「人間に手が二つあるのは、握手をした時にもう一つの手で武器を隠し持つためだ」
 そんな言葉があるが、ともかく戦争は終わり握手がなされた。
 ヴェルトマー公爵家領内でフリージ軍が敗れ、グランベル王国はついにシグルド軍との講和に踏み切った。君側の奸を討つのが名目であるシグルド軍側にしても、政敵であるレプトール・ランゴバルト両公爵を滅ぼした後ではこれ以上に戦争する理由などなかった。
 ……でありながら、今回の講和に安堵する者は少なかった。

 ヴェルトマー城、夜明け前――
 戦争は、本当に終わったのだろうか。
 これからシグルド軍は王都バーハラに向かう。それをバーハラの全軍が出迎える。講和した事で罪が無効化されたのだから、シグルドのバーハラ行きは凱旋となる。三年がかりでヴェルダン・アグストリア・シレジアを転戦したシグルド軍の、晴れの凱旋式となる。この日は、国を挙げての祝いとなるのであろう……。

「……殊更に言うまでもないが、この凱旋式はアルヴィスが仕掛けた罠だ」
 シグルドのこの一言に色めき立つ者は、この軍にはいない。
 政治力に優れた者はシグルドとアルヴィスとは絶対に相容れない存在だと知り、戦略を熟知する者はシグルド軍を撃破するなら今しか無いと気付き、謀略に秀でた者はこの講和を最初から信用しておらず、そのどの能力も無い者は指揮官としての経験が鳥肌を立てさせていた。
「……挙行を承知したのは、アルヴィスに次の罠を張らせないためだ。グランベル中枢をバーハラから脱出させては戦術的勝利を挙げても意味が無い。講和を拒否すれば別の手を打つ時間を与える事になるだろうが、罠に飛び込んで来れば誰でも勝算に奢る」
 わざわざ危険な事をしなくても、と講和に否定的な指揮官も少なからずいた。皆、自分達の武勇とそれが集うシグルド軍の強さを知っている。正面からの決戦である限り敗れる可能性は皆無であるのに、と。
 しかし、今度こそ本当のボトムラインを敷くグランベル軍の抵抗は激しいものになるだろう、少なくともかなりの時間の浪費を強いられる事は間違いが無い。そしてもしもアルヴィスやグランベル中枢が往生際の悪い性格だった場合、戦争はバーハラでは終わらなくなる。
 シグルド軍は最強の軍隊であるが、この軍は常にこれが全軍である。シグルドは各局地戦の戦況を見極めて軍を分けられるが、所詮はひっくるめて一個軍団でしかない。広大なグランベル王国全土を駆け回るにはいくらなんでも絶対数が少な過ぎる。一個軍団では展開できる範囲に限りがあるのだ。しかも、シグルド軍はかつて征服したヴェルダンやアグストリアをもはや統括していない。シレジアに追い落とされたと同時にどちらも孤立してグランベルに奪われてしまっている。グランベル王国の領土にこの二ヶ国を含めるとしたならば、その広さは途方も無いものとなってしまう。
 また、シグルド軍の士気にも多大な影響がある。
 多国籍であるシグルド軍においては各部隊の戦う理由は様々なれど、共通しているのはバーハラで全てが終わると信じている点だ。もしもバーハラを陥としても戦争が終わらなければどうだろうか。大陸の半分の面積を用いた泥沼の掃討戦に、誰が乗り気になれるのだろうか。シグルド軍が一枚岩でいられるのは、グランベル王国を打倒しなければ自分の祖国は救えない、と言う共通した危機感があるからだ。たとえ余力を残したままであったとしても王都を失わさせれば、皆からは危機感が消え失せてしまうだろう。そうなれば祖国に戻って再建に努めたいと言い出す者も現れるだろう。
 つまり、シグルド軍にとってもグランベル王都バーハラはボトムラインなのである。最終目標に辿り着いてしまえば、そこで全てが完結してしまわなければならない。新たな目標を与えるのに掃討戦では燃え上がるものなど欠片も無い。だからこそシグルドは、少々の危険を冒してでも懐に飛び込んで脱出の機会を失わせる事を選択したのである。
「……これが当日の初期配置図になる」
 シグルドは床に大きく広げられた地図を指した。バーハラ〜ヴェルトマー間の地形が事細かに記されている。
「……見て分かる通り、我々の動ける範囲は限られている」
 形式上は凱旋式を挙行する事になっているのだから、自由に軍を展開する事は出来ない。アルヴィスがよこした要綱によれば、作法通りにバーハラ全軍で凱旋軍を通す花道を作るようになっている。裏を返せば、完全に包囲する格好になる。しかも縦横無尽の展開力と行動力が持ち味であるシグルド軍には、この花道は幅が狭すぎる。確かに凱旋式で更新するだけならこれで問題は無いのだが、ここから先端を開くには行動に制限が出てくる事は間違いが無い。
「……今度の包囲網はシャガール王の反乱の際とは精密さにおいて程度が異なる。我々は今までで最も過酷な戦いを強いられる事になるだろう……だが、私はこの軍を、諸君と諸君の率いる全ての兵を信頼している」
 シグルドが何かを信じると言う事実に、それを口にした事実に、各指揮官は少なからず驚いた。
 シグルドは別に猜疑心が強いわけではなく、信用と信頼の違いを知っているだけである。用いれるのか頼れるのか――常に上位にいるシグルドにとって、信の一字は常に前者を意味していた。だからこそ利害を巧く操ってこんな多国籍軍を作り上げられたのだ。だが、シグルドは皆の前で初めて後者を使ったのだ。
「……長い戦いだったが、これで全てが終わる。諸君と諸君の兵の祖国の明日は、この一戦にかかっている。ユグドラルの未来は諸君を信頼している。同様に諸君もまたユグドラルの未来を信頼せよ」
 最後の軍議は今までで最も張りの良い敬礼で締められた。

