「……チェックメイトだ」
 終が告げられた。
 勝敗は決していた。
 だが、チェックメイトはキングが奪われた状態ではない。詰みの状態にあるだけであって、キングを討つにはあと一手が必要なのに代わりはない。つまり、アルヴィスに剣を振り下ろすなり突き通すなりしない限り、完全に決着がつくわけではない。
 シグルドは、盤面を確認したつもりであった。
 状況を覆せるような一手を打てる者は周囲にいない――その筈であった。
 その瞬間、シグルド周囲の世界が金色に染まった。

「何だ、あの金色の光は……!?」
 その瞬間、多くの者がシグルドとアルヴィスがいる地点から発せられた金色の光を目撃した。この世のものと思えない荘厳さに、切り結んでいた両軍兵士も時間の流れが停止したかのように呆然とその光に目を奪われていた。
「あれは、竜……!?」
 トラキアの飛竜から翼を無くして体躯を数倍に長くしたような、竜のようだが見たこともない生物が金色の光の中で輝きながら立ち登っていた。
「……」
「……」
 グランベル軍兵士もシグルド軍兵士も、つい今の今までお互いが己の運命を賭け合っていた事を忘れて、その光に見入っていた。ファラフレイムが発動したときの紅い光に見向きもしなかったが、今度のこれは別格の何かがあった。色が違うだけではない、特別な説得力めいたものが感じられた。
 あれが何なのか、記憶にはない。
 だが、心当たりが無いからこそ、想像がついた。
 この世における、知りえる中で最強の力――光魔法ナーガ。
 かつて聖者ヘイムが用い、暗黒神ロプトウスとその邪悪なる帝国を倒した最強の力である。
 そして聖戦の指導者でもあった聖者ヘイムはグランベル王国の王となり、ユグドラル大陸に君臨した。だがバーハラ王家はその象徴性を重視して、俗世に干渉することはなかった。バーハラ王家の人間自体は、親政を行い外征を行う。しかし、その際に頂点に立つ力を用いることはしなかった。
 これは使わないことで光魔法ナーガの価値を高めていく政略である。これによって単なる聖遺物の筆頭から、さらに一線を画した神聖不可侵なものという印象を植え付けることに成功していた。
 これが用いられたのである。バーハラで戦う両軍兵士に与えた衝撃は大どころではなかった。
 例外がいるとすれば、その頂点、つまり大陸の覇者を目指したシグルドぐらいなのだが、彼は別の理由で平常ではなかった。
 アルヴィスのファラフレイムですら耐え切ったシグルドである。いくらナーガと言えども一撃のみでは致命傷には至らない。実際にティルフィングから発せられた白い光が所有者を包み、ナーガを凌ぎきった。
 そんなシグルドが、ナーガが用いられた事自体には狼狽したりしなかった。問題はその出所にあった。
 光魔法ナーガは、聖者ヘイムの直系、つまりバーハラ王家の者のみが使用可である。だが国王アズムールは病に倒れて起き上がることもままならなく、ナーガを使うことなど不可能である。王太子だったクルトは、イザーク遠征時に暗殺された。その骸が起き上がってナーガの書を手に取ったという線などあるはずもない。
 よって、シグルドを屠ろうと光魔法ナーガを唱えた者は一人しか考えられない――

