軍事境界線、南南東――
シレジアとグランベルの国土が作る湾の根元にあたる地点である。とは言え、ここは南側は崖になっており、フィノーラ城が目の前に見えているにも関わらず、それ以上の進軍は出来ない。
「どこだぁ〜」
戦場が遠くリューベック城まで移動していると言うのに、本隊から外れてこんなところを訪れているシグルド軍の指揮官がいた。名をアーダンと言う。
どこだ、と言うのは別に道に迷ったわけではなく、シグルドの特命で探し物をしているのだ。
なにやら、かつての偉人の技が記された秘伝の書がこのあたりに眠っているらしいと言う情報を元に、探索の任務を負っていた。
「ふぅ」
大きな息、一つ。
兵士に促されて休憩に入ったアーダンは、景色のいい南の崖の先端あたりの、手頃な岩の上に腰を降ろした。
彼はついさっきまで、シグルド軍随一の膂力を生かして、大きくて怪しげな岩をひっくり返していたのだ。その下の地面を掘り返す作業は兵士達に任せ、ここで一休みし始めた。
「ふぅー」
もう一度、息一つ。ただし今度は先ほどとは意味合いが異なる。
彼は重装歩兵を率いる指揮官である。言わば戦場の花形とも言える兵種の部隊を率いているのだが、しかし彼はリューベック城ではなく、こんな宝捜しをしている。基本的に暢気な性格の彼であるが、溜息の一つも出たくなるのも止むを得ないだろう。
……その時であった。
「……?」
アーダンの目の前の空間が僅かに歪み、そこに黒ずんだ“点”が現れた。
点は次第に大きくなって球となり、それからは上下へと伸び始めた。
「……!?」
下へと伸びた黒が地面に接触すると、上へ伸びていたのも止まり、次に次第に形を変え始めて人の形をした影となった。
「……!」
ただならぬ気配を感じたアーダンが腰掛けていた岩から立ち上がると、影は今度は声を発し始めた。
「抜刀無用……我は危害を加える者にあらず……」
当たり前だが、こんな登場の仕方をして危害を加えないと言われても信用できるものではない。基本的に人がいいアーダンだが、これにはさすがに腰に手を当てた。
「お前は誰だぁ」
「我が名はマンフロイ……闇を知り、闇を癒す者なり……将軍の心の傷を癒しに来た……」
闇を癒す者――
そう言う種類の職業なり役割なりについて、アーダンには心当たりは無かった。
だが、“マンフロイ”と名乗った影が怪しい存在と認識しながらも、アーダンは柄を握ってまでいながらも剣を抜く事はしなかった……その理由は、本人にも分からない。
「将軍の探し物はこれであるか……」
“マンフロイ”がそう言うと、影から――正確には人影の形をした黒い何か――から、古びた一冊の本が零れて地面に転がった。
アーダンには鑑定やら識別やらの技能は有していないが、紙の色合いや劣化具合を見ればそれが年代物の品であるのは間違いない。アーダンが岩から腰を上げて拾おうと手を伸ばした時、“マンフロイ”が滑るように動き、瞬時にアーダンの右後方に回った。
「!」
虚を突かれたとは言え、後をとられた事でアーダンの手が本の直前で止まる。殺気が漂って来ないので飛び退いたり剣を抜こうとはしない……と言うよりも、そうしようと言う気が何故か起こらなかった。
「将軍ほどの剛の者が、このような所での宝捜しで満たされてはいるまい……」
「……」
「シグルドでは、将軍を使いこなせない……」
「……」
アーダンは返答しなかった。
アーダンは、反論できなかった。
……過去に、似たような事があった。
アグストリア戦役の際、やはりアーダンの部隊は戦場に参加する事無く、ハイライン王国南部の海岸で砂浜を掻き回していた。シグルドの命令に間違いなく、確かにそこにお目当ての宝物はあったわけなのだが――。

