──ジャンヌにしよう。
出撃前夜、身重の妻と相談して女の子が産まれた時にはそう名付ける事に決めた。
二人の間の最初の子は、長男トリスタン。
だから今度は女の子がいいな、と話もしていたから女の子の名前を考えたのだ。
だが、この会話には極めて不自然な点がある。
新たな子を身籠っていると分かったばかりであるのに、名前を決めるのは気が急いていると言う程度の話ではない。
そして、遠くの地に遠征する訳でもないから、出撃して凱旋するまでの期間中に産まれる事も無い。
つまり、今この時に子供の名前を考えると言う事は、一つの可能性を示唆しているのである。
「あなた……」
妻がそう言いかけた時、風でも吹き込んだのであろうか部屋を照らしていたランプの火が消えた。
慎ましくて気立てが良く、いつもなら夫があれこれ言う前に火を灯し直すべく動く妻だが、今夜だけは目の前から動こうとはしなかった。
すぐ隣で燃えさかる暖炉の火があるから、妻の顔が見えない訳ではない。
だが横から照らされる光は、妻の表情を光と影に分けていた。
夫の武運を祈りその留守を一人で守る顔と、夫を奪う戦争を憎み置き去られる女の運命を呪う顔と──。
騎士の妻としての表面と、夫を愛する妻としての内面。
妻が何を心配しているかは良く分かっていた。
「心配するな、死んだりしないさ……お前や子供達の為にもな」
「はい……」
だが、いつもの出撃前夜ではそこで消える筈の妻の不安は、相変わらず燻り続けていた。
正確には夫が気付いていなかっただけで、いつもそうだったのかも知れない。
暖炉の炎によって分け隔てが露になった、騎士を夫とした妻の、光と影。
その存在に気付いた彼は妻を引き寄せて抱きしめ、本当の事を伝えた。
「……陛下は死を覚悟されておられる。それなのに王に仕える騎士が自己の都合を優先する事など出来ない……許してくれ」
「あなた……!」
胸元に顔を埋めて泣き縋る妻の嗚咽は、髪を梳くように優しく頭を撫でても決して溶ける事は無いのだろう。
こうしてやれるのも、今夜が最後なのだから。

翌朝──。
「……?」
妻の裾を掴んでどうにか立っているトリスタンが、きょとんとした表情でこちらを見上げている。父は中腰でその頭を撫でながら、表面上は何気ない言葉を紡いだ。
「トリスタン、母さんを頼むぞ」
もちろん幼すぎるトリスタンには、その言葉の意味が何であるか分かる筈もない。
さすがにもう父が帰って来ないとは理解していないのだろうが、甲冑姿と言う特別な格好で家を出る父親に、何を思ったのだろうか。
この子は、そして産まれて来る新たな子は、いつの日か父の事を聞いた時、どう思うのだろうか。
父と母の心情を理解してくれるのだろうか、それとも母を捨てた父とその原因となった王家を憎むのだろうか……。
息子との略式の別れを済ませた父は立ち上がり、今度は最愛の妻とのそれを行うべく向き合った。
昨夜、あれから何度も愛を確かめ合った。
相手を想う心を膨らませれば膨らませるだけ、悲劇は色濃くなるだけでしかないと分かっていても。
「行って来る……」
だが夫は、特別な言葉で妻との今生の別れを飾ったりはしなかった。
「御武運を……」
妻は夫よりもわだかまりが大きいにも関わらず、それに応える形でいつも通りに出撃を見送る。
夫が死にに行く事を納得出来る筈も無いが、その覚悟を決めたのだろうか。
そして、最後の抱擁──。

数日後、シルベール城を出撃したクロスナイツは街道沿いでグランベル軍と切り結ぶ事になった。
そして、彼はよく戦った。
大陸最強を謳われるクロスナイツの一員として恥じない奮闘ぶりであった。
だが武運が尽き、今は馬と武器を失って大地に転がっていた。
「陛下……」
継戦能力を失った彼に出来る事は、残った全ての武運を主君エルトシャン王に託すぐらいのみである。
真正面からグランベル軍に突撃を敢行した王の姿は、この混乱の中では確認出来ない。
未だに奮戦しているのか、あるいは斃れたのかは知る由も無い。
だが少なくとも、この戦いで死んで行った他の騎士達は救われたと言っていい。彼らは国王と同じ思いで戦い、騎士としての本懐を遂げたのだから。
彼のように妻子ある身ではそこまで心を昇華する事は出来ないが、愛する妻子を残して死ぬ事の“意義”はあるに違いない。
それ以外の理由で死ぬ事は望まなかったし、死なねばならないとしたら無念というものであろう。
「陛下……!?」
だが彼の死は、無駄死にに終わる。
敵軍に突撃した筈の国王エルトシャンが単騎、全速力で西へ──出撃したシルベール城の方角、つまり後方へ──向かって駆けて行く姿が見えてしまったのである。
国王がクロスナイツを統率する事も忘れ、激戦の続くこの場を捨てて西へ西へと駆けて行くのだから、その様を目撃した騎士達がどう好意的に考えても戦闘に意欲的には見えなかったのだ。
家族よりも優先順位の高い対象である国王の異常な行動が全軍に知れ渡ると、一瞬だけ戦場から剣戟も怒号も消え去った。その隙を突くかのように、グランベル軍を率いる青髪の指揮官が語りかけるように声を挙げた。
「……クロスナイツ諸君、諸君らの王は臆病風に吹かれ尻に帆を掛けて逃げ出したぞ」
「なっ……!」
衝撃的な一言と、それを聞いたクロスナイツの騎士達の絶句。
信じたくは無かったが、実際に戦場を離脱する主君の姿を説明するのに、その理由が最も適している事までは否定できなかった。
──私は……何の為に……。
妻の笑顔と、無垢な息子の寝顔。
彼は、何より大事な家族を捨ててまで、騎士として王に殉じる事を選んだ。
だがそれは、その命を捧げた対象である国王本人によって踏み躙られたのだ。
そして彼だけではなく、他の皆もまたそれぞれ大切な何かを捨ててこの戦いを選んだのだろう。だが思いを粉々に砕かれて、絶望が周囲を支配した。
落とした影は敗戦と大差ないものなのであろうか、“激戦”は、一瞬で“掃討戦”に切り替わった。
当初、互角と思われた戦闘の趨勢はこの一瞬で決した。
残ったのは、指揮官が戦場を離脱した事により制御が利かなくなった部隊と、それを形作る国王の逃亡を知らされて士気が地に墜ちた個々の騎士の集団でしかないのだ。
──許してくれ……。
もう彼の首級は、継戦能力が無いからと言って捨て置いてはくれないだろう。
グランベル軍指揮官から、その事を証明する、静かな号令が下された。
「……狩れ」

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