マディノ城外北部方面、深夜──。
昨日、ジャムカにとって少しだけ衝撃的な事が起こった。
「今宵、皆が寝静まった頃に城外に……」
私室に戻る直前にエーディンにそう耳打ちされたのである。
何しろヴェルダン王国での出会いから丸一年以上経過しているに関わらず、二人の関係はと言うと「“バルコニーの上と下”から一歩進んで同じ高さで話をするようになった」状態から一向に進展していないのである。
ジャムカ自身にもいくらかその情けなさを自覚していた点があるのだろう、その誘いを受けて、今夜こそはと覚悟を決めて城外に出た。
その際に愛用の弓矢も持って出て来たのは単なる勇気の後押しみたいなもので、特に意味は無かった。
「エーディン……」
彼女は、特に探す必要もなく見つかった。
北の外れの、ちょっとした岩場。ジャムカが見上げるとそこにいた。
岩場の上で、聖弓イチイバルの弦を指で弾いてその音色を風に乗せている。
ヴェルダン戦役が終了した後、当然の事ながらエーディンはユングヴィに戻るだろうと思っていた。その別れの夜に伝えようと固く決心した矢先に、彼女の残留が決定してしまった。
エーディンは西方国境の守備の任を怠った咎で、当時のエバンス駐留軍指揮官シグルドの元に預けられる事となったのである。彼女は被害者の一人ではあるが、ヴェルダン王国にグランベル侵入を許した責任は誰にあるかと問われればやはりエーディンしかいなかったのである。
差し当たって別れる事も無くなったし、正直なところ精神をこれ以上に磨耗させたくなかったので、そのまま据え置きとなったのである。
それ以来、エーディンとは対等の関係として交流するようになり、現在に至る。
「……」
ジャムカの呼びかけに対して、岩場の上からはエーディンの声ではなくイチイバルの音色が応えた。
貴方が来ると、イチイバルの音色が物悲しく響くようになります……何か、運命的なものに感応しているように──と以前にエーディンは言っていた。
自分とイチイバルとの繋がりに関しては詳しい事は分からない。だがジャムカは故郷ヴェルダンでのエーディンとの出会いに運命的なものを感じていたので、好意的かつ楽観的に受け止めていた。
──久しぶりだな、こう言うのは。

それよりもジャムカは、バルコニーと岩場と言う違いはあるにせよ、両者に共通した“上と下”と言う位置関係に懐かしさを覚えていた。
最初は偶然の出会い。
また出て来ているだろうか、と毎夜バルコニーの下まで来るようになったのは数日後。
そして日を重ねるうちにエーディンの方が自分の来訪に合わせてバルコニーに出ていてくれるようになった。
とは言えジャムカには長話に興じるほどの余暇は無く、毎夜逢っても交わす言葉は二言三言ぐらいでしかない。だがジャムカにとってはエーディンがバルコニーの上に出ていてくれていると言う事実の方を強く受け止めていたので、それで構わなかった。むしろ、僅かな時間しかない分だけ、その出逢いは意味の濃いものだったと思っていた。
結局ヴェルダン王国は滅亡し、バルコニーの上と下と言う構図はエーディンに伝えたかった言葉と一緒に消え去ってしまった。
ところが、その構図が復活したのである。
しかも今夜の逢引を申し込んだのはエーディンからであり、その彼女は自ら岩場に登って待つ事でこの構図を作ってくれたのである。
「エーディン、俺は……」
今なら言える──そんな気がしてジャムカは前置きも無く勝手に本題に入ろうとした。余計な言葉はいらない、と言うよりも単に気が急いたのであろうか。エーディンもこの構図を望んだと言う事は心が通じ合っていた、と言う勝手な認識がそうさせたのであろうか。
「では行きましょう」
だがその対象であるエーディンは立ち上がりながら意外な台詞を口にした。
そして困惑するジャムカを尻目に岩場を降りて、北へと歩き出したのである。
実は降りる際に体制を崩し、ジャムカの両の腕に抱き支えられたりもしたのだが、エーディンはその事のみに礼を述べただけであった。
「エ、エーディン、どこへ……!?」
ジャムカにとってエーディンの行動は何とも理解し難いものだったのだろう。呆然と立ち尽くしているとエーディンは足だけ止めて振り返らずに質問に答えた。
「北へ……海へ」
その返答の意味が、大陸有数の美景として知られるアグストリアの海岸線を見に行きたい、と解釈するほどジャムカはさすがに能天気な男ではない。もっとも、もしも今から北の海岸線に向かえば到着する頃には完全に朝になってしまう、と言う事を知らなければ怪しいものではあったが。
「し、しかし……」
エーディンには何か海に行かねばならない理由があるのは確かなようだが、ジャムカは──彼女に対する感情がどうであれ──素直に頷く事は出来なかった。
何しろ軍はオーガヒル討伐の準備の真っ最中で、近日中にもマディノ城を発つと言う大事な時期である。
そんな時に姿を消し、逢引で帰って来ないと解釈されるような事になればどうなるかは想像に難くない。
エーディンは勝手が出来る非戦闘員かも知れないが、ジャムカは一隊を預かる身である。軍規を忠実に守る事を信条としている訳ではないが積極的に破るつもりは毛頭無かった。
「ジャムカ王子……」
エーディンがはじめて振り向いた。
「私には姉がいました……いえ、今でもいます……」
「それは知っているけど……」
関連性の無い話を切り出され、ジャムカは反応に困った。
エーディンに姉がいたらしい事は聞いていた。
