一つの物語は終わった。
 “狂公子”シグルドの、極めて奇異で波乱に満ちた生涯は終幕を迎えた。
 彼は記録上は反逆者でしかなかったが、記憶の中ではグランベル王国史上、最もファンタスティックな人物と言えた。ユグドラル中の吟遊詩人は、彼の最後の三年間を歌うのだろう。グランベルに弓を引いた当代最高峰の名将、仇敵アルヴィスと同じ女性を妻に迎えた偶然……材料には事欠かない。
 彼の物語は、彼自身の死によって完結した。
 詩人は他の登場人物や舞台の事後など歌ったりはしない。だが、物語の範囲外でも人は呼吸して動いているのである。

――リューベック城。
「……事実、だ」
 レヴィンが、最後の杭を打った。
「そんな……」
 嘘である可能性に賭けたオイフェ少年の願いは、完全に崩壊した。
 オイフェにとって、シグルドが斃れる事もその軍が敗れる事も、どちらも想像した事がなかった。
 感情と言う温度差があるため手段として納得できない部分もあったが、シグルドが完成させた軍は全てが理にかなうものだと信じていた。グランベル本国に攻め込めばこれまでよりさらに激しい戦いが待っていることぐらいは承知していたが、それでもなお、あの軍の強さは揺るいだりしないという確証があった。
「色々と事情があったが、負けは負けだ。シグルドは死んだ、軍は跡形もない」
「……」
 戦友の死を、淡々と語るレヴィン。オイフェは、その発声ほど簡単に受け止める事は出来なかった。
 シレジア内戦の頃を境に、レヴィンは冷淡になったような気がする。
 自国が内戦に突入すれば、王太子はさすがに放蕩しているわけにはいかなくなる。だから人が変わるのはあってしかるべきではあるのだが、レヴィンのそれは度を過ぎているようにオイフェは感じた。
「さて、俺はシレジアへ帰るが……お前はどうする?」
「……」
 レヴィンの言う“お前”とは、オイフェ個人を指しているのではない。
 このリューベック城でオイフェに残されたもの――シグルドの忘れ形見であるセリスと、兵士達の家族のことである。
 グランベル本国へ進軍する際、さすがに非戦闘員を連れて砂漠を渡るのは無理がありすぎた。この時、セリスが体調を崩していたこともあってこの城に残されていた。オイフェ少年は留守を任される格好で同じくリューベック城に留まっている。
「俺は明日に発つ。それまでに決めておいてくれ」
「あ……!」
 一方的に話を打ち切られ。引き戻そうと声を挙げた時にはレヴィンは踵を返した後で、声が聞こえないかのように立ち去ってしまった。

