グラン暦760年早春、ザクソン城――
「……守って戦うは利にならないと判明した。戦力が整い次第、こちらから攻勢をかける」
厳しい冬将軍は去ったとは言え、それでもグランベルからは遥か遠いシレジアである。本来であればここで討伐軍を迎え撃った方が得策ではある。実際にシグルドはその方針で臨んでいたのだが、この判断をさせたのは昨日の遅くに入った、この情報のためである。
「南部海岸線、敵小部隊上陸」
グランベルの実権を握ったアルヴィスは、今まで近衛軍指揮官と言う立場上まともに軍を率いたりしなかったので、その軍事的センスはシグルドにとっても未知であったが、どうやら慎重に事を進める性質らしく、戦力で優っているからと言って大勝負に出るつもりはないようである。優位性を生かして手の内を広げ、じわりじわりと追い詰める種の人間らしい。シグルドにとっては与し易くない相手であろう。
シレジアは半島の国である。よって出入り口は一箇所に限られるので防衛に適している……とは限らない。
グランベル発の場合、陸路を伝えば砂漠越えで訪れる困難な旅となるが、海路を使えばその所用日数は一割以下で済む。
今までグランベルがシレジアへの軍事行動を起こす際にこの海路を使わなかったのは、シレジア天馬騎士隊の存在があった。
何の行動も起こせず、せいぜい弓矢を放つ程度しかできない船上の軍と、大空を自由に駆け回る天馬――海上での戦いにおいてこの勝負の結果は完全に見えている。
この理由で輸送船を使っての上陸作戦が使えなかったので、今までわざわざ遠回りして陸路を使用していたのである。
だが、シレジア内戦によって大幅に減退した天馬騎士隊はその哨戒能力を失い、小部隊とは言え上陸を防げなかった。小部隊を送り込んで来たのは被害を被った場合を想定してのものであり、言わば本格的な上陸作戦の試験的な作戦であるのだろう。
シグルド軍が現在ザクソン城に拠っているのは、東の戦線と睨み合いを続けるためのものであり、その後背に兵力を送り込まれるとあればたまったものではない。だが東にいるランゴバルト以下ドズル公家軍を放っておいて南に気を払う事も出来ない。
「……まず戦線の回復を優先する。上陸した敵部隊を撃破、並行して混乱する海岸沿いの村々を鎮撫。その間、残りの戦力をもって国境のドズル軍を牽制する。ただし交戦は無用」
上陸した敵軍を排除しても、根本的な解決にはならない。
グランベル側にしてみれば「上陸可能」と分かっただけで大収穫であり、今後はランゴバルト率いるドズル軍と連携してシレジア侵入の機を窺う、と言う新たに確立した基本方針に沿って事を進めれば安定である。
一方のシグルド軍は戦力を一点に集中する事も、分散して多チャンネルで戦う事も出来る、極めて柔軟な軍団ではある。しかしだからと言って戦力の分散が望むところだと言うわけではない。やはり分散した分だけ被害は大きく、生産力においてグランベルと雲泥の差があるシグルド軍は消耗戦だけは避けたいところである。
上陸した小部隊を蹴散らしても得られるのは少しばかりの時間であり、戦略的に不利な状況は変わらない。どちらにしてもいずれは状況打破のために動かねばならない。
それにあたってシグルドに必要なのは、その少しばかりの時間であった。
昨年、義弟にして盟友キュアンと交わした約束「夏至、フィノーラで落ち合う」に従うならば、あと数十日の余裕がある。その間をもって戦力増強を終わらせるつもりであった。
東部戦線のドズル軍との交戦を禁じたのも、それまではむやみに戦線を拡大したくないと言う目論見があったのだが、さらに翌日に届いた報を受け取ったシグルドは、それを自ら撤回する事となった。
「……父上が?」
東部のドズル軍域内で、シアルフィ公バイロンが単騎こちらに向かっていると言うのである。
イザークでの内戦で敗れたバイロンは潜伏を続けていたが、しかしついにドズル軍に捕らえられたと言う噂は届いている。だがどうやら脱出に成功し、何とか合流しようと西へ西へと駆けているらしい。
「……」
無条件で救出に向かう事は出来ない。
いかに聖剣ティルフィングを所持しようとも、個人で国内屈指の手練であろうとも、バイロンがドズル軍の追撃を振り切り、国境を突破してザクソン城に辿り着くのは恐らく不可能な話だろう。
実父の命を救うのであれば、基本方針を崩して東部戦線と戦端を開かねばならない。
かと言って、当初の戦略通りに進めるのであれば、父親を見殺しにする必要がある。

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