負けてはならなかった。
勝たねばならなかった。
奴らを見返したかった。
功を焦っていると言う事は、自分でも薄々気付いていた。
慣れない土地への、長距離の遠征。理論から言えば、交戦するのに恵まれた条件ではない。
それを承知でアルヴィスの命令を破ってまでシグルド軍と交戦したのは、確かに功を挙げたかったからだ。
能力で他の公爵に劣っているとは思っていない。いや、むしろ凌駕していると言ってもいい。
経験の差こそはあるものの、資質の点においては絶対の優位性を抱いている……その筈だった。
だが、結果は文字通りの惨敗であった。
アンドレイは執拗な追撃を振り払い、戦傷と不眠不休の逃避行で意識朦朧となりながら、かろうじてザクソン城の西に築かれた陣地に逃げ込んだ。そしてその失態を恥じる余裕も無く、そのまま意識を失った。

アンドレイが気が付いた時、世界は闇に閉ざされていた。
夜なのではなく、密室と言うわけでもなく、ただ何も無い世界。ただ、ある声だけが響いている。
「ほほほ、また無様に負けたねぇ」
――女ッ!
ザクソン城を出て西へ向かい始めた時から聞こえた、ある女の声。
城内で一度顔を合わせただけの、ほとんど他人。
だが彼女の言葉は、いちいちアンドレイの内なる傷をえぐった。
それ以来、アンドレイの脳裏にはレイミアと名乗ったあの女が棲み付くようになっていたのだ。
――失せろ!
失せろと言っても、消える筈が無い。何しろアンドレイの思考に介入するレイミアは、彼自身の産物なのだから。
識域下では自分がイチイバルを使えない事への劣等感を強く抱いており、迷っている事実も認めたくないアンドレイの表層意識がこの件で葛藤する時、自分が傷つかないように、固定観念が揺らいでいるもう一人の自分をレイミアに置き換えて発言させているだけなのである。
「ほほほ、そりゃそうねぇ。“イチイバルが使えない”ってだけで虐められる被害者のつもりなんだからさ、実力でも劣ってました、なんてとても認められないねぇ」
――そんな事は無い!
アンドレイの心は、彼女の言葉を認めなかった。
幼い頃からの悲しき境遇は、言わば自分の歴史である。
頭に響くレイミア――彼自身の葛藤の代弁者――の言葉を認めてしまえば、彼が十数年抗ってきた、自分の歴史を否定する事になる。
大きな傷を残しながらも、今まで平静を保ったまま生きて来られたのは「自分は誰よりも優れているが、継承者でないと言うだけで認められない」と言う極めて強固な固定観念を抱いて来たからだ。
彼にとっての自分の能力は、言わば自身の最後の拠り所なのである。これが継承者よりも劣っていると認める事は、たとえ単なる強がりであっても絶対に出来ない。
「じゃぁ聞くけどさ、アンタは何でシグルドに負けたんだろうねぇ」
――黙れ!
アンドレイは、自分の資質がシグルドに劣っていると認めることが出来ない。
では自分の資質がシグルドよりも優れていて、兵の練度や戦地の環境等も将器の一部に含めるとすれば、それ以外に考えられる敗因は何であろうか。
意識の中で響くレイミアの声に反論する事によって自我を維持しているアンドレイには「解なし」と答えることはできない。それはレイミアの言葉に反論できなかったと言うことなのだから。
無理矢理にでも器以外の理由でレイミアの声に反論しようとすれば、回答は一つしか残されない。
それは、彼自身が背負った非業そのもの。

イチイバルを使えないだけで。
イチイバルさえ使えれば――。

「やっぱりアンタは継承者じゃないコトをひがんでいるんじゃないの」
――黙れ!
「何だかんだ言ってもさ、結局はイチイバルが使いたかったんだねぇ」
――黙れ黙れ!
「頑張っても使えないモノは使えないんだからさぁ、潔く諦めたら?」
――黙れェ女ーーッ!!
「ほほほ、そうやってムキになって反抗するのが、ひがんでいる何よりの証拠だねぇ」
――黙れ……!!
「継承者でないから差別された――だから凄い手柄立てて見返してやろうって、こんな辺鄙な所まで来たんだろ? それがひがみ以外の何だって言うのさ」
――黙れ……。
「挙句の果てに、イチイバルさえ使えれば、って負けの言い訳かい?」
――黙、れ……。
アンドレイの声が次第に小さくなって行く。
それは、彼自身の自分を支えてきた観念が、揺らぎ始めて維持しきれなくなっている現れである。
何とか打開しようと、アンドレイは力強く目を閉じて意図的に意識を断とうとした。
一度レイミアの姿を消す事で、迷いを払拭しようとしたからだ。
暗闇の中に浮かび上がっていたレイミアの姿が消え、彼の意識は灰色の空間が支配し始めた。

