アグストリア地方北部、マディノ城──。
この城の新たな所有者となったシグルドは、突然の来訪者に、東方での父バイロンの失態と自分の政治的境遇を聞かされていた。
「それで卿はどうなされるのですか?」
この報を持ち込んだのはエッダ公クロード。表向きは聖地ブラギの塔への巡礼中に立ち寄ったと言う事になっているが、それがあくまで表向きの理由であるのは今さら言うまでもない。
逆賊と個人的に接触するのは政治的に避けたい筈であるから、何か裏があるに違いない。
「私としては帰順を申し出てくれるのが最上なのですが……」
和議の使者としてならば、エッダ教最高司祭であり中立勢力であるエッダ家の当主でもあるクロードは最適任であろう。だが和議の使者として来たのであれば、表向きも和議の使者で構わない。つまり、この帰順の勧めはグランベル本国の総意ではない事を意味する。
確かにアグストリアへの遠征は、東方から凱旋したばかりの兵士達に心身ともに大きな負担を与えるだろう。また度重なる遠征による財政への影響、王太子暗殺の余波による政治上の混乱、と言った点から考えればこれ以上の内戦を避けたがるのも無理はないようには見える。
だがそれを差し引いてなおもシグルドの帰順を許す事が出来ない絶対的な理由が存在するのだ。
「……その代わりに、ディアドラを差し出せと?」
クロードは頷かなかったが、首を横に振る事もしなかった。
いくら戦争無しで解決するとは言え、将来の“グランベル女王”であるディアドラの夫がシグルドである事が認められるはずが無い。帰順とは敵対勢力に服従する事であるのだから。
「はい、そして新たな夫は私と言う事です」
「……順当ではある」
残った者の中で、クロードが女王ディアドラの夫として最も相応しい人物である事は間違いない。シグルドが順当と言ったのはそれについての話であって、ディアドラを“譲渡”する事が順当と言った訳ではない。
「……それで、ディアドラの代価は私の命と言う事か? しかしヴィクトルの轍を追った先が知れている以上は受託出来ない」
ヴェルトマー家先代当主ヴィクトルは、妻シギュンを主君クルトに奪われた。そしてシグルドには妻ディアドラを新たな主君に奪われるのを享受しろと言うのである。しかもその悲劇の女性が実の母娘であるとは何とも皮肉な話であろうか。
そしてヴィクトルはその直後に“急死”している。助命を願ってその轍を追ったとしても、その後にどうなるかは想像に難くない。
だがクロードは「いえいえ」と首を振り、自ら破格の条件を提示したのだ。
「卿には“神聖グランベル王国”の大将軍として軍事面の全権をお任せするつもりですよ。何しろエッダ家は固有の武力を持ち合わせていませんからね」
「……我らが祖国の名称がそうだったと言う記憶が無いのだが」
グランベル王国はあくまで“グランベル王国”である。前身であるグラン王国の時には共和制に移行した時期もあったが、ロプト帝国の支配から復興して以後は名称に変更は無い。
「神の声を伝える私が共同統治者となるのですから、妥当な線と言うものです」
「……」
シグルドは返答を避けた。
エッダ教最高司祭であるクロードは勿論、女王ディアドラもまた精霊の森の巫女である。エッダ家の始祖である聖者ブラギは、ディアドラの祖先マイラを奉じる神官に育てられた背景もあるから、グランベル史上最も宗教色の濃い政権となるのは確かである。
しかし、だからと言っておいそれと名称を変更出来る訳ではない。名称とは変更しない限り基本的に恒久なものである。“神聖”を冠するのであれば、その玉座も恒久的に神聖なものであり続ける必要があるのだ。
王太子クルトが男子をもうけずに故人となり、唯一の継承権所有者であるディアドラの夫としてクロードを迎える以上、この政権は急場凌ぎの感は否めない。実際に二人の間に王太子が生まれればディアドラは退位し、クロードは単なる“王太子の父親”に成り下がるであろうと見られている。
だが、クロードはこの政権を恒久的なものにしようと言うのである。その意図を表したのが先程の発言と言う事になる。
「卿も同じ目論見だったのでしょう?」
「……否定は出来ない」
シグルドは素直に頷きはしなかったが、全面的に図星である。計画そのものは父バイロンのものだが、実質の実行犯であるシグルドがそれを聞かされていない筈が無い。
「そして仮に政権を握ったとして、卿はそれからどうされるつもりだったのですか?」
「……公の提示の根拠が理解出来た」
政権掌握を一代限りの夢で終わらせるのはあまりに愚かである。これを後世に受け継がせるのならば、それを良しとしない反対勢力を排除する必要がある。何しろ、もともと六公爵家は同列の存在なのあるから、彼らが自分に心から忠誠を誓う可能性は皆無である。今となっては夢の露と消えたが、シアルフィ家が頂点に立った場合も大粛清を行う予定であり、エッダ家もそれを行う腹なのだ。