「……ディア、ド、ラ……?」
 ナーガの発生と共に吹き上げられた衝撃に耐えながら、シグルドは金色の光の向こうにかつての妻の姿を見つけた。
 珍しく困惑の表情が浮かんだシグルドの問いに、ディアドラは俯いて頭を振った。何も聞かないでほしい――そんなメッセージが込められているように見えた。
 クルトの落胤で、ユグドラルの覇権を握る聖杯となる女性。
 ディアドラを妻としたのは、彼女が女性であり、結婚して子が生まれれば新王の父親になることができる――と言う父バイロンの青写真であった。事の起こりの前に持ち込まれた数々の縁談をことごとく父が蹴ったのも、野望の骨子として独身でいなければならなかったからだ。
 悪く言えばディアドラは覇業のための“道具”であった。
 ディアドラが美人であったのは「ありがたい」の一言だけであって、たとえ正視できないほど醜かろうとも妻にしたのは間違い無い。つまり、ディアドラが絶世の美女シギュンの面影を色濃く引いていても、シグルドには特に関係が無い事であった。ディアドラを抱くのはあくまで生まれてくる子が目当てであって、含むものがあるとすれば男性の欲望によるものぐらいだ。
 その間のディアドラは、意思の見えない女性であった。状況を呪うでもなく誰かを憎むでもなく、ただ打ちひしがれる――そんな印象だった。
 気を許していたわけでないにしても、そんなディアドラに攻撃されるなど、シグルドは思いもよらなかったのだろう。そのほんの僅かな心の隙のために、我に返るまでの時間でアルヴィスに遅れをとった。僅かな時差で距離をあけて難を逃れたアルヴィスは、すかさずファラフレイムをシグルドに叩き込んだ。
「……!」
 シグルドはこれをも耐え凌ぎきったが、周囲に散らばる近衛兵が戻って来るまでの時間稼ぎでもあったアルヴィスの意図までは防ぎようがなかった。アルヴィスと、その向こうに佇むディアドラの姿は、生成されなおした鎧の壁によってかき消された。

 ディアドラは、何を思ってシグルドに終を告げたのだろうか。
 本人の意思に関わらず、ディアドラは運命に流されて来た。
 ユグドラルの覇者となれる鍵――自分がそれだけの“意味”を背負って生を受けたことを知らぬまま育ったのだ、それに抗う勇気など持ち合わせていないのも当然である。 故郷である里の者に忌避され続け、シグルドに組み伏せられ――黙って流されていた。その方が楽なのもあるし、運命を呪うのならば自分をクルト王子の種として生み落とした実母シギュンを憎まねばならないからだ。
 そして、自分の居場所――クルトの子としてではない、“自分”の存在価値を追い求めるディアドラが、最後に行き着いた場所が同腹の兄アルヴィスのところだった。
 安住の地ではあったが、実兄を愛してしまったことでディアドラの精神核は剥き出しになってしまった。しかもただの血族ではなく、暗黒神を復活させる半陽と半陰の間柄である。巫女であるディアドラは自分がロプトウス復活の鍵であると知っていた。だから、懸命に自分の想いを断ち切ろうとした。
 だが、居場所を求める心の闇はアルヴィスへの想いを捨て去ることも、その元から離れる勇気も湧かせなかった。日増しに肥大化するアルヴィスを想う気持ちは、全ての禁忌を破りかねなかった。
 そしてディアドラは崩壊寸前の精神を救済すべく、ロプトの秘術“ヴィーヴル”を自らにかけた。対象者の記憶を奪う、巫女にのみ使用が許されている禁呪である。全ては、アルヴィスを忘れるために――。
 だが巫女であるディアドラは並々ならぬ精神の強さを持っていたために、記憶だけを失い、そうではない部分であるアルヴィスへの想いだが残ってしまった。ましてや“色”で物事を見ることができるディアドラでは、表面上の記憶を消したとて魂に刻んだ情報がある限り忘れきれなかった。
 このままでは駄目――アルヴィスへの想いにさい悩まれる日々に耐え切れず、その一方でアルヴィスを想うことを捨てられない。ディアドラは、自らの意志で自分の運命を選択できなくなっていた。
 世界を滅ぼしかねない愛は、決して犯してはならない禁忌か、はたまたそれだけ尊いものなのか――完全な答など出るわけがなかった。ディアドラは呼吸をする数だけ決断しようとした。そして理性は前者、“色”は後者と意見が分かれた。
 アルヴィスは、相談に乗らなかった。
 もしもアルヴィスにどちらか決め付けられたら、ディアドラは素直にそれに従っただろうし、救われただろう。だが彼はあくまでディアドラの意志を尊重する態度を取り続けた。運命に流され続けてきた妹を不憫に思って自由な選択を与えたのだが、それが最も過酷な仕打ちであるとは気付かなかった。
 
