フィノーラ城――。
 リューベック城を奪取し、トラキア竜騎士団を退けたシグルド軍は、ついにグランベル本国へ向けて兵を進めた。
 途上、イード砂漠にあるグランベル王国東の門、フィノーラ城はなすすべなく陥落した。
 ここは地理的な都合でヴェルトマー公家の管轄であったが、砂漠と言う地形の都合上、兵力はまともに配置されていなかった。
 結果、神速の行軍速度で襲いかかったシグルド軍の前に蟻のごとく踏み潰されたのだ。
 残りはグランベル中枢のみである。シグルド軍は決戦に備えてここで最後の補給を行っていた。

 合流しようとしていたレンスター軍は、トラキア軍に急襲され、永遠に出会えない存在となってしまっていた。
 だがこれについてシグルド軍内部に悲観的意見は少なかった。自力で戦い続けてきた自信だろう、実際のところは戦力としては大して当てにしていなかったのだろうか。

 彼らが頭を抱える問題があるとすれば、例えば今、黄昏を眺めている一人の女性だろう。名をティルテュと言う。
 次の通過点はヴェルトマーだが、彼女の生家フリージ公家軍が立ちはだかると言う情報を得ている。
 当然、場合によっては父娘相討つケースも考えられるのだ。

 実例が一つある。先のリューベック城攻略戦でのことだ。
 この戦いにおいて、ドズル公子レックスが父ランゴバルトと相見えている。結果、レックスは心に深い傷を負い、現在もその精神は極めて不安定な状態なままである。
 致命傷を与えたのは他人であるにせよ、自分が「父殺し」である事を否定できなかったのだ。
 レックスが父ランゴバルトと向かい合ったのは、シグルドが意図的に当たらせたからである。
 シグルドの父バイロンの死を疑問に思う者は「自分がそうしたように、レックスにも父親に手をかけさせて、運命の迷いを断ち切らせたのだ」と分析した。
 シグルドに対し悪意を抱く者は「戦場で相見えた親子が、いったいどんな会話をするのか興味があったからに違いない」と断定した。
 どちらにしても、シグルドは肉親同士が相討つ事を望んだに変わりはないのだが――。

 この流れで行くと、ティルテュはレプトールと戦わさせられる羽目になる。
 それそのものの回避は恐らく無理だろう。敵対することを選んだ以上は、睨み合うのを拒絶するのは筋が通らない。酷かも知れないが、それぐらいの覚悟がなくては部隊指揮官ではない。
 だから、せめて事前・事後のケアだけは、と皆が心配しているのである。
 その役目に幼馴染みであるアゼルが選ばれたのは、当然の帰結であろうか。
 ティルテュと懇意であるクロードも候補に挙がったが、「いずれはアゼルにも関係する話ですから、当事者同士で解決するのが一番です」と本人の辞退によって確定した。

「ティルテュ、いい?」
「ん、いいよ」
 黄昏時。
 アゼルは、手頃な岩場に座って夕陽を眺めているティルテュを見つけた。明日には城を発つのだから、今日中に話をしておきたい。行軍中ではなかなか出来ないものだから。
 しかし、いざ横に座ると、アゼルの方がしんみりした気分になってくる。ティルテュに言える事は、アルヴィスを義兄に持つアゼル自身にも言える事なのだから。
「……」
 自分から声をかけておきながら、黙り込んでしまう。 
 太陽は、どうして西に沈むのだろうか。
 フィノーラ城をから黄昏を眺めたら、嫌でもヴェルトマー公家領を望む事になってしまう。
 そこで大きな戦闘があって、バーハラまで行って、そうしたら……。
「レックス、大丈夫かな……」
 そうしたら、レックスみたいになってしまうのだろうか。
「壊れちまった、って自分で分かる間はまだ大丈夫さ」
 眼光鋭く口元緩く語った、あの時のレックス。アゼルは、親友でありながらレックスをそれから見舞っていない。
 クロード曰くの「闇に魅入られた者と迂闊に接触してはなりません。自らも闇に引き摺り込まれてしまいます」と言う忠告もあったが、それ以前に親友のなれの果ての姿に恐怖したからだ。
 