ただ粛清と言えば権謀術数を必要とするがこの場合は実質的な内戦であるから、必要なのはむしろ膨大な軍事力なのである。
シアルフィ家がディアドラを掌中に収めてもなおアグストリアを欲したのも、“粛清”を行うにあたっての生産力を必要としたからである。
ところがエッダ家には固有の軍事力が無い。これは政治や軍事で統治するのではないと言う大司祭ブラギの遺志を受け継いだと言うより、大陸中に聖職者を派遣する事で各国に潜在的な影響力を有しようとする方針の表れである。
クロードが逆賊であるシグルドに大将軍と言う破格の条件を提示して迎えようとする意図が、それらの事情の陰で見え隠れしていた。あくまで抽象的・象徴的であったクロードが、政敵粛清という俗事に踏み出す為にシグルドの武力を欲したのである。
「……しかし、それは買い被りと言うものであろう」
確かに、寡兵でヴェルダン・アグストリア両国を破ったシグルドの実績は天才と呼ぶに相応しい。だが、恐らく敵対する事になろうフリージ・ドズル・ユングヴィの三公爵家を──場合によってはヴェルトマー家をも──敵に回してなお軍事的勝利を収め得る可能性は絶対に無い。
だがクロードは目を細めて、にこやかな顔でこう言い放ったのだ。
「いえいえ、正義は我らにあります。彼らの全軍を相手にする必要はありませんよ」
「……説明願いたい」
その理由ばかりはシグルドにも理解できなかった。政略を駆使して巧く立ち回れば不可能な話ではないが、少なくともこうまで自信溢れる表情で言えるものではない。
そして正義がこちら側にあると言う点も腑に落ちなかった。クロードが夫君殿下として──あるいはディアドラを動かして女王命令と言う形で──強権を発動すれば一応の根拠にはなるが、絶対的な正義に成り得るかとなれば疑問符を付けるべきであろう。
何しろシグルドは逆賊である。それを打ち消してさらに敵対勢力を悪と見なさせるには並大抵の正義ではおぼつかない。父バイロンが犯した大逆罪とはそれほど重い罪なのである。
「全ての真実は神が知っておいでです。私はこれからブラギの塔へ神託を受けに行きますが、恐らく神は、クルト殿下弑逆の真犯人はフリージ公とドズル公で、彼らはシアルフィ公にそれの濡れ衣を着せたと告げるでしょう」
「……納得した」
運命と生命を司る神として崇められる大司祭ブラギの血を引くクロードは、神の声を聞く事が出来ると言う。ユグドラル大陸では神の血を受け継ぐ末裔たちが治める背景もあるから、この話には信憑性があった。
だが神の声が真実だったとしても、それを皆に伝えるクロードの言葉が真実である保証などどこにも無いのである。自分に都合の良いように信託の内容を改竄したとしても、周囲からは絶対に見破る事は出来ないのである。今までその事実とその可能性に誰も気付かなかったのは、野心の欠片も無い聖人君子として今まで皆に奉仕して来た賜物と言えよう。
そしてわざわざ聖地ブラギの塔へと出向いて神託を受けると言う演出まで行うのだから、露見する可能性は皆無と言えよう。
「それでは私はブラギの塔に向かいます。卿はそれまでに鎮圧していて下さい」
此度のシャガール王の挙兵は、アグストリア人から見れば意義ある“解放戦争”だが、征服者であるグランベル人から見れば単なる反乱に過ぎない。そしてそれも西にあるシルベール城を残すのみである。元々ただの砦だったのを急ごしらえで強化した程度のものであるから、攻略は大して難しくない。クロードの言う通り、聖地から戻って来るまでには全てが終わっているだろう。
そしてその後は、グランベル王国内部の闘争は新たな展開を迎える事になるのだろう。

「…………ディアドラに、こちらに来るように伝えろ」
クロードが城から北へ向かう姿を窓から確認したシグルドは、侍従に対してそう命じた。
クロードの共闘──本人に言わせれば帰順──の勧めを蹴り、ディアドラを有し続けたとしても勝ち目が薄いのは否定しようが無かった。これを受託すればシアルフィ家の罪は晴れる。
大将軍として軍事面の全てを任せられるのも悪い条件ではなかった。頂点に立つことは叶わなくなるが、完全並列の六公爵家の時代から考えれば、シアルフィ家は大躍進を遂げると言っても過言ではない。
とにかくシグルドは、アグスティ城に留まっているディアドラを呼び寄せるべく使者を送った。
自分の妻をクロードに差し出す事を享受したのか、あるいは最後の最後で再び奪回するつもりなのか。
ただ普段から発言の際に一瞬だけ間を置く癖のある──周囲曰く、その間に考えを纏めているらしい──シグルドなのだが、この時ばかりはその間がいつもよりほんの僅かだけ長かった。
真意こそは明らかではないが、シグルドのその発言が迷った末の決断であると言う事だけは紛れも無い事実なのだ。

そして最終的には、その迷いに関しては杞憂に終わるのである。

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