アーダン率いる重装歩兵の部隊は、当然ながら行軍速度が遅い。シグルド軍は全体が整然と隊列を組んで進軍するような事はしないため、行軍速度は各部隊個別のそれに任されていた。よって重装歩兵隊は必ず置いて行かれる事になる。
ユグドラル大陸、いや過去・未来も含めて最強との呼び声もある常勝シグルド軍は、その余りに強すぎる陣容のために、これまで戦線が膠着した事がほとんど無かった。
つまり、アーダン率いる重装歩兵部隊が戦線に到着した頃には戦闘が終わっているのである。普通の軍隊であれば考えられないが、陣容と運用が極めて特殊であるシグルド軍の中にあっては、「足が遅い」と言うのは完全に致命傷である。
本来、戦場の花形であるはずの重装歩兵が、僚友から「強い・固い・遅い」と皮肉たっぷりに絶賛される事は普通の軍隊では有り得ない。それもこれも、全てはアーダンが属している軍隊が尋常でない故である。
だから、シグルドにしてみれば別に冷遇しているつもりはない。単に「不在でも勝てるし、来るまで待つほど暇ではない」から置いて行っているだけである。宝捜しをさせているのは、シグルドなりに使い勝手の無いアーダンを“有効利用”しようとしただけなのだ。戦闘に参戦させずに、特殊任務のみに専念させるのならば、いくら足が遅くとも問題は無いのだから――。

アーダン自身、足が遅い事実を気にはしていた。
妙齢の女性の指揮官も多いシグルド軍では、指揮官同士のロマンスも多いのだが、アーダンだけは恋に無縁の存在である。戦闘に参加すら出来ないのではそれは当然の結果か。
それどころか、今回のような特殊任務が無い場合は、行軍命令すら出されないで本城に放置されていた事もあった。最前線に立つシグルドにとってそんな後方の話には手が回らなかったのか、あるいは「どうせ間に合うわけでもなし」と命令を出す手間も面倒くさがったのか。
その真実が果たしてどちらなのかはアーダンには分からない。
ただ、一つだけ言える事がある。
それもこれも、全ては足が遅いから――。

「重装の者の足が鈍るのは自然の道理……将軍に非は無い……」
「……ん」
アーダンは、少しだけ救われたような気がした。
重装歩兵の足が遅いのは当たり前である筈なのに、シグルド軍の中ではそんな理由は通用してくれなかった。ただ「足が遅い」と言う事実だけが存在し、それが「足が遅い=使えない」と言う図式になっていた。
重装歩兵のアーダンにとって、重装歩兵である事が不幸の原因になっていた……と、心のどこかで思い込んでいた。
だがマンフロイの言葉によって、その心の何処かが軽くなった気分に囚われた。シグルド軍の中にも今のと同じ事を言ってくれる僚友も多くいたのだが、こんな風に鎖が断ち切られて自由になるような感覚は初めてのものだった。
「じゃぁ、俺は」
「されど……」
アーダンが救いを求めようと口を開いたが、マンフロイが機先を制した。
「しかしシグルドは反逆者……将軍に非は無くとも、彼奴に従えばまた同罪……将軍は逆賊の汚名を被った上に、使ってもくれぬシグルドと運命を共にするか……」
「あ、ぅ……」
アーダンは騎士である。騎士であるが、主を否定する発言を修正させねばならない
のに“マンフロイ”に対して言い返せなかった。
「しかし将軍が正しく使われないのは、使う者が正しくない故……将軍はグランベルの騎士……であるのに将軍はシグルドに追従してバーハラを攻め落とし、国王を討つ気であるか……
「……」
アーダンに、これと言った野心は無い。
幸福な家庭を築いて、小さな店でも開こうか――そんなささやかな夢を抱いている好人物である。
騎士として、シグルドのやろうとしている事に関心を持たないようにして来たが、実は何かどこかで騙されているのではないだろうか――そんな考えが頭を過ぎった。
アーダンのシグルドに対する忠誠心が薄れたからと言うわけでもないが、重装歩兵として正しく使ってくれていたら、こんな疑問は抱かなかったに違いない。
「正しい者こそが将軍を正しく使う……ならば、その逆も真なり……ゆめゆめ忘るるなかれ……」
アーダンの返答を待たずにそう言い残して、人影は縦に縮んで球となり、さらに小さくなり点となって終いに姿を消した。

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