「……」
 ティルテュは答えなかった。
 いつもの雄弁ぶりはどこに影を潜めたのか、と言うぐらいに沈黙している。
「そうだよね……家族と戦うんだもんね。僕でさえ、まだ義兄さんと戦う事を決心できないんだ」
 アゼルはアルヴィスの異母弟にあたり、二人とも揃って両親を亡くしている。言わば唯一の肉親同士なのだが、仲は良くなかった。
 僅か7歳でヴェルトマー公家の主となり、あらゆる面で優秀であったアルヴィスとは異なり、アゼルは極めて凡庸な人間であった。
 むしろ、6公爵家の公子としては落ちこぼれもいいところである。比較対象がアルヴィスだったのは不運ではあったが、やはりアゼルにこれと言った才能は無かった。
 そして、こんな愚弟に優しくしてくれる義兄に対しての劣等感を初めて意識して以来、アゼルは部屋に閉じこもり、半ば自閉症の毎日を送るようになった。とにかく兄と関わりを避けたかったのだ。
 シグルド軍への参加は、アルヴィスから離れたかっただけで、アゼル個人には野心も曲解された正義感もなかった。
 しかし気がついてみたら自分はグランベルに戻ってきていた。そして、遠からず戦う事になるのだろう。
 不仲ではある。だが肉親の絆はそんな程度でたやすく断ち切れるものではないのだ。
 アルヴィスと不仲であるアゼルですら悩まねばならないのだ、ティルテュのはさらに深刻な問題であろう。
 たまに聞かされるティルテュからの話では、彼女の父レプトールは、辣腕家の宰相としてのイメージと裏腹に、子煩悩な父親らしい。ティルテュも父の事を「パパ」と呼んでいたあたり、父親を慕っているのだろう。

「ね、アゼル……一つ、聞いていい?」
 ティルテュが初めて口を開いたのは、逆質問だった。アゼルは黙って首を縦に振る。
「アゼルにとって家族と戦うってコト、どれぐらい悲しい?」
「どれぐらい、って……」
 アゼルに詩文の才能はない。日頃の悩みの大きさを言葉で表現しろ、と言われても答えられない。
 が、この状況下でのティルテュの質問である、無回答では済ませられない。言葉を選べないなら、と半ば無意識にありのままに答えてみた。
「……僕、義兄さんがずっと恐かった。今でも、あまり会いたくない。でも、もし戦場で義兄さんと会って、戦って、義兄さんの亡骸を見たら……たぶん、泣くと思う。ワンワン声挙げて、義兄さんにすがりついて、ずっと泣いてると思う」
 出て来た言葉には、アゼル自身が驚いた。
 恐怖を覚える対象でしかなかったと思っていた義兄アルヴィスについて、識域下に語らせた本音はこうだったのだ。

「そっか……アゼルはそんなに悲しいんだ」
「うん……でも僕は泣くだけだけど……」
 意識下では義兄を恐れていたアゼルでさえこうなのだから、父が大好きなティルテュが「父殺し」となった時、どれぐらい悲しむのだろうか。
 もしかしたら、レックス程度では済まないのかも知れない。
 あの、「壊れる」とか「闇に魅入られる」とか言葉の意味はよく分からないけれど、ティルテュにはティルテュでいて欲しい。もし、その為にティルテュに何かの支えがいるのなら――と、アゼルの内に一つの決意が芽生えようとした、その時。

