マディノ城──。
シグルドは常勝不敗の将であるが、今までは全て自分主導の戦争だったからである。
だが、ここに来て初めて勝算が見えにくい戦いを強いられる可能性が出て来た。
王位の根拠たりえるディアドラを奪われた事により政治上の優位を失い、そして父バイロンの大逆罪のせいで正義も既に無い。
今、シグルドにとって最も必要なのは時間であった。
いくら共闘中のエッダ公クロードが“バイロンの冤罪の真実”の神託を明らかにしてくれると言っても、それを広めるにはそれなりの時間が必要なのである。
正面決戦には自信があっても、肝心の兵が動いてくれなければ戦争など出来る筈が無い。
そしてシグルドは一敗が許される程に豊富な戦力を有していない。つまり、自分達の正義を証明できないうちは、出来得る限り回避し続けなければならないのだ。
故に、
討伐軍に関する情報がまだ大して集まっていないのにも関わらず、シグルドは早々にかつ密かにアグストリア放棄を決めたのである。
戦争に勝つ事を目的とした兵法においても、早期撤退の利を説く項がある。つまりシグルドは、いち早く本拠地を移して戦争を回避する事にしたのである。
アグストリアを無条件に手放すのは大きな損失ではあるが、シグルドはそうやって時間を稼いで自分達の正義を兵に浸透させる方を選んだ。
どう転んでも最終的には武力による決戦になるのは間違い無いのであり、その武力を満足に扱えなくては永久に勝算が回って来ないのは確かではあると考えたのである。
ただこれが現状においてこれが最善であるとは言い切れない。例えば宰相であるフリージ公レプトールなら別の選択肢を選んだのだろう。
あくまで武力による決着を想定したのは、要はシグルドが武の人だったからである。
だがシグルドは武に重きを置いてはいても、根っからの武人と言う訳でもなく、既に政治面で次の手を打っていた。こうして次の本拠地に選んだ地から一人の使者を迎えていたのである。
「……これより遠くてはいざと言う時に天馬騎士の援護を要請できない。よってオーガヒル砦で頼みたい」
「お言葉を返すようですが彼らは未だ健在です。その根拠地に輸送船を派遣するのは沈められに行くようなものです」
来訪者の主張は正当なものであったが、シグルドは構わずに派遣するように念を押した。
「しかし……」
勿論それで納得できる筈もなく、来訪者は再度の反論を行おうとした。
それに対しシグルドは機先を制してその根拠を述べた。
「……砦は九日後の南中時に陥落させる。港を奪えばその心配は無くなるだろう」
一瞬だけ間を置いたが、それはシグルドの癖であって事実上の即答である。
その宣言自体の根拠が何処にあるのかと言う点には全く触れていなかったが、日時を正確に指定したのである。その宣言には有無を言わせぬ静かな迫力があった。
そしてシグルドはさらにもう一つ理由を付け加えた。
「……それ以前に輸送船がそれ以上に南下した場合、別艦隊と接触する可能性もあり得るのでそれは回避したい」
シグルドの杞憂には一応の根拠があった。
グランベル本国からの討伐軍の進行経路には二通り考えられたからである。
一つはエバンス城から侵入する南ルートで、陸路においては事実上の唯一無二の経路であるのだが、もう一つ海路を使っての最短距離での上陸作戦が考えられるのである。
過去のグランベルにおいては、アグストリア方面に対しては制海権を握られていた故にその選択肢は無かった。
だが現状においてはその要となるべきアグストリア海軍、すなわちオーガヒル一家はシアルフィ公家軍と敵対している。一家はグランベル本国軍と共闘を結んでいる可能性もあり得るのである。
シグルド率いる叛乱軍はオーガヒル一家の駆逐を望む海賊達と手を結んでいるが、彼らの単独での海戦能力に付いてはシグルドは全く信用していなかった。
何故ならば、向こうからシグルドに対して尻尾を振って来たのである。裏を返せばオーガヒル一家に勝つ自信が無いのと同義である。
シグルドが海賊達に望んだのは、オーガヒル島への上陸時の援護である。しかも海峡を横断する半日にも満たない僅かな時間における安全のみを提供してくれれば良かったのだ。
シグルドにして見れば、その程度の利用価値しか見出していない海賊達に──討伐軍が海路を採った場合──アグストリア東部上陸地点に向けて海路輸送中のグランベル軍を叩き、なおかつ護衛として配置されているオーガヒル一家の船を撃破出来るとは思えなかったのである。
「分かりました、それでは十日後にオーガヒル島東端に船を回します」
来訪者はそれと定型の挨拶を残して踵を返そうとした、その時である。
けたたましく足蹴にする音をノック代わりに扉が開き、一人の男が入って来た。
「マーニャ! お前、何しに来た!」
「殿下!?」
来訪者に驚愕の表情が浮かんだ。
秘密裏に帯同している旨の報告は聞いていたのだろうが、まさか密談中に踏み込まれるとは思いも寄らなかったのだろう。
だが実際には何の無理も無い話である。
何しろ基本的に陸上戦力しか存在しないアグストリアにおいて、天馬ほど目立つ存在は無いのだ。
どれほど隠密を心がけても、誰の目にも触れない筈が無く、そしてそれを誤魔化す手段も無いのである。
「シグルドには接触するな、と何度も連絡を送っただろう!」
「わ、私は遣わされただけで……」
来訪者、シレジア四天馬騎士筆頭マーニャがしどろもどろに答えると、レヴィンは部屋の中の全員に伝わるような露骨な舌打ちと共に、マーニャの前を通り過ぎシグルドに詰め寄った。
「シグルド……お前にも言った筈だ、グランベルの内戦にシレジアを参加させるな、とな……!」
レヴィンの背中越しの迫力に、女性ながら歴戦の強者である筈のマーニャも思わず身震いした。部屋の温度が急激に下がった感もある。
「……その約定を反故とした点においては私に全面的な非がある、この通りだ」
シグルドは相変わらずの表情で頭を下げた。ただしあくまで感情の籠らない型通りに。
「……だが、御母堂には拒否する選択肢もあった筈だが」
そして、そう二の句を継いだのである。
「チッ……!」
レヴィンにはもう一度舌打ちする以外に反抗する手段が無かった。
確かにレヴィンの母である先王妃ラーナには、シグルドからの接触を蹴る事も出来た筈である。
ラーナとシグルドの間にどんなやり取りがあったのかまではレヴィンには窺い知る事は出来ない。だがとにかく彼の知らない間に、故郷はグランベル王国の興行の舞台に上がる事を望んだのである。

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