年が変わるとディアドラはアルヴィスと結婚したが、それはたまたまアルヴィスを求める想いが優勢の時に、相手が応えてくれた結果である。自分が出した回答ではなく、これも時運に流されて行き着いただけなのだ。一つの既成事実ができ、秤が傾いたことで幾分かは楽になったが、葛藤がなくなったわけではない。
 ディアドラは、次のグランベル王を産む義務がある。それがロプトウス復活の扉であると分かっていても、拒否はできない。防ごうと思えば子を作らないかアルヴィス以外の男を選べば良いのだが、ディアドラはそんな極端な理論を持ち出せるような性格ではない。結局は新たな袋小路に迷い込んだだけなのだ。
 そして、今度は選択肢がまるでない。
 結婚したのだから、今さらアルヴィスを拒否することは出来ない。ましてや先に相手を求めたのはディアドラの方である。アルヴィスに禁忌を覚悟させておきながら自分が逃げるなど出来ようもなかった。
 シグルドの元にいたあの頃と、似ていた。
 どうにも出来ない自分を、どこかへ連れ去ってくれる事を願う日々――。
 ……そしてディアドラは、バーハラに居る自分をどうにかしてくれそうな人物として、最後にまたシグルドを求めた。
 かつて逃げ出してきた相手に、“今”に終を告げる事を願ったのである。何とも皮肉なことであるが、今のディアドラにとって居場所の有無よりもアルヴィスへの葛藤をどうにかしたかったのだ。
 前夜、アルヴィスに凱旋式に出席することを望んだのも、波に攫われやすい位置に立とうと思っての事だった。
 自分勝手なのではない。世界の運命をその小さな両肩に背負う事が、どれだけの重圧であるか――恐らく、アルヴィスもシグルドも量りかねるだろう。押し潰されずに立っているだけでも、ディアドラは強すぎる精神を持っていると言っていい。ただ、歩けないだけだ。
 ナーガの書を持ち出したのは、自分の支えとなるものを欲した結果である。額に身に付けているサークレットは精霊の森の巫女であった頃の物で、今の環境の支えにはならなかった。世界を照らすバーハラ王家でもある事で悩むディアドラには、それ所縁の品がどうしても手元に持っておきたかったのだ。運命に流され続けるディアドラには、その場その場においてしがみつける丸太が必要不可欠だったのだ。
 だが、そのナーガの書は、シグルドを打ち倒すために使用した。
 シグルドがアルヴィスに剣を突きつけた時に、反射的に唱えてしまった。
 理性でアルヴィスを拒否し、闇でアルヴィスが倒されることを望んだディアドラだが、最後に勝ったのはそれでもなおアルヴィスを想う心だった。
 その事実で吹っ切れることはほとんどなかった。思考が可能な状態に戻ると、強烈な後悔が襲った。シグルドを愛しいと思った事は無いが、あらゆる意味で自分の“運命の人”だったシグルドに終を告げてしまったのだから。
 ディアドラにとって、シグルドがどう言う人物なのか、最後まで分からなかった。喜怒哀楽をはじめとした感情の起伏は、全くと言っていいほど表に出さなかった。識域下を探ろうにも、シグルドの“色”はどうやっても見えなかった。“色”とは人が身体から発するオーラ、魂魄の色である。建前に隠された本音よりもさらに奥深い感情まで露わにしているものなのであるが、何故かシグルドの“色”は暗闇に隠されたかのように判別不能なものであった。
 斃れてしまった今、シグルドがどう思ってくれていたのか知る術は無い。だからこそ、シグルドに希望を求めてその不明な部分に“可能性”を見出そうとしたディアドラは、自分の手で運命の扉を閉じてしまったことに後悔を覚えてしまうのだ。
 だから、シグルドの視線の問いに何も答えなかった。何故なのか自分ですら分からないのだから。