「全ての騎士に剣と装甲を研磨しておくように伝達。聖十字の旗を白銀の輝きの中に翻させますわ!」
「貴族達のエゴで巻き込んだ戦争だが、ま、泣いても笑ってもこれが最後だ、もう一踏ん張り頼むぞ」
「我々癒し手は不眠不休の働きとなりましょう。今のうちに休息を取っておくように伝えなさい」
「もし、にぃ……アルヴィス卿を見つけたら、僕……いや私に伝えて欲しい」
 知らぬ間に朝を向かえていた。
 幕舎から出た各指揮官が、歩きながら各々の副官に指示を与えている。頂点のシグルドからの末端の兵士までの伝達速度の速さもまたこの軍の強さの一つである。
 そんな中、ただ一人だけ幕舎から出たところで動かなかった者がいる、イザーク王妹アイラだ。
「澄んだ空だな、シグルド卿」
 イザークでは別にこんな青空は珍しくない。だが、先ほどまで重々しい雰囲気の直後では、格別なものがある。
 シグルド軍を彩る異国人達の中では、アイラが最古参の一人である。祖国イザークを失い、甥シャナンとヴェルダンまで亡命してからの参加だから、アイラが最も長い流浪の旅を続けている事になる。その長い長い旅路がようやく終わろうとしているのだ、感慨深さは一際のものがあるだろう。
「……澄んだ、空か」
 およそ彩りとは縁が無さそうな精神の持ち主であるシグルドでも、風光明媚を愛でる心は僅かなりとも持っているらしく、アイラの横に並んで青い空を眺める。少しすると、傍にいたアイラは思いも寄らぬ一言を聞いた。
「……私の心もあのように晴れてみたいものだ」
 アイラには、シグルドが何故にグランベルに弓を引いたのか、その理由を未だに量りかねていた。
 シグルドはおよそ野心家と言う雰囲気ではなく、かといって理想国家を求める思想家でもない。彼の父親は玉座に強すぎる興味を示していたが、息子はいたって淡白であった。父が斃れ、逆賊シアルフィ家の当主となった息子が野望もまた相続した――そんな感じだ。
 もしかしたら、シグルド自身がまだ迷っているのかも知れない。果たして自分が何をしたいのか。自分はどこから来て、どこへと行くのか――
「……明日は、晴れるだろうか」
 無論、天気の話ではない。そして暦の上での明日を意味するものではない。
 アルヴィスを倒してグランベルの王となった時、シグルドの心はあの空のように澄んだものとなるのだろうか。それはアイラには分からない。
 ただ、一つだけ言える事がある。もともとそれを告げるためにこの場に残ったので、アイラは応答し始めた。
「他人の私が言っても詮無き事だが、晴れる」
「……」
「そうしなければならなかった状況下に常にあったとは言え、この軍の中でグランベル人と他の国の者とが肩を並べて行動できた事は素晴らしいと思う。陳腐な言い方だが、シグルド卿の下であればどこの国の者同士であっても手を取り合えた。私は今でもグランベルを憎んでいるが、そのグランベルの王に卿がなるのであれば協力したい。ユグドラルをグランベル人が統治するのは嫌悪するが、グランベル人以外にユグドラル大陸を統治する資格は無いだろう。そのグランベル人が卿であると言うのならば、この剣を捧げたい。卿が言ったユグドラルの明日が方便であっても、卿の下で戦って来た私にはそれが垣間見える。私は卿の言葉通りにそれを信頼している、ここにはいないがシャナンも同じ事を言うだろう」
「……感謝する」
「卿の心がそれでは晴れないと言うのなら、アルヴィスと戦う事に意義を見出せばいい。卿にはアルヴィスから取り返さねばならないものがあるはずだ」
 それだけ告げて、アイラは立ち去った。

 広大なユグドラル大陸の中のたった一箇所の局地戦に、世界のあらゆる運命が凝縮されている。
 勝者はどちらなのか――たったそれだけの差で、翌日の世界の姿は大きく変わる。
 ユグドラルに破壊と創造を持ち込もうとするシグルド軍の、バーハラに向かうこの行進が終われば、形ばかりの凱旋式、運命の扉は開かれる。
 決戦は、四半日後――。

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