「長老さま……!」
神殿の中、祭壇の前で、彼女はその決定を聞かされた。
「許してくれディアドラ、これしか方法が無いんじゃ……」
長老は決定を伝えているだけで、この言葉に長老の個人的な主観は混ざっていないのだろう。その証拠に、一見して悲痛な言葉と、醸し出す“色”とが全く釣り合っていない。
「これも、マイラの宿めじゃ……」
長老が、何やら一族の始祖から受け継ぐ自己犠牲の精神に付いて云々語っているが、もうディアドラの耳には届いていない。
外界との繋がりを断っている、精霊の森の隠れ里。
ディアドラは、そしてその隠れ里の中ですら皆に忌避されて来た。
同族なのに、多少なりとも同じ血が流れている筈なのに、彼女が里の皆の輪の中には入った事はほとんど無かった。
開祖マイラの血を最も濃く受け継いで産まれているから、彼女が巫女に選ばれたのは妥当ではある。
だが、それは建前に過ぎなかった。
巫女として一段高いところに祭り上げて半ば神聖視する事で、個人的な関わり合いを避けようとしただけでしかなかったのだ。
「さぁディアドラ、行くが良い……」
「……」
ディアドラは、力無く頷いた。
現在の状況が自分に起因しているのは知っていたし、自分が犠牲になる事で隠れ里の皆の安全が買えると言う事も確かなのだから、それしか選択肢が無かったのだ。
だがディアドラが、彼女自身がいないところで決められたその決定に従ったのは、献身とか自己犠牲の精神とかが刺激されたからではない。
何故ならば、長老が指し示した神殿の出入り口には、日常と変わらぬ森の風景だけが広がっているだけだったからである。
出入り口の陰から覗く者などいない。
そして、促されるまま神殿を出ても、そこに里の者は誰もいなかった。
恐らく永遠の別れとなってしまうのだろう。にも関わらず、見送りに来た者は誰一人としていなかったのだ。
見回しても、それぞれの家の扉や窓は固く閉ざされていた。
そして、それらの家からもまた別れを惜しむ“色”は出ていなかった。
死ぬのが怖いから人身御供を差し出すのはまだ仕方が無いとしても、その選択肢を選んだ事の許しを乞う“色”すら出ていないのだ。
──ここには私の居場所は無いの……?
ディアドラは、自らのオーラの力を嘆いた。
そんな“色”が僅かでも出ていれば、これは自己犠牲として彼女の精神は救済できたのだろう。
だがディアドラは、なまじ巫女として優れた資質を備えていたばかりに、現実を直視させられる事になったのだ。
もし彼女が何の力も無い平凡な少女であれば、それぞれ何の反応も無い家の中で、皆は嗚咽交じりでそれぞれ許しを乞うてくれているのだろうと、勝手な希望を持って心が闇に没するのを繋ぎ止めたのであろう。

開祖マイラは、暗黒神ロプトウスを宿した大司教ガレの一族である。
ロプトの教義によれば、その血が濃くなりガレに近付いてしまえばロプトウスの再降臨も有り得るとされている。
だからマイラの血族、特に最も血の濃い覡や巫は、決して子供を二人もうけてはならない、と戒めたのである。
外界との交わりを絶つ隠れ里の中なのだから皆には大なり小なり同じ血が流れてはいるのだが、出来るだけ縁遠い者を相手に選んでいる。そしてそうする事で実際に回避出来ていた。
だがディアドラの母シギュンは、そのマイラの戒めを破り二人の子を産んだ。
ディアドラはその二人目の方である。
言ってしまえば、ディアドラは“余計な存在”だったのだ。
だがこの隠れ里の外で生まれたシギュンの一人目の子、ヴェルトマー公アルヴィスが覡となってくれる訳ではない。そうでなければ、ディアドラは生存を許されなかったであろう。
殺す訳にも行かず、ディアドラは巫女として育てられた。
マイラの一族の皆にとっては、巫女は大事な存在であるが、ディアドラ個人に付いても同様に大事な存在と言う訳には行かないまま、月日は流れた。
そして、突然のグランベル軍の来襲と、“シギュンの娘”の引渡しの要求──。
指揮官らしき青髪の男は、その要求を拒否すればどうなるのかに付いては何も言わなかった。だが里の皆が想像したその場合の光景が似たようなものであったので──当事者であるディアドラを除いて──相談し合った結果、引渡しが決定されたのである。
巫女を失うのは確かに痛手だが、痛手だからこそ今まで扱いに困っていたと言う背景もあり決心する良い機会だったのだろう、反対者は誰一人としていなかった。
生かしたまま外界に出してしまうのは、一つの危険性を孕んでいるのは承知の上である。
だがユグドラルには星の数ほどの人間がいるのだ、その中で特定の男女が結ばれる可能性など皆無に等しいだろう、と確率的な考えで承認したのである。
……結果論としては、それが甘かったと言う事になるのだが。

