フリージ家々訓曰く――。
「人は理性の生き物なり。如何なる究極状態下にあっても、決して“人”である事を捨てるべからず」

 バイロンと二十年も権力争いを続けていたのは、自身も権力の独占を狙っていたからには他ならない。
 政治の世界に生きて来た者にとって、より強い政治力を持つ事を望むのは、果たして野心なのであろうか? 自分で忠臣ぶるつもりはないが、バイロンのように最後の一線を越えない限りは構わないと考える。
 王権を欲した事が無いわけではない。
 だからと言って主家を打倒してまで望んでいたわけではないから、生涯を臣下で終えるつもりだった。
 しかしアルヴィスから玉座を用意されたのに素直に飛びついたのは、識域下で望んでいた長年の夢に違いは無い。主家に手をかけずに王位を得られるのなら、最上の結果だ。
 どこの玉座か、それは普通ならグランベルを除けば最も肥沃な国、アグストリアだ。
 だが――。
 あの時、大罪を犯した。
 バイロンを陥れるためとは言え、計略を張り巡らせてイザーク残党を斬り込ませたのだから。噂を耳にすれば必ず話をバイロンに持ち込むだろうと確信してリングの情報網へと流したのだから。それを知ればバイロンは必ず警備を薄くするだろうと確信してイザーク残党をけしかけたのだから。
 バイロンは放置できなかった。単に王国の権力の独占を望んだのではなく、グランベルそのものを奪おうと画策していたからだ。何としてでもここでバイロンを蹴落とさなければならなかった――だが。
 だが、その為にイザーク・リング・バイロンを操る三重奏のタクトを振って、主君クルト王子を生贄に捧げてしまった。
 政治に犠牲は付き物である。大を生かすために小を切り捨てなければならないのは政治の道理であり基本であり宿命である。
 しかし、政治は全て主君に利益をもたらす為に行われるものである。その主君を“小”とするのは話が合わない。
 だからいかなる理由であったとしても、“大逆罪”の片棒を担いだのに変わりは無いのだ。

 そんな罪悪感に際悩んでバイロンの子倅と対峙すると、決して忠臣とは言えなかった自分が命を捨てているのに気付く。
 アルヴィスの戦略、リューベック城からバーハラ城まで引き込む壮大な縦深陣。その性質上、戦死しなければならない理由はどこにもない。だが生き長らえようと言う気はまったく起きない。理由は……罪滅ぼしみたいなものだ。主君を見殺しにしてまでバイロンを蹴落としたものの、その子シグルドがグランベルを脅かしている。結局は「正規軍vs叛乱軍シアルフィ家」の構図は全く変わっていないのだ。
 とどのつまり、無駄死にだったのだ。
 臣下として苦渋の選択でグランベル自体の安寧を願って及んだ凶行だったが、その実は大して意味が無かったのだ。主君を死なせたのは、それによってもたらされる平穏と等価値でなければならない。だが結果はクルトの死で得たものはバイロンの失脚だけでしかなく、グランベルに及んでいた危機は子シグルドによってさらに色濃いものになってしまっていた。これでは釣り合いが全くとれていない。
 秤の傾きを水平に戻すためなら、グランベルに平安を取り戻すためなら、この命を投げ出すのは厭わない。
 バイロンの失脚と主君クルトの命とを天秤にかけたのは――アルヴィスから持ち込まれたとは言え――自分に他ならない。その計算が誤っていたのなら自らが正さねばならないだろう。
 だが、シグルドを討つだけなら自分が死ぬ事はない。シグルドをアルヴィスが“ボトム・ライン”で屠るならば敗走でもさして問題は無い。そう、シグルドを討つだけなら。
 しかし、物事と言うものは、何かは何かに必ず繋がっている。歴史が物語ではないのは、決して完結が存在しないからだ。
 シグルドを討っても、全てが終わるわけではない。シグルドと手を結んでいるシレジア王国や援軍を出したレンスターなど、討たねばならない敵は残るのだ。シグルドさえ討てばこれらの敵は息を潜めるだろうが、放置していい存在ではない。
 そして何よりも……トラキアがいる。
 グランベル王国の戦歴は、北トラキアへ侵攻するトラキア軍を撃退するべく援軍を送る事が多くを占めている。
