……だが、シグルド軍はそれに輪をかけて強かった。
ラーナ派の天馬騎士隊を狩り尽くして意気揚がっていたバイゲリッターを相手に、遭遇・対峙してから掃討戦に移行するまで丸一日とかからなかったのである。
その報を受け取ったダナンは、即座にリューベック城に戻って守りを固めた。
彼が率いている軍は東方大遠征後にイザークに残してきた部隊であり、グラオリッターの中でも練度が高くない言わば二線級の軍である。ドズル家の主力はと言えば、公爵ランゴバルトの指揮下にあってバイロンと戦い、返す刀でアグストリアに遠征した屈強の騎士達である。
対シレジア遠征・反逆者シグルド討伐となると、この最精鋭の部隊でなくては適わないだろう。
彼らは遠征の疲れを癒している最中であり、万全の体制を整えている準備期間中である。
グランベルは雪融けまで大規模な軍事行動を起こすつもりはなく、ランゴバルトが率いるグラオリッター主力が対シレジア最前線のリューベック城に配置されるのはまだ後である。
ダナンはそれまでこの橋頭堡を維持するのが任務であり、父親が来れば交替してイザーク守備の任に戻る予定である。だから防衛以外の軍事行動を起こす気など毛頭無かった。
リューベック城はシレジア半島の門であると同時に、イード砂漠の門でもある。この城がシグルド軍の手に落ちれば、イード砂漠と言う巨大な緩衝地域がグランベルとシグルド軍の間に挟まる格好になる。
数でいかに圧倒していようとも、砂漠越えでそのままシグルド軍と激突して勝利を収めるのはいくらなんでも考えが甘すぎる。しかもそれだけではなく、シグルドがそのまま旧イザーク王国領に攻め込んだ場合、グランベル本国からは援軍の送りようがなく、指を咥えて奪われるのを見守るしかない。
つまりリューベック城は対シグルドの戦略上、最優先で防衛しなければならない拠点なのである。
拠点防衛の重要性を知っていて、しかも率いる軍ではシグルド軍との交戦に耐えられないだろうと熟知しているダナンが、潰走中の、もしかしたら救出可能かも知れないバイゲリッターのために軍を派遣する事を回避したのは、止むを得ない判断であろうか。

アンドレイが敗れた報が届いたグランベル本国だが、それを市民が受け取る事は無かった。全く違う事実を聞かされたのである。
民に不安や疑心を抱かせないために、事実を捻じ曲げた発表を行うケースは少なくない。
そしてその一時凌ぎの捏造が、最終的に仇となるケースも少なくない。
それを承知でまた行われたのは、情報の操作が可能な側の永遠に変わらない体質のせいでもあるが、アンドレイ個人の生死について気に留めなかったからであろうか。
アルヴィスを中心に据えた新体制にとって、アンドレイ個人がどうなろうとさして構わなかったが、それの道連れとなるものが余りに痛手であったからだ。
グランベル王国の政治体制の権威は確実に薄れていた。何しろ宿将バイロンが王太子クルトを暗殺して内戦に突入した上に、そのクルトの死で聖者ヘイムの血は絶たれてしまったかに思われていたからである。
ディアドラと言う忘れ形見が発見されたのは大いなる朗報ではあったが、何しろ女性である。アルヴィスと言う結婚相手がいるにせよ、市民にとってはバーハラ王家とグランベル王国の未来への不安はまだまだ大きい。
バイロンを撃破し、シグルドをシレジアへ追い落としたとは言え、内戦が終わったわけではないのだ。
そんな時に、裏切ったわけでないにせよ、アンドレイが「敵天馬騎士隊との交戦のみ認む」と言うアルヴィスの命令を無視した事実が明るみに出てしまえば、新体制の権威が疑われかねない。
ただでさえ、ディアドラとアルヴィスとの結婚はバーハラ王家存続のための非常手段だと言う認識がある。ましてや内戦中と言う国政が不安定極まりない時であるから、新体制が一枚岩であると言う国民へのアピールは必要不可欠である。
そんな時にアルヴィスの厳命を聞かなかった者がいたと言う事実が明らかになるのは、新体制にとって都合が悪いどころではない。権力者は下位になめられた時点で終わりなのだから。
よってアンドレイの命令違反は秘匿とされる事になった。
それに連れて、アンドレイは命令違反をしなかったのだから、「敵天馬騎士隊をトンボ採りのように墜とし尽くし、意気揚揚とリューベック城に帰還してそのまま駐留している」とされた。

アンドレイは、本人の知らないところでその存在を失った。
公式のアンドレイは、リューベック城に存在する。
肉体を持たない、あくまで架空のアンドレイであるが、そんな事は実際にリューベック城に行くわけでもない者に虚偽だと分かる筈が無い。
裏を返せば、ザクソン城に行くわけでもない者に真実が分かる筈が無い。
「実はシレジアでシグルド軍と交戦して大敗を喫し、命からがらザクソン城に逃げ帰った」と言うのは確かに正鵠を射ているのだが、それが正しいがどうかなどシレジアへ行かない者には確認できない。
よって中枢部の公式発表以外の情報は全て噂レベルであり、ザクソン城で意識不明である真実のアンドレイは、本物であるに関わらずその存在を公式に否定されたのである。

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