精霊の森を出たディアドラを待っていたのは、表面上の大貴族の妻としての煌びやかな生活と、その陰で見え隠れする一つの策謀であった。
夫となったシグルドには、夜な夜な征服される以外には邪険はされる事はなかったが、そこに愛情の“色”は認識できなかった。正確に言えば“闇”に覆われていて“色”が確認できなかったのだけなのだが、ディアドラはその中の真実に希望を覚える事はなかった。
──何故、私を……?
それに付いて疑問が湧くようになったのは、ディアドラの心の闇がシグルドを求めるようになっていた証拠であろう。
自分の居場所、言わば自分の存在理由を強く求めるディアドラの心の闇──。
正当な手順を踏まず力づくでものにされたとは言え、妻に迎えられたのだ。“色”が識別不能なシグルドでも、必要としてくれているには違いないのである。
だからディアドラはその理由に付いて調べる事に余暇を費やすようになった。
その理由を知りそれを磨けば、シグルドの内の自分、つまり自分の居場所をより強く固定する事が出来るから──。
……だが居場所を見つけかけ、そこに腰を下ろそうとした瞬間、その椅子は脆くも崩れ去った。
あれこれと調べるうちに一つの秘密と対面する事になったのである。
グランベル王太子クルト──今まで知らなかった、父の名である。
貴族階級における権謀術数については何の知識も無く、クルトの子である自分がどれだけの価値があるのかは分からないが、少なくとも望まれたのは“ディアドラ個人”ではないと言う事を理解してしまったのである。
──やはり、ここにも……。
やはりここにも、ディアドラの居場所は無かったのである。

だが、だからと言ってどうする事も出来ないままに、月日は流れる。
「……紹介しよう、我が妻ディアドラだ」
ある日の事、自分が紹介される形で顔を合わせた吟遊詩人が持つ“色”に一瞬だけ期待を寄せた。だが風は自分に付いて知ってはいたが、どこか知らないところへと運び去ってはくれなかった。
このように絶望に打ちひしがれると分かってもなお、ディアドラは当ても無い運命を待つ事しか選択肢が無かった。外界についてよく知らないディアドラにとって、一人で新天地を目指して当ても無く飛び出す勇気は無い。故郷の精霊の森はと言えば、もはや回帰すべき心の拠り所ではなくなっていた。
そして一縷の望みが天に届いたのか、あるいは地に眠る闇を呼び起こしたのか、その日は訪れた。
シャガール王率いる反乱軍の拠点である北のマディノ城を奪ったシグルドから、こちらに来るようにと使いが来た。
促されるままに北へ向かうその途上、運命が待っていたのである。
「さぁ……我らが巫女よ……」
ディアドラはマイラの血族でしかも巫女である。だからロプト教徒に対しては何の抵抗も覚えない。
年代を感じさせるローブの色から、この醜悪な老人が大司教である事を察したディアドラは、その迎えを受け入れた。
多少の行事に名残を残すのみで、マイラの血統である事を伺う事が困難な故郷の里の者達よりも、たとえ初対面でも現役のロプト聖職者の方が信頼を寄せられそうだったからである。
──私の、居場所……。
自分が腹を痛め、母の使命と言うささやかな居場所の要であった子セリスを置いて行くのは気が引けたが、それでも天秤の傾きは元には戻らなかった。

そしてヴェルトマー城──。
「お兄……様……?」
マンフロイと名乗ったロプト大司教と、アイーダと名乗った妙齢の女性に促されて開けた扉。その中にいた人物の顔を確認する前に、ディアドラ自身の口からそんな声が漏れた。
部屋の中の人物の“色”が自分との血縁を明示する運命を明瞭に物語っていた。
存在だけは聞いていた、たった一人の兄アルヴィス。
里の者達のように、マイラの戒めを破った母シギュンが産み落とした余計な存在としてのディアドラなのではない。
シグルドのように、グランベル王太子クルトの子、つまり権謀術数の道具としてのディアドラなのではない。
アルヴィスは、同じシギュンの子としての、実の妹としてのディアドラを求めてくれたのである。
「……!」
後方でマンフロイとアイーダが扉を閉じた音が合図だったかのように、ディアドラはアルヴィスの胸に飛び込んだ。
──私の、私の居場所……!
間違いなく、そこにはディアドラの居場所があった。
ディアドラにとって、母シギュンを掟を破った犯罪者扱いしたりも、父クルトの種を宿した畑としか見なさなかったりもしない人物には出会った事は無かったのだ。
それどころかアルヴィスはシギュンを自分と同じく母に持つ、自分の運命の半身。
それだけの条件が揃ったのだ、ディアドラにとっては兄アルヴィスの胸元に頭を埋める事も、その髪を梳くように優しく頭を撫でるその手も心地良いものばかりであった。
その心地良さは、自分の居場所を見つけてくれた兄を慕い想う妹の心……果たしてそれだけなのであろうか。

ディアドラは、自分自身の“色”は見る事が出来ない──。

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