 バイロンとは二十年弱の抗争に明け暮れた。長いようだがたかだか二十年だ。シグルドに至っては牙を剥くようになってから二年と経過していない。だがトラキア王国とはそれよりさらに昔から争い続けている宿敵の関係にあるのだ。
 まだ若いアルヴィスはシグルドにしか頭に無いようだが、真に警戒しなければならない敵はトラキアであり、あの傭兵王に肥沃な北トラキアを渡すのはシグルドを討つのと同程度に断固として阻止しなければならない。
 だがアルヴィスはシグルド弱体化のため、レンスターをトラキアに売り渡した。ランスナイトの合流を防いだのは大きいかもしれないが、いつも対トラキア軍の主力であるレンスター軍を崩壊させてしまったのは、将来に大きな禍根を残した。
 この様に、シグルドを討ったとしても終わりではないのだ。シグルドはグランベル王国を脅かす大いなる危機だが、それを回避するために全力を投入して次の危機に対処する余力まで失う事も回避しなければならない。
 アルヴィスが――なりふり構わず――“ボトム・ライン”でシグルドを屠る保証があるのなら、それ以外の被害は最小限に抑えなければならない。残った軍勢は返す刀で対シレジア遠征に赴かねばならないからだ。
 シアルフィ家は論外。エッダ家は固有の軍事力が無い。ユングヴィ家は当主・軍とも失われた。ランゴバルトを失うなど被害甚大なドズル家は遠いイザーク地方の維持で精一杯。ヴェルトマー家はアルヴィスがディアドラ王女と結婚した都合でグランベルを離れられない。となれば、唯一の機動戦力はフリージ家しかいないのだ。
 だから、ブルームに最精鋭のゲルプリッターを預けて治安維持に回させた。この戦いで決して傷ついてはならない軍、新たなグランベル王国の剣と盾となる貴重な軍なのだから。
 ただ、精鋭を失ったフリージ軍がそのままぶつかっては、シグルドに看破される恐れがある。“ボトム・ライン”はある意味で騙し討ちのようなものであり、縦深陣は気付かれずにどこまで引きずり込めるかにかかっている。はなから勝つ気がない事を気付かれてはならないのだ。だから巧く誤魔化す細工を施す事にした。それがこの降り注ぐメティオの雨嵐だ。
 混乱した軍は、軍の質を問わず脆い。裏を返せば、混乱さえしていれば軍の質は傍目には似たり寄ったりでよく分からないのだ。
 その為に、援護の形で高台に配置されているヴェルトマー軍に裏切りを演出させたのだ。裏切りに遭って平静さを維持できる軍などまずいない。正面からぶつかってもシグルド軍はフリージ軍の脆さは混乱のせいと思い、質が悪いとは感じたりしないだろう。
 この申し出を聞き入れたアルヴィスも大した性格だが、全面的な協力を得たおかげでこの偽装は成功したようだ。これならば、この戦いの後ヴェルトマー家が和平を申し出ることが出来る。おいそれと騙されるシグルドではないだろうが、和平を蹴ってバーハラに正面から攻め寄せるような真似はグランベル人には不可能な相談である。だから最終的には乗るしかないだろう。
 対シグルドは、これだけ用意すればあとはアルヴィスに任せても大丈夫だろう。対トラキアは……やや不十分だが、ブルームに委ねる事としよう。アルヴィスに用意された玉座、アグストリアを取りやめてレンスターにしておいた。大損害を被ったレンスター王国にはトラキアを撃退する余力は残っていないだろう。ならばグランベル自らが鎮座して防がねばならないだろうから。北トラキアは肥沃な土地だが、外敵をはじめ何かと統治が難しい。それにフリージ公家領も疎かに出来ないので何かと大変だろう……ヒルダがいれば大丈夫ではあろうが…………。

……。
…………。
………………。
「閣下!」
「宰相様!」
 政治の話を考えていれば冷静でいられたから懸命に気を紛らわしていたが、そろそろ限界らしい。
 歳のせいかも知れないが、トールハンマーを一発放っただけでこんなに重甲冑が重いのは初めてのことだ。背中に負ぶさったフリージの悪魔が存在を色濃くしているからだろう。
 トールハンマーは雷魔法だが、実際に放たれるのは別の力だ。雷を纏って飛ぶ暗黒の球体……あれは、もしかしたら異界の門なのかも知れない。だから、トールハンマーを受け継いだ者には特別な精神修養が必要なのだろう。
――オオォ……ゥオオォ……!