 オイフェ私室――
 期限は、明日の朝まで。それまでに出した結論が自分やセリスの運命の扉となる。
「どうすれば良いのだろう……」
 戦うか降伏するか、あるいはその他の選択肢か……どれを選ぶのが最良なのか、オイフェには全く分からなかった。
 自分で決断する事が、ここまで難しいとは思わなかった。
 “ティータイム”に同席して、政治や軍事について多くを学んだとばかり思っていた。だが、他人の話を理解できるようになるのと、自分でそう言う話をする事がここまで開きがあったとは。
「戦う……」
 出来うる事なら、シグルドの遺志を継いで戦いの継続を選びたい。だが、シグルドでさえ勝てなかった相手に、自分で勝てる気などするはずがない。
「降伏……」
 主であるシグルドが斃れたとあっては、降伏もやむを得ない。しかし、降伏して命が助かる保証などどこにもない。託されたセリスが処刑されては元も子もない。
「逃げる……」
 グランベル軍の追撃をかわし、どこかに潜伏して時を待つ――セリスが成人するまで。ただ、あと15年は隠れなければならないが、それだけの安住の地が果たしてどこにあるのだろうか。
「シレジアなら……」
 シグルド軍に参加した諸勢力のうち、まともな戦力が残っているのはシレジアのみである。あと強いて挙げるならばレンスターだが、キュアンの独断が否めない上に遠すぎる。よって匿ってもらうならばシレジアしかない。15年間逃げ続けるためには大規模の支援が必要不可欠である。シレジアならば、きっとセリスを守り通してくれるに違いない。何しろ、同盟者なのだから――。
 オイフェが力強く頷いた時、ふと何かが聞こえた。
――同盟者ってのはお荷物を背負う義理は無いんだぜ?
「!?」
 そんな声が聞こえたような気がして、オイフェは驚いて辺りを見回した。だがここはオイフェの私室である、考え事をするにあたって鍵をかけておいたので誰かに侵入されるはずも無い。ベッドと、テーブルとサイドテーブル。仕事の山が積んだ机、椅子が数脚。壁際の家具を除けば、それぐらいしか見当たるものは無い。
 その声や口調に聞き覚えがあった。それよりもむしろ、そんな発言を聞くシチュエーションがオイフェの記憶に深く刻み込まれていた。
 シアルフィ家が誇る名軍師スサールの孫であるオイフェは、もともとから将来を嘱望された聡明な少年であったが、その成長を促したのは独力ではなかった。シグルドの側に常に控える事で政治や軍事面で多くの物事を学んだ経験が、オイフェの財産となっている。
 シグルドは、オイフェに物を教えると言う事はしなかった。若干の質問に対して気が向けば回答することはあったが、それを考慮に入れたとしても講師として何かしたほどではない。代わりに、より多くを学べるような最高の環境をオイフェに用意してやった。
「よっ、と……」
 オイフェが、サイドテーブルを持ち上げて壁際に動かした。次いで椅子も同様に一脚運び、サイドテーブルを机に見立てて椅子に座る。そこから少し左を向くと、部屋中央のテーブルが目に入る。
「……」
 そのまま意識を集中させると、四脚の椅子を侍らせたテーブルを囲む、懐かしい光景が浮かんできた。
 柔らかな光が差し込む昼下がり。テーブルの上に置かれた、四人分のティーセット。一見すればどこにでもありそうな、優雅なティータイム――
「同盟者ってのはお荷物を背負う義理はないんだぜ?」
「辞書を引けば――共通の目的を達成するため、同じ行動をとることを約束すること――とは書いてありますが、そうはならないのが世の常と言うものです」
「致し方ありませんわ、同盟とは相手の力を当てにして結ぶものですから、その力が失われれば同盟を継続する理由がなくなりますもの」
「……また随分と辛辣な意見だ。この卓も私が勝利し続ける間のみと言うわけか」
「当然ですわ! 手の平返したと罵られるのは筋が違います。我が聖十字を託したのに敗れるようなことがあれば、むしろ契約不履行で訴え出たいぐらいですわ!」
「まぁまぁ、それはシグルド卿が最も承知しているでしょう。我々が現在のところ一枚岩でいられるのはシグルド卿の軍事的勝利を拠り所にしたものなのは明白です。それが失われれば崩壊するのもやむを得ません」
「……同盟とは所詮は契約に過ぎない。貴公らが私との盟を何があっても堅持しなければならない義務はどこにもない。実情が契約内容にそぐわない様になれば破棄するのも当然の権利だ。無論、それは私からにとっても同様ではあるが」
「よっく存じておりますわ。だから貴方に見捨てられないようにと、どんなに不本意でもこの私自ら前線に出張っているのですわ」
「まぁな。別に俺たちゃ、仲良しさんだから毎日お茶しているわけでもないんだし」
 ……オイフェの記憶に、この会話がなされた痕跡は無い。
 これは、あくまでオイフェの想像上の会話に過ぎない。“ティータイム”に同席する事で培ってきた才能を完全に稼動させるために、自分ではなくこの四人の言葉を借りて思考しているのだ。
 シレジアが流浪中のシグルドを引き込んで内乱鎮圧の切り札にしたのは、その軍事力を当て込んだからである。この時、シレジアは安住の地を用意し、シグルドが軍事力を代価として支払った格好になる。そしてシレジア平定し、シグルドがグランベル本国に攻め入る際にシレジアが全面協力したのは、シレジアが領土の安堵といくらかのプラスアルファをシグルドに売ってもらうためである。
 だが今はどうか。シグルドは斃れ、忘れ形見のセリスは身元引受人を捜している状況である。一方でシレジアは国を挙げてグランベルに敵対してしまい、危急存亡の時にある。シレジアは必死の生き残り工作に出たいところだろう。つまり、シレジアにセリスを匿ってもらうためには、代価としてシレジアの独立を守りきるだけの軍事力を支払わなければならないのだ。無論、そんなものは支払う能力など今のシグルド軍には存在しない。
 それどころか、セリスの首でグランベルとの和平が買えると目算が立てば、おそらく昨日までの味方だったシレジアは躊躇しないだろう。オイフェの想像上のラケシスがそれは手の平を返すのではないと主張したが、彼女の言葉通りそれはシグルド軍が支払うはずの軍事力が失われると言う契約不履行に過ぎないのだ。
「ありがとうございました……!」
 オイフェは立ち上がり、姿の無い四名の教師に対し深々と頭を下げた。
 シレジアを頼るのは回避――これは実際にはオイフェが自分の力で出した結論なのだが、オイフェが個人で考えたものに従ったら、オイフェはセリスと共に殺されていただろう。空想上の会話で思考法のひとつに過ぎないとは言え、もう決して揃う事の無い四人が啓示を与えてくれたのは紛れも無い事実、とオイフェの内が認めたからだ。