姉ブリギッドとは幼い頃に生き別れ、エーディンはいつか持ち主である姉に返すために聖弓イチイバルを預かっているのだ、と。
「17年前……私の一家は北の聖地ブラギの塔へ巡礼に向かいました。その際に嵐に巻き込まれて船が難破し、姉ブリギッドは行方が分からなくなってしまいました……」
「それなら……」
捜索したいと言う事ならシグルド公子に頼めばいいじゃないか、とジャムカが続けようとしたのをエーディンの二の句が遮った。
「ここ最近になって、オーガヒルを根城とする海賊の頭目の名前が同じだと知ったのです……ブリギッドと言う名前を……」
「まさか……駄目だ!」
ジャムカは言葉の続きを察して、エーディンを制した。
エーディンの言葉が事実であるならば、彼女は間接的にせよ実の姉と戦う事になる。
それに耐えられるエーディンではないだろうから、どうにかして阻止したいと思ったのだろう。
「シグルド公子は許可してくれませんでしたから……」
「駄目だ駄目だ!」
ジャムカは大きく頭を振った。
実姉ブリギッドが海賊の頭目をしているのなら、エーディンの性格上、海賊そのものとの抗争も望んでいないのだろう。だがそれを聞かされたとしてもシグルドが軍事行動を休止する事などありえない事も知っているのだろう。
「……現状においてオーガヒル討伐は最優先事項だ。貴女の事情は察するが、それだけの為に軍の命運を左右させる事は出来ない。しかし戦闘中に姉君を説得する機会があるのなら、戦力を維持出来得る範囲内で全面的に協力する」
シグルドならばそう答えるであろう。
つまり意訳すれば、「聞き入れる事は出来ない。まぁ、行きがけの駄賃で出来るのなら別にやっても構わないが」となるのである。
対クロスナイツの時はエルトシャンを籠絡して軍全体を内部崩壊させたが、あの時はエルトシャン個人の性格を熟知していたからこそ成功したのであって、今度は事情が異なる。
何しろ現時点で判明しているのが、同じくブリギッドという名前で金髪の女性で弓を使うらしい、と言うぐらいの事だけなのだ。この三点においては完全に合致してはいるものの、未だ不明な数多のキーワードまでもが共通している保証は何処にも無いのである。
もしも仮にエーディンの言う通りにオーガヒル一家の頭目が実姉ブリギッドであったとしても、彼女を説得できる保証もまた何処にも無いのである。
シグルドの性格上、勝算の薄い賭けを頼りにする事はないであろう。
「……」
シグルドが止めるまでも無く、ジャムカとて反対である。
ジャムカの制止に対し、エーディンは頭を垂れてしまっている。その拍子に髪が顔にかかってしまい、軽く覗き込んだだけでは彼女の表情は窺い知る事は出来ない。
「エーディン……俺は、君を危険な目に合わせるわけには行かない……分かってくれ」
ジャムカはこれで納得してくれるかは自信がなかった。
一見して拒否されて悲しんでいるようにも見えるが、そうだと言い切ることも出来ない。
エーディンは意外に頑固な一面がある。もともと聞き分けがよく控えめな性格なだけに、自分で決心した事に対する意志の強さは半端なものではない。
その証拠に再びエーディンが顔を上げた時、やはり彼女の表情からはさらにはっきりとした意志の強さが溢れ出していたのだ。
「エーディン、絶対に駄……」
「危険な事だとは分かっています……」
エーディンがジャムカの言葉を遮った。
その逆はあっても、エーディンが他人の発言を妨害した事はジャムカの記憶にはない。
それだけ決意が固いと言う事なのだろう。さてどう説得したものかと困っていると、エーディンが二の句を継いだ。
「ジャムカ王子、お願いします……私を、姉のところまで導いて下さい……!」
まさかとは思っていたが、どうやら自分が呼び出された理由は護衛を務めて欲しいと言う事らしい。
言われなくともエーディンを守る事を至上として来たのだから、その点のみにおいては異存はない。
だが、自分が独断で無謀な事をするから守って欲しい、となればさすがに事情は異なる。“守る”と言う事は、外敵を排除する事だけではない。火の粉が降りかからないところに出さないのも肝要であるのだ。
最前線よりも遥かに危険な単独行動でしかも敵地に乗り込むのである、正直なところ守りきれると言い張る自信は無かった。
ここは、何としてでも思い留まってもらおう──そう決心していざエーディンに伝えようとした時である。
「ごめんなさい……でも私には……貴方以外に、貴方以上に頼れる人がいないのです……」
その台詞を聞いてしまったジャムカは、それだけでもうエーディンを止める事は出来なくなっていた。
エーディンの固い意志に感化された故だろうか、頼られた事が嬉しかったからだろうか、それとも単に意志が弱いだけであろうか。
ジャムカが制止しなくなったのを確認したエーディンは再び踵を返して北へと向かって歩き出した。
「参りましょう、姉が軍との戦いに赴いてしまう前に……」
ジャムカはやむなく追従する事にした。
何であれ、最終的に容認したのはジャムカ自身である。
事こうなってしまった以上、何としてでもエーディンを守りきらなければならない。
身のこなしが軽いとは思えないエーディンを連れてどうやって潜入するか、とジャムカは色々と考えていた。その一方で、前を行くエーディンが海峡を通り過ぎる海賊船に声を掛けて砦まで乗せてもらおう、と言う無謀極まりない予定を立てているなどと気付くはずが無いままに。

Next Index