アグストリア海軍拠点、オーガヒル砦──。
「お嬢、お嬢!」
ドバールが二度ノックするが、返事はない。
頭目であるブリギッドが激昂して部屋に籠もってしまった場合、その怒りを解くのは幹部の仕事である。この日、様々な理由で幹部全員が砦に不在だった為に、その任務は最初に戻って来た彼に託されたのである。
「お嬢、入りやすぜぃ」
確認の為にもう三度ノックしてから扉のノブに静かに手を掛けた。そしてゆっくりと回し、一気に扉を開けると同時にその場で身を伏せた。
ドバールの予想通り、一瞬前までドバールの頭があった場所をインク瓶が正確に貫いて行った。
安全を確認したドバールが起き上がると、これも予想通りに、インク瓶の投射地点で不機嫌そうに舌打ちするブリギッドの姿があった。
「お嬢、機嫌は直りましたかい?」
「良くないよ、この馬鹿ッ!」
それが先程から続いているのか、投げたインク瓶が当たらなかったからなのかは果たして微妙なところである。少なくとも、もう投げる物が無いので怒りの発散が不可能になっているのは確かではあるが。
「ところでお嬢、マーニャの奴は何しに来たんです?」
マーニャとは海を隔てた隣国シレジアの天馬騎士の筆頭の名である。オーガヒル一家は彼女とは悪い意味で面識があった。
誰でも、上から見下ろされていては良い気分にはなれない。
ましてや、俺達が仰ぎ見るのはあの太陽と星だけだぜぃ、と言うのが誇りの海賊達にとって、天馬騎士とは不倶戴天の敵も同然である。
実際にシレジア沿岸にちょっかいを掛けに行った船が、散々な目に遭わされた事が何度かあった。
その時の撃退の指揮をしていたのが、そのマーニャなのである。
つい先程に、その彼女がこの砦を訪れたらしいのである。なお余談だが、マーニャは当たり前の表情で天馬で現れた為に水夫達の神経をさらに逆撫でしたのは言うまでも無い。
ちなみにその時ドバール自身は港で船の点検に立ち会っていたので、その時の様子を知らない。
「これを持って来たんだよ、勝手に読みなッ」
怒りで説明する気も無いのか、机の上の書簡を手で払うようにして放り投げた。
それを受け取ったドバールは、文字の細かさと量に一瞬だけ嫌気が差したが、忍耐が僅かに勝った。
「えぇっと差出人はラーナ、と……要は、グランベル軍をシレジアまで運んでくれ、って事ですかい?」
社交辞令や美辞麗句と言った、彼にとっては暗号に等しい言い回しを根気よく解読した結果、ドバールが弾き出した解釈はそうなった。
その間に怒りが多少なりとも収まったのか、ブリギッドはその回答に対して「そう」と及第点をつけた。
「で、お嬢はどうするつもりなんです?」
「昨日どうするか言っただろ、この馬鹿ッ!」
昨日、一家の今後の指針に付いて討議が行われた。
議題は、現在シルベール城を包囲中のグランベル軍に対して、どう対処するべきかと言う件である。
オーガヒル一家はグランベル軍の補給線を攻撃すると言う形でシャガール王を支援していた。その攻撃は一定の成果を挙げていたが、肝心のシャガール王そのものが斃れては意味が無い。
シルベールが陥落すれば、グランベル軍と次に正面から対峙する事になるのは自分達なのである。
後事を託された訳でもないから、出来得る事なら戦いたくないところであるが、頭を下げられない事情もあった。
現在、グランベル王国は二派に分裂して内戦に突入しているのは既に分かっていた。
そしてグランベル方面に出していた快速艇からもたらされた新たな情報を整理した結果、アグストリアに駐留する軍──つまりオーガヒルの皆が言うところの“グランベル軍”──は政治的にも軍事的にも劣勢であると判明した。
つまり、無意味な戦争は嫌だからと言ってアグストリアにいるシアルフィ軍と仲良くすれば、本国の優勢な正規軍にまとめて討伐されてしまう可能性もある。目の前の安全は買えても将来的なそれまでは保障されないのである。
しかしその逆が賢い選択かと言えば、これもそうとは言い切れない。
この選択肢を選んだ場合、目の前にいるシアルフィ軍との戦闘は絶対に避けられない。これに勝つ、あるいは本国からの討伐軍が到着するまで生き残る事が出来なければ何の意味も無いのだ。
ブリギッドの選択は後者であった。攻撃した事実のあるシアルフィ軍よりかは話が纏まり易そうであるのは確かだからである。
勿論、無理してシアルフィ軍と戦わなくても外交の綱渡りで行くのも不可能ではないが、オーガヒル一家の“お頭”としては難しい話で水夫達の気勢を殺ぐような事はしたくはないのである。水夫達を口癖のように「この馬鹿ッ!」と怒鳴りつけてはいても、決してそんな彼らを蔑んだりはしないあたりが、ブリギッドが頭目として優れている点であり、水夫達から慕われている理由でもあるのだろう。
「ええっと、それなんですが……ドンパチするなら“西”は放っとけませんぜ」
実はこの近海を根城とする海賊はオーガヒル一家だけではない。
もともとブラギの塔へ向かう巡礼船の“護衛権”と言う利権が存在するのは、当然ながらその船を狙う輩が存在しているからである。
その拠点が、島の“西”側なのである。
彼らがこの混乱を利用してこの近海をものにしようと考えるのは自明の理であり、もし実際に大規模な衝突が起こればシアルフィ軍との戦争どころではなくなる。
「分かった、留守を頼むよ」
「へ?」
ドバールの間の抜けた返事を了解の意味と受け取ったのか、ブリギッドは椅子から立ち上がってそのまま部屋から出て行ってしまった。
「お嬢、いったい何をするつもりですかい!?」
ブリギッドは少しだけ振り向き、立てた左親指を下に向けながら簡潔な回答を述べた。
「グランベルと喧嘩する前に、ちょいと奴らを黙らして来るよッ!」

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