ラーナ派の天馬騎士隊をことごとく討ち取った後、バイゲリッターはそのまま西進していた。
アルヴィスが出した交換条件など知らない兵士達は、自分達が命令違反をしている事など露知らず、緒戦の勝利もあって意気揚揚と行進していた。
その一方で彼らを統率するアンドレイは苦虫を噛み潰す顔をしていた。
とは言え当主の座に就いてから何かと尖っているアンドレイである、兵士達は指揮官の機嫌が良くない事を訝しんだりはしなかった。
アンドレイには、二つの重圧がのしかかっていた。
一つはアルヴィスとの契約である。
遠征先でシグルド軍と交戦しても無駄に戦力を浪費するだけ、と踏んだアルヴィスは、ラーナ派との交戦のみを認め、シグルド軍との交戦は禁止していた。。
何人たりともケチのつけようがないほどの功を追い求めるために、アルヴィスと交わした条件を反故にしてまでの進軍である、これでもし敗れでもしたら立場どころか命まで危うい。
だがこの点に関しては実はさほど心配していない、要は勝てば良いのである。
輝かしいシグルドの戦功はヴェルダン・アグストリアと言う“グランベル以外”を相手にしてのものであり、実は「勝って当たり前」の相手だった可能性も存在する。
父殺しの二つ名を背負い、国内においては酷評しか受けていないアンドレイだが、実はグランベル屈指の指揮官である。その自負がある彼にとっては、シグルド軍を打ち破るのは、充分に可能だと言う認識があった。
そんなアンドレイを不機嫌にさせているのは、もう一つの方である。

ザクソン城に到着したその夜――。
ダッカー公爵に形式通りの挨拶を済ませ、与えられた部屋に向かう途中の廊下の事であった。
「ほほほ、こんな雪国にまで御苦労なことだねぇ」
壁にもたれかかって立つ長髪の女剣士の前を通り過ぎようとした時に、そう投げかけられたのである。
嘲笑の内容そのものは想定していたものだった。
このシレジアに来るためにはイード砂漠を越えねばならず、しかもそこに踏み入れるためにはユングヴィから王国内を横断して来なければならない。
確かに御苦労な事で、現実にそう嘲笑われた事は何度もあった。
だが現状のアンドレイにそう言う権利があるのは――許すつもりはさらさらなく、いずれ報復するとしても――グランベルの貴族達のみであり、こんな辺境の国で、どこの馬の骨とも分からぬ女にそう言われるのは、彼の認識では間違っている。
「……」
冷ややかに壁際を見やる。
対象の女性は腕を組んだまま、不敵に視線を返して来る。
隣に銀製の大剣を立てかけているところを見るとダッカー公爵が雇った傭兵のようだが、鎧どころか肩まで露出している服を着ているのが異様に不自然である。
その服装について城内だからと言う理由を当てはめるならば、こんな大剣を持ち歩いている説明が出来なくなる。つまり、この女はこの格好で戦うつもりなのだろう。
何ともふざけた姿をしていると映ったアンドレイにとって、こんな様々な理由で正体不明の女に嘲笑われっ放しで済ませられなかった。
「そんなに手柄を立てたいのかい? アンタも大変だねぇ」
「女……いらぬ口を利くな……」
もたれかかっている彼女の顔のすぐ向かって右脇の壁に掌を勢いよく打ち付け、そんな台詞とともに睨みを利かせた。
だが長い髪に隠れた彼女の表情に怯えの色は無く、小さく肩を竦めただけでむしろ不敵さを醸し出している。
「……この地獄のレイミアを“女”って呼ぶなんて、随分と威勢がいいじゃないの」
「そんな二つ名に興味は無い」
“地獄のレイミア”と言えば、毒刃を使う剣士が名を連ねる闇の傭兵団の首領の名で、その筋の人間ならば誰でも知っている大陸に鳴り響く著名人なのだが、アンドレイにはそう言う類の知識は無い。
だが仮に知っていて、目の前にいる女がその実物だと知ったとしても、アンドレイは評価を変えなかっただろう。
彼にとっての敵はアルヴィスをはじめとした“継承者”達のみであり、それ以外の者は対等に扱うつもりなどなかったからだ。
「ほほほ、やけに尖ってるじゃないの、イチイバルが使えないだけなのにさ」
彼女はアンドレイの脅しに屈する気配も見せずに、さらに煽りたてる。
「二度同じ事を言わせるな……!」
今度は眼光を最大限まで強くしての睨みだったが、まったく通用しなかった。

継承者じゃないからってひがむのは、何とも見苦しいねぇ
西へ進み続け、ザクソン城との距離をどれだけ開けても、あの時のあの女が別れ際の言葉は離れずにアンドレイの脳裏に棲みついていた。
大陸統一の夢と野望を抱き続けるグランベルでさえ出兵を回避しようとする、冬のシレジアへの遠征――
そんな僻地に自ら手を挙げて来たのであるが、今のアンドレイにはその理由を明確にする事が出来なかった。
自分にあるのは不満だけで、ひがんでいるつもりは無い。
だが不満があるだけなら、こんな所にまで遠征する理由にはならない。
今のアンドレイにとって喉から手が出るほど欲しいものは、誰もが沈黙するしかない圧倒的な戦功である。
今は継承者じゃないと言うだけで不当な評価を受けているが、それで埋めきれないほどの功績を立てれば、誰も文句を言えない。
アンドレイは、その偉大なる功績としてシグルド軍を欲したのである。
「ほほほ、それを何て言うのかねぇ?」
――黙れ、女!
アンドレイは、纏わりつくレイミアの声を拒否する事で、自分を維持している。
それをひがみと認めてしまえば、彼が運命と戦い続けた十数年の歴史が全て崩壊する事になるからだ。
彼がまだ幼すぎる頃、ユングヴィ家は聖弓イチイバルの継承者であり次の当主である長女ブリギッドを難破により失った。
残った子達のうち、年齢から言えば次女エーディンの方が歳上だったが、男子と言うこともありアンドレイが次の当主と定められた。
この時からアンドレイは、継承者ではないと言うだけでありながら、最も過酷な運命を背負うことになる。

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