エーディンが軍に帯同するもう一つの理由――。
 連れ去られた先のヴェルダンの地で巡り合った、第三王子――名をジャムカと言う。 蛮族の宿命と悲劇を背負って生を受けたジャムカ。それを取り払って幸せな人生を歩ませるだけのために無謀な戦争を起こして死んだ、父と二人の兄。
 家族を全て失うと言う悲しみをさらに背負う事になったジャムカを、エーディンは放って置けなかった。
 そもそもヴェルダン側の戦争の目的が、ジャムカとの結婚である。シグルド軍の長旅の始まりがヴェルダン戦役ならば、エーディン自身は全ての原因である。そう認識しているエーディンにとって、シグルド軍とジャムカ王子の行く末を見届けるまで離れるわけには行かないのだ。
 二人の仲は一時いい雰囲気まで進んだのだが、結局はそれぞれ別の人を選んだ。
 しかし各々に愛する者がいながらも、二人はいつも行動を共にしていた。個人の想い人は誰であれ、今でも二人はお互いが“運命の片割れ”同士なのだから。

「…………」
 数歩横にいるジャムカは、何やら呆然と立ち尽くしている。目の前にあんなものを見せつけられては致し方ないか。
「ジャムカーッ! 何ボーッとして……うわっ!」
 いっこうに援護が飛ばないので咎めようとしたブリギッドだが、再び飛来するスワンチカにまたも伏せを強要された。
 城門が破られた時点で軍同士の勝敗そのものは確定していたが、ドズル公ランゴバルトは最後まで撤退を選ばずになおも奮戦中である。玉座への突入は四度にわたり跳ね返され、遠距離からの弓での援護を目論んでもこの始末である。
 “聖斧”と謳われる聖武器だけあってスワンチカは特別な力を持っていた。持つ人間を特定するからこそ可能なのか、投じられたスワンチカは必ず主ランゴバルトの手へ正確に戻って来るのである。
 この特殊な能力を生かし、ランゴバルトは自慢の大盾で近接戦を凌ぎ、遠距離の敵を駆逐して戻って来たスワンチカで相手の頭を防御の剣や盾ごと叩き割るのである。近接戦と遠距離戦の両方を同時に挑まれてなおも一歩も引かない、スワンチカあってこそ可能な鉄壁の防御である。
「ジャムカ王子……!」
 そして今度はジャムカを狙う。しかし当の本人はまったく避けようと言う素振りは無く、ただ虚ろな瞳で飛来するスワンチカを見つめていた。
「つぅ……!」
 エーディンの悲痛な叫びが届いたのか、スワンチカはジャムカの左肩をかすめただけで、小さな呻き声を挙げただけで済んだ。済みはしたが、ジャムカはそれでも防御の構えをとろうとしない。
 姿勢を低くして近寄ってみると、ジャムカは放心状態のまま何やら呟いていた。まるでここが戦場だと言う自覚が無いかのように――。
 ジャムカの様子に構わず、二度目のスワンチカが襲う。
「ジャムカ王子……!」
 エーディンの二度目の悲鳴は、またも天に届いた。
 今度は右こめかみをかすめるに留まった。ただ、その圧はジャムカの頭に巻かれていた布を吹飛ばしてその威力を強く誇示した。
 投じたランゴバルト自身は近接戦も行っているから、こちらに対して正確に狙いを定めているわけではない。もしそれが無ければ、スワンチカが通過した軌跡はジャムカから逸れたりはしなかったのだろう。そして、戻って来たスワンチカを受け止め、返す刀で斬りかかる騎士達を打ち倒したランゴバルトがこちらを向いた。 近接戦を気にしなくて済むようになったランゴバルトならば、狙いを外したりはしないだろう。
「ジャムカ王子!」
 呼びかけても返答の無いジャムカに対して、エーディンは実力行使に出ようとした。しかし力の使い方が分からないエーディンでは、ジャムカを引き倒す事は叶わず頭を揺らせる程度にしかならない。
「…………………………」
 何事か呟いていたジャムカは、ついに視線をランゴバルトから外して俯いてしまった。いったい何が起こったのか、ジャムカの頭の中では何が渦巻いているのか……エーディンには分からない。ただ一つ言える事は、このままでは確実に命を落とす事になる。
「チィッ! これでも食らいなッ!」
「甘い、出直せぃ!」
 ブリギッドが援護で放ったイチイバルの矢は、ランゴバルトが一喝で振り構えたスワンチカによって払われた。そして払いからそのまま振り構えて、三度目を投じた。
「ジャムカ王子! 逃げて!」
 胸元にすがり付いて必死に揺すって哀願するエーディン。しかしそれでもジャムカは反応しない。
「ジャムカーッ!!」
「ジャムカ王子!!」
 ブリギッドとエーディンの、最後の叫び。