――ここは、どこだ……?
灰色の世界に浸り、まどろみの様に意識を漂わせていると、ふと自分の身体が持ち上げられて何かに乗せられたような感覚を覚えた。
「とうとう起きないままか……短い付き合いだったけど、言いたかった事、言ってもらいたかった事、色々あったんだけどねぇ……」
――女……?
断ち切った筈の声がまた聞こえて来たが、今度は抵抗しなかった。
もう反論する気力も無いのか、今までと違う趣旨を言い出した事への戸惑いか、アンドレイはレイミアの声をぼんやりと聞いていた。
「継承者じゃないと頭になれない世界をひがんで何とか混ざろうとするぐらいなら、いっその事、聖戦士なんていない世界を創ってしまえばいいのさ。だから、アンタが生き延びるんだよ……」
そんな声が聞こえて、何かを蹴った音がして、自分の身体が何かに運ばれる揺れを感じる……どうやってもハッキリしない意識のために、それ以上の知覚は出来なかった。

ザクソン城、西――
遥か東へと走り去る騎馬を見送ったレイミアは、木陰にたたずむシグルド軍の傭兵に声を投げかけた。
「あたしを殺るのを待ってくれたのかい? 相変わらず律儀だねぇ」
「一頭しかない馬を、自分に構わずくれてやった……男との惜別を邪魔するほど野暮ではないだけだ」
「男ねぇ……流星になれないのをひがんだ女が、似た境遇の若い力に世界を変えてくれるように願いを託した……じゃダメかい?」
口ではそう言うものの、片腕を失った状態で腕を組んでも胸に手を当てているようにしか見えず、傭兵の知る威勢の良さは出て来ない。
重傷で感覚が麻痺しているからなのか、旧友と再会したからなのか、はたまた別の理由からなのか彼女の表情にはいつもの鋭さが無いのだ。
「昔と違って、嘘が上手くなったな」
「もう若くないってかい? 女に向かって失礼な事を言ってくれるじゃないの……ところで、そう言うアンタのあれは何なのさ?」
レイミアが失われた利き腕の方に顎をしゃくると、その遠く先で光が乱反射する雪と同じ色の鎧とマントに身を包んだ若い女性が、こちらの方に手を振っている。
「……義理で預かっているだけだ」
傭兵はそう答えてレイミアに背を向けた。
時間切れである。敵将を発見していきり立つ兵士達が、この場を取り巻き視線と殺気を向け始めたのだ。
利き腕ごと得物を失っているレイミアには、この包囲を突破する事は不可能だろう。本人もそれが分かっているのか、旧友の傭兵の背中を見送った後は、剣を構えて一斉に飛び掛って来る兵士達を他人事のように気に留めず、ただ東の地平線を眺めていた――。
「嘘が上手くなった、か……まったく、お互いトシを取ったねぇ……」

翌日、ザクソン城は陥落し、二年前から続いていたシレジア王位継承戦争は幕を下ろした。
ザクソン落城・ダッカー公爵戦死を確認した国境のグランベル軍は、直ちに本国にその報を送った。
グランベル本国もその報が届くと緊張の度合いが強くなった。いよいよ決戦である。
ヴェルトマー城内、某所――
「シレジア内戦はラーナ派の勝利で終結しました。まさに猊下が糸を操られる通りに事が動いております。これで春が訪れれば、いよいよ我らが悲願が成就するのでございますか!」
「うむ……イザーク・ヴェルダン・アグストリアは既に地図から失せた。雪が融け、シグルドを引き込んだシレジアがグランベルと戦えば、残ったトラキア半島の諸国も必ず介入して来よう。さすれば大陸にはロプトの覡と巫女とが治めるグランベルのみが残る……ユグドラルが、再び我らがロプトの民の元へ戻って来る時じゃ」

(四章・完)

Index