 翌朝――
「そうか、分かった。兵士達の家族は俺が責任持って預かろう」
 オイフェは、レヴィンに結論を伝えた。シグルド軍兵士を夫や父に持つシレジア人は引き受けてもらいたい――その一項だけだった。
「それで、お前は?」
 この質問にオイフェだけでなく、セリスや部隊長クラスの家族が含まれているのは明白である。彼らが生きるか死ぬか、オイフェはその運命を握っている。
 このリューベック城に踏みとどまって交戦を選択しても、勝てる相手ではない。
 落ち延びるにしても、シレジア王国は頼る事が出来ない。
 一見して袋小路に思える舵取りだったが、オイフェは四人の師に脱出口を導いてもらっていた。
「イザークへ――」
 イザーク王国。今はその名前は過去のものとなっている。
 グランベル王国の東方遠征の際に、国王や神剣バルムンクと共に失われてしまった。
 だが、その忘れ形見であるシャナン王子が亡命先のヴェルダンにおいてシグルドに保護され、グランベルの追っ手から逃げ続けている。シャナンを匿っている事実は、イザークに対し極めて高い値で売りつけることが可能である。バイロンがイザーク人に匿われていたことがあったが、それを手付けにしてもなおセリスの安全は買うことが出来るはずである。
 イザークは、滅ぼされるべき国をもう有していない。その何の力も無い部分が逆に信用足りえるものがあった。セリスを売り飛ばしてまで守るべきものが何も存在していないのである。強いて挙げるとするならばシャナンの命なのだが、セリスを差し出したとて3年前からお尋ね者であるシャナンの命が保証される筈も無い。無力であるイザーク残党などまとめて滅ぼせる相手だからだ。
 シャナン本人はセリス受け入れを快く引き受けた。恩返しをしたいと言うのもあるだろうし、何よりまだ“ティータイム”ほど頭が回転する年齢ではない。オイフェやセリスと仲がいいのは大きな財産だ。
 イザークはグランベル本国から遠く離れている上に、既にドズル家が統治するグランベル領なので、今さら増強される可能性も低い。さらに遊牧民族であるイザーク人は頻繁に居を移すのでセリスの存在を紛れ込ませ易い。国家規模のではないので盲点になっていたが、隠匿場所としてこれほど条件の揃った地はそうそう無い。
「分かった、達者でな」
「レヴィン様もフュリー様も、どうかお元気で」
 シグルド軍とシレジア王国が袂を分かった瞬間だが、交わされた言葉は個人の別れのようなものだった。
 これで良かったのだ。
 同じ同盟解消でも、信を裏切っていない円満な別れならば、いつの日かセリスが力をつけた時にシレジアと盟を結ぶ事が出来るから。

 “狂公子”シグルドは斃れ、一応の幕は下りた。
 だが下界の騒動など気に留めず、太陽は今日も無為に昇り、そして明日も昇るだろう。
 バーハラの戦いで多くの人が命を落としても、世界全体から見れば何ら変わらないのかもしれない。
 シグルドはこの世を去っても、その血と運命を受け継いだセリスが代わりに残された。共に戦った指揮官たちの忘れ形見も、同じようにこの世界のどこかで胎動しているに違いない。
 世界を揺るがしたシグルドの運命に終は告げられても、世界そのものが終わりはしない。時に争っていても、人が人の営みを続けている限り、世界はここにあり続ける。それと同じように、シグルドの元に国家の枠を超えて一つとなれたあの頃も、必ず存在し続けるに違いない。
 今、シグルドという名の太陽は没した。世界を照らしていた光は失われたのだ。だが、必ずやいつの日か、その太陽は名を変えて昇るだろう――名を、セリスと言う。

(第五章 完)
(反・聖戦の系譜 第一部 完)