「じゃぁ何で、あたしは悲しくないんだろ」
「え……?」
 この話をしているティルテュの表情は、いつになく暗い。しかし彼女は悲しくないと言う。
「うーん、悲しいってのはあるのかな。今、自分のテンション低いな、ってのは分かるから。でも、どんなにパパのコト考えても、ちっとも涙が溢れて来ないの」
「どうして……?」
 彼女が想像力に乏しいなど絶対に有り得ない事は、アゼルが断言できる。少なくともティルテュの方が「その状況」をよりリアルに思い浮かべられる。
 その筈なのに、それが悲しくないと言うのだ。
「パパと戦う覚悟ができてるからかな」
「でも」
 戦わなきゃいけない、と言う覚悟はアゼルにも出来ているつもりだ。正確には、出来れば戦いたくないがもう避けられないんだ、と。
 ティルテュみたいに能動的ではないが、それでもそこまで精神面で違いは無い筈だ。少なくとも悲しくないと言えるほどまでは。
 理由がどうしても分からないアゼルの横で、ティルテュが膝を伸ばした。長い話を始める時の癖だ。
「ねぇアゼル、あたしの家系の話、前にしたコトあるよね?」
「悪魔の血、って話……?」
 ティルテュは、そう、と軽く頷いて話し始めた。
 フリージ公家開祖、魔法騎士トードの最期は全身から血を吹き出しての怪死であった。しかもその瞬間の直前は発狂状態であったと言う話だ。
 フリージの血族は聖戦士として以外にも何やら特別な血を受け継いでいるらしく、その血を制御しきれなくなると、この世のものとは思えない恐ろしい力が暴発してしまう。
 とにかく理性による制御が絶対に必要で、戦場などで生命に危機が及び極限状態に陥ってしまえば、たちまち発動してしまうのだ。
 ティルテュも例外ではなく、少しでも精神を強くなってもらおうとクロード神父の側へと修養に出されたぐらいである。
「……と言うわけだから、ホントは、戦って欲しくない。ずっと宰相様やってたりで大変なのに、そんな身体でトールハンマーなんか使ったりしたら、パパ、パパじゃなくなっちゃうから……でも、パパは戦場に出て来ると思う。だから、じゃぁそうなる前にあたしが止めなきゃ、って」
「……」
 戦争そのものは、もう誰にも止められない。
 ティルテュの父レプトールは、グランベル王国の最後の盾としてシグルド軍と相対する。王国の命運を背負った一戦で、トールハンマーを出し惜しみしたりはしないだろう。つまり、負担がかかり過ぎた精神は悪魔の血を制御できなくなり発狂、そして大暴走を起こした末に肉体が崩壊して無惨な死を迎える事になる。
「これは、あたしがやらなきゃ、って思う。あたしもフリージだし、だからあたしはパパの敵になってるんだ、って」
「ティルテュは、強いんだね……。それに比べて……」
 アゼルは曲げたままの膝に顔を半ば埋めた。フリージの宿命あってからこそもあるが、やはり彼女の芯の強さがあってこそだ。
「そんなコトないと思うけど」
「ティルテュはやっぱり強いよ。僕なんか、未だに兄さんと戦いたくないって逃げてばかりだもん……」
 アゼルが小さくため息をついたが、ティルテュは首を振った。
「うーん……何か一つにずっと固執するのも、逃げだと思うな。パパを殺そうとしてるのに悩んだりもしないあたしって、絶対に変。あたし、きっとフリージの宿命のせいにして、何も考えないで黙ってそれに従って、楽してるんだと思う。それだけこなしてて、他のコト考えずに生きてる、奴隷みたいなのかな。……最後まで運命に逆らって色んなコト悩んだりできるアゼルの方がよっぽど強いと思う。羨ましいな」
「……ありがとう」
 自分がケアしに来た事を忘れて、アゼルは心から感謝した。完全に立場が逆である。
「アゼルは、お兄さんと戦っちゃダメだよ。アゼルの腕輪、お兄さんと戦えなんてコト言ってないんでしょ?」
「うん……」
「……って、そんなので決めたらあたしと同じじゃない。アゼルはアゼルだけの意志で決めてね。あたしよりまだ時間があるんだし……戦争、あたしまでで終わってくれるかな」
 ティルテュの言う自分まで、とは、ヴェルトマー公家領での対フリージ軍まで、と言う意味だ。
 戦闘はそこまでで、あとは和平交渉なりで……とティルテュは期待しているのだろう、アゼルを案じて。
「……」
 無言を通したアゼルには分かる。右手首の腕輪が何となしに熱い。この長旅の終着点がヴェルトマー城ではないと警鐘を鳴らしてくれている。
 ティルテュは自分の家の宿命に従ったりしないで、と言うが――王都バーハラでの決戦は、そして義兄アルヴィスの対決は、どうやら避けられそうもないようだ。

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