「リューベック陥落、ランゴバルト卿戦死!」
 グランベル国内が、王国史上最大の大混乱に陥ったのはこの報が届いて間もない頃だった。
 ヴェルダン侵入・ユングヴィ陥落の時でさえ、他の公爵領では落ち着いていたにも関わらず、だ。
 今回は、あの折りとは異なり「きっと何とかしてくれる」と言う希望を、民はほとんど見出せずにいたのである。
 ヴェルダン軍とシグルド軍、蛮族と同じグランベル人と言う差があるのも大きいが、何よりランゴバルトの戦死が与えた衝撃が大きかった。
 グランベル王国が建国されて以来、いや、ダーナの奇跡とロプト帝国打倒の聖戦の時でさえ、十二聖戦士は誰一人として戦死していないのである。
 ユングヴィ公リングはイチイバルを所持していなかったし、シアルフィ公バイロンは逃亡中だったので参考にならない。つまり正面同士からの戦争で伝説の武器を所持した十二聖戦士が戦死したのは初のケースなのである。
 グランベル本国にいた頃のシグルドはこれと言った実績や名声は無く、「バイロン卿の御長男」以外に説明できない、言わば未知の人であった。
 人間、未知の存在を最も恐れる。何故ならば、その恐ろしさを全く推測できないからだ。もしも僅かでも恐慌状態に陥ってしまえば、勝手に最上級の悲観的観測を行ってしまうものである。
 最大限の悲観的観測を真実とするならば、シグルドは暗黒神ロプトウスよりも黒く強大な存在である。何しろ、聖戦士を討つのはロプトですら成し得なかったのだから。
 十日も経たないうちに、グランベル国内は終末思想が蔓延っていた。伝承や物語でロプト帝国が行った虐殺を知る市民達は、それよりも恐しい存在であるシグルドが、もしバーハラまで押し寄せてきたら――世界の終わりと等しく扱ったのである。
 そして、これを煽った者がいた事実は表に出なかった。

 フリージ城、当主レプトール私室――。
「父上、ブルームです。よろしいでしょうか?」
 長子ブルームが所用により父の私室の扉を叩いていた。
「…………………………入れ」
「……?」
 ブルームはこの反応に首を捻った。
 いつもならば即座に返答がある筈なのだが、今回に限って結構な時間を要したのだ。
 長く続いた沈黙であったが、微かに音が発せられたような気もする。
「失礼します」
 何はともあれ、ブルームは部屋に入った。微かな音が何なのか気にはなったが、それよりも遥かな重要な用件があるので二の次に回した。
「父上、此度の命令の確認で参りました」
 実権をアルヴィスに握られた影響で宰相レプトールを囲む書類の山は小さくなっている。しかしそれでも多忙には違いがないのだろう、サインと捺印の作業は続いている。
「南部地方の治安維持に向かうべし――アルヴィスが出したものに変更はない。編成は、わしが指示した通りに行え」
 視線はブルームを指しているが、右手は動いている。寝ながら書類にサインできなくては宰相は勤まらんわ――と言っていたのは、あながち冗談ではないらしい。
「しかし、この時期に軍を他方面に向けるのはあまりに危険すぎます。確かに放置はしかねますが……」
 同じグランベル国内であるが、地方によって混乱の激しさは大きく異なる。
 比較的に安定しているのは、最優先で治安維持に努めている王都バーハラ、軍・当主共に健在なヴェルトマーとフリージ、宗教に帰依している関係で気質が穏やかなエッダ、そして地理的に遠く離れていて戦火が及ぶ事を楽観視できるミレトス地方のみである。
 一方、最も酷いのは当主が討たれたばかりのドズル公家領。何しろ、頼みの軍主力と長子ダナンはイザークで孤立中で助けに来てくれないのだ。ドズル城内に至っては、ダナンの長男ブリアンを避難させようか討議するまでに追い詰められているらしい。
 実際には気の早すぎる話なのだが、シグルドの接近はそれだけの威圧感があるのだ。
 そして国内は、別の意味でも混乱していた。
 シグルド軍の指揮官には自身も含めて公爵家に名を連ねる者が6公爵家全て揃っている。すなわち、シアルフィ公子シグルド・エッダ公クロード・ユングヴィ公女ブリギッド&エーディン・ドズル公子レックス・フリージ公女ティルテュ・そしてヴェルトマー公子アゼルである。
 中には直系ではない者もいるが、それよりも公爵家の人間がいる事実が肝要である。
 シグルドは終末を予感させると共に、新たな秩序も提示したのである。シグルドが覇権を握った時が、彼らによる新しい6公爵の誕生の時でもあるのだ。
 これに気付いた者は「新たな公爵」に良い顔をしようと不穏な工作を始めたのである。特に、鎮める役目の者が誰もいないシアルフィやユングヴィは、明日にでも挙兵しかねない状態にまで事態は厳しい。
 由々しき事態であり、決して放置できないのだが、これらは全てシグルドに起因している。つまり、シグルドを討ち果たしさえすれば解決する話なのだ。
 だがアルヴィスは、ブルームに治安維持の為に軍を率いての出動を命じたのである。フリージ家はヴェルトマー公家領でのシグルド軍迎撃の任を帯びているにも関わらず。
 ヴェルトマー当主であるが、アルヴィスは王女ディアドラと結婚した関係でバーハラ防衛に就かなければならない。よってフリージ家が前に出て守るのは自然な流れではある。
 しかも本国内に残る機動部隊はフリージ公家軍しかいない事情もある。南部に出動できるのはフリージしかいないのは、確かではある。
「しかも何故にこの編成なのですか!」
 グランベル本国入り口――事実上のボトムラインである。ただでさえ、ここに防衛ラインを張りながら軍を割かねばならない事ですら異常であるのに、しかもレプトールがブルームのために編成した別働隊は何と最精鋭ゲルプリッターなのである。
「父上! これでは……!」
 前線に残るのは二線級の兵士である。ブルームの認識では民衆みたいにシグルドを過大評価はしないが、少なくとも全力を必要とする相手であろう。
 だがこの編成に従うと、父レプトールはゲルプリッター抜きでシグルドに挑む事になる。戦下手ではないが、この戦力で勝利を見込めるような軍神でもない。
 そして今度ばかりはあの時のように弁舌で世界を動かすのも難しいだろう。シグルド軍内にはグランベル人も多いが、向こう側の名目によると、打倒相手が王権を蔑ろにしているレプトール自身とあっては、本人にいくら弁舌の天才であっても聞き入れてくれそうもない。
 「ブラギの神託」によってクルト王子暗殺の首謀者がレプトールである、とクロードは宣言した。眉唾物だが、宗教は厄介でいったん信じると目を覚まさせるのは非常に難しい。もっとも、それを利用してグランベルは今まで統治してきたのだが。     何にしろ、これでは父レプトールに勝利の目はまるで無い。
「これでは死にに行……父上!?」
 ブルームはフリージ家の人間にしては珍しく武の人である。だから死を厭いはしないが、しかしわざと戦力を削って死にに行くとなれば話は別である。
「……聞け、ブルーム」
 父は、ここで初めて手を止めた。
「敵はシグルドだけではない。奴に力を貸したシレジアやレンスターを討つための戦力も残して勝たねばならん」
 だからあえて最精鋭のゲルプリッターを遠ざけたのだ――と言うことになる。
「は…し、しかし」
「シグルドを討つのはわしやお前ではない。ディアドラ様と結婚したアルヴィスが英雄にならねばグランベルは安定せん」

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