「………………!?」
「………………!!」
 信じられない事が起こった。
 ジャムカは、回転しつつ襲い掛かる聖斧スワンチカを、俯いたまま右手一本で掴んだのだ。
「なんだよ……」
「ジャムカ王子……?」
 眼下にいたエーディンは、ジャムカの呟きと垂れ落ちて来る熱い雫を知覚した。
「こんなものなのかよ……」
 受け止めたスワンチカの柄を握る拳に力が入る。
「なんだよ…………何が伝説の武器だ、何が聖斧だ……こんなものより、兄貴の手斧の方が全然凄いじゃないか……」
「王子……?」
「何が聖戦士の血だよ…………こんなものの……こんなもののために、親父や兄貴は死んじまったのかよぉッ!!!!」
 怒りのやり場として選ばれたスワンチカが叩き付けられて鈍い音がした。そしてそれをかき消すような、号泣。
「………………」
 エーディンは、何も言わずただ抱きしめた。

 その光景を、エーディンではない別の女性が遠くから見つめる。
 結ばれるべきは、やはりあの二人だったのだ。
 何の因果か、二人は違う男と女を選んだが、今でもあのように心が繋がっている。本人に優柔不断なところがあるにしても、ジャムカはエーディンを忘れていないだろう。
「本当にこれで良かったの?」と聞いたら、ジャムカは後悔の台詞を口走ったりしないだろう。恐らく「俺は君を愛した。その心に偽りは無い!」と言ってくれるのだろう。そしてそれは嘘ではないのだろう。
 しかし、ジャムカとエーディンは単なる永遠の愛を超越した何かで繋がっている。
 ジャムカの実父は、蛮族である事だけが理由で殺されたと言う。
 残された忘れ形見ジャムカに寂しい思いをさせまいと、祖父と叔父達はヴェルダン王家の系譜を書き換えてまでして父と兄となり、ジャムカの家族を演じ続けた。そして無謀にもグランベルに攻め入り、エーディンを連れて来て、それと引き換えに父と兄達は命を落とした。
 聖戦士の血さえ引いていれば――。
 父と兄の願いは、ジャムカの実父の悲劇を繰り返させない事。ジャムカに幸せになってもらうこと――。結果は裏目に出て、ジャムカは本当の孤独になってしまった。
 そして、今この地で、ジャムカは家族が命懸けで迎え入れようとした聖戦士の血を否定した。言わば、彼が背負って来た人生や運命全てを失ったに等しい。これを癒してやれるのは、エーディンであって妻である自分ではない。
 ジャムカと自分との間の愛は、家族同然の仲間を失った悲しみを埋めてくれた優しさから生まれたものだ。言わばただの心の中の繋がりでしかなく、それではジャムカを分かってやれない。
 ジャムカの運命を共有するエーディンでなければ、ジャムカの心の闇を分かってやる事などできはしない。だから、今、ジャムカを抱きしめるのはエーディンでなければならない。

 それが分かっているから、こうして遠くから見つめている。
 それが分かっているから、こうして溢れる涙が止まらない。

 涙で曇った視線をずらすと、得物を失ったランゴバルトに兵士が襲い掛かっている。ここの戦いはもうすぐ終わるだろう。
 フィノーラ・ヴェルトマー・そしてバーハラ。戦争が終わるまで、まだ戦いはいくつかある筈だ。
 シグルド軍の長旅がジャムカとエーディンの運命に起因しているのならば、自分達がバーハラまで辿り着いて長旅が終わった時、ジャムカとエーディンの闇もまた癒され、全てに決着がつくのだろうか。
 少なくとも、そう信じたい。だから戦う。
 自分では、ジャムカとエーディンを癒してやる事はできない。
 自分に出来ることは、出来るだけ早くこの戦争を終わらせてやることだけだ――。

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