 悪魔は、なおも頭の中で咆哮を挙げている。
 俗に言う“フリージの怒り”は、内なる魔が制御不能になって暴走した状態だ。その戦闘能力は異界の力だけあって人の物差しで測れるような尋常なレベルではない。ただでさえそうであるのに、もしもトールハンマーを操る者が心を奪われたりしたら……恐ろしいことになる。
「…………」
 案外、そうなるのも悪くないかも知れない。
 ヴェルトマーに裏切りを演じて貰った以上、形の上では退路を塞がれた状態である。これを演じ続けるためには敗走は出来ない。どちらにしろここで死ぬしかないのなら、より多くの敵兵を道連れにして発狂死の方がお得と言うものだろう……人間を捨てるのは正直なところ怖いが。
「よし……」
 呟く様に決意を固め、再び立ち上がる。
「離れておれ」
 悪魔を解放したら何が起こるのか全く分からない。自分はまだしも周囲の兵士には武人としての最期も必要であろう、つまらない死に方はさせたくない。
「ゼレ……レゥン……ロフ……ゲォム……っ!」
 詠唱を始めた途端、額に浮き出た血管から血飛沫。
 ……開祖トードの最期は、全身から血を噴出しながらの発狂死であったと言う。抱え込んだ悪魔に所詮は人間である脆い器が耐えられなかったからだ。
「グィ、ソェク……リ……っ!」
 次は手の甲から。
「ユレ……ワス……ィーレン……グ!」
――ブゥゥゥ……ン……。
 今度は頚動脈から噴出させながら、魔法は完成した。
「閣下!」
 主が首筋から血飛沫を上げていて声を挙げずにいられるはずが無い。フリージの怒りについて詳しく知らなくても、トールハンマーを唱える事が主に多大な負担をかけている事ぐらいは嫌でも分かる。
 中止させようと駆け寄る兵士達の視線の先で、主は頭を振った。
「閣下! おやめください! この場は我らが何としてでも!」
「来るな……!!」
 幽かな声の、一喝。
 静かな迫力に気圧されて兵士達が一瞬怯んだ隙を突いて、投射の構えに入る。
 生み出されたトールハンマーは、大きさこそは変わらないが今まで最も質量を感じられるものだった。
 これを放てば、敵軍に大きな損害を与える代わりに、恐らく自我は残らない。残り全ての占有権を失い、精神は完全に乗っ取られ、身体は悪魔のものとなる。そしてあらん限りの暴走を続けた後、ついに肉体が支えきれずに崩壊する……そう言う事になる。
 この命と引き換えになるのなら、どうせなら名のある者にぶつけたい。希望する相手は前線を蹴散らし、メティオの雨の中、真っ向からこちらへ向かって来る。
「シグルド、勝負!」
「閣下――ッ!!」
「トール・ハン……!」
「やめ……!」
「……」
「…………」
「………………」
「……?」
「…………!?」
「……! …………!!」
 奇妙な事が起きた。
 周囲の兵士たちは、それぞえが喉に手を当てて、何か必死になって叫ぼうとしている。しかし、その声は決して発せられる事になった。まるで、世界から音の概念そのものが無くなってしまったかのように――。
――サイレスか……。
 唸っても声が出るわけが無いので、心の中で分析する。
 サイレス。対象の周囲の音を奪う杖魔法で、主に相手の魔法を一時的に封じるのに用いる。
 シグルドには、正々堂々、騎士の戦いをすると言う考え方は無いらしい。極めて合理的で貪欲に勝利を追い求める主義のようだ。
――トールンマーも消えたか、無念……。
 普段ならば魔法を抵抗できないような自分ではないが、精神状態が異状である今なら抵抗できないのも仕方が無いか。手の先に浮かんでいた異界の門は、術者の力が封じられたために四散してしまっていた。
 一通りの武器は使いこなせるとは言え、トールハンマーがなくてはただの人である。恐らくなすすべも無く打ち倒されてしまうだろう。もともと負け戦であるが、このトールハンマーでせめて一太刀、と心に決めていたのだが……誰の仕業か知らないが余計な真似をしてくれた。
――あれは……ティルテュ!?
 遠くに杖を手にした一人の魔導師を見つけた。ライトスティールブルーの長い髪をたなびかせた女性がこちらを向いて立っていた。そして、右手を胸元に当てて縦横に動かした。
 サイレスの効果もあるし、もともとこの距離では会話は成り立たない。ティルテュは“しるし”をした後、言葉を投げかける代わりに小さく首を振った。
「(それ、良くないと思うな)」
 言葉は発しなかったが、頭を振る仕草はそう言っているように見えた。
 娘の言葉を受け取った父は、やおら携えていたトールハンマーの魔導書を投げ捨て、サイレスで音にならない笑い声を挙げながら護身用の剣を抜き、トールハンマーを失った敵将に群がって来る兵士の波に飛び込んだ。
「(シグルド、勝負!)」

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