 一方でこのバーハラの地では、ディアドラの嘆きなど誰も気付いてくれぬままに事態が進んだ。
 ディアドラががナーガを用いて戦場に姿を現した――たったそれだけで勝敗は決せられた。
 まず、シグルド軍側のグランベル人兵士が一斉に崩れた。もともとシグルド軍は「君側の奸を討つ」ことを掲げてグランベル中枢に攻め込んでいる。なのに蔑ろにされている筈の当のバーハラ王家がシグルドを攻撃したのである、しかもナーガを持ち出しての攻撃である。アピールの度合いから言えばシグルド討伐の「勅命」に等しく「神罰」とも受け取れた。
 これによってシグルド軍側のグランベル人の指揮官や兵士の士気は完全にゼロとなった。それどころかシグルドに反旗を翻して同胞を攻撃し始める部隊まで現れた。
 最強の軍隊であるシグルド軍と言えども一枚岩ではない。全員がシグルドと感覚を共有しているわけではないため、シグルドに対し不満を持っている部隊指揮官も存在したのだ。今まではシグルドへの圧倒的な恐怖によって内に秘められていたが、それよりも強大なナーガの登場によって解放されてしまったのだ。
 譜代の指揮官達の乱れようを見て、他の国の部隊も独自の動きを見せ始めた。もともとナーガはグランベル以外の人間にも影響力を持ち合わせていたが、それ以上に戦線が崩壊し始めた事が他国軍の士気の急低下と路線変更を決断させた。
 シグルドに乗ってアルヴィスを倒さない限り祖国の未来は無い。だが、勝ち目が無くなった場合は運命を共には出来ない。勝敗が決したと同時に、彼らには祖国を守り抜くための新たな戦いが始まっているのだ。
 それが分かっている優秀な指揮官から先に抜けていくので、戦線の崩壊は加速度を増した。ナーガの登場で士気が最高潮に上昇したグランベル軍の包囲網の中、大陸最強の軍は砂の城のように崩れていった。そして包囲網はついにシグルド個人を捉え、剣と鎧の雪崩の中に飲み込んでしまった。
 たった一発放たれただけのナーガには、それだけの“宣伝効果”があった。このユグドラルの政治体制が十二聖戦士を基本に置いたものである以上、その頂点が姿を現した時点で皆は平伏するしかなかったのだ――ディアドラの思いとは無関係に。

 グランベル王国史上最大の敵と言えたシグルドが斃れ、彼が率いた最強の軍団も消え失せた。
 このバーハラの戦いをもって、王太子クルト暗殺に端を発した“大内戦”は終結する。
 バーハラ王家の実質的当主であるクルト・フリージ公レプトール・ドズル公ランゴバルト・ユングヴィ公リング、そして反逆者であるシアルフィ公バイロン、さらに叛乱軍に参加したエッダ公クロードの戦死も確認された。つまり各王公家当主のうち、ヴェルトマー公アルヴィス唯一人だけを除いて全員が落命したのである、史上空前の大被害だ。
 他にも将来性豊かな公子や有能な将軍が数多く世を去り、グランベル王国が被った人的被害は想像すらできないものとなった。
 広大な領土を統治し続けるのは、それだけ多くの人材が必要である。その上、建国して以来、常に周辺諸国を圧迫して君臨し続けて来たグランベルが隙を見せると言うことは、ユグドラル大陸の更なる混乱を招く事に繋がる。
 討ち取ったのはあくまでシグルド率いる叛乱軍だけであって、彼に協力した諸国は外敵としてそのまま残っている。最大の危機は去ったかもしれないが、安堵できない状況に何ら変わりはない。
 にも関わらず、グランベルにはそれに対処できるだけの人材が残っていない。政治・軍事・外交……これからあらゆる面で人材が不足するのは目に見えている。
 よって、人々はアルヴィスに大車輪の活躍を期待を寄せることになる。
 彼個人の能力の発揮と、以前の“強いグランベル”を取り戻すための新たなシステムの誕生を――

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