アグストリア地方最北端の地、オーガヒル。
島と言う事もあり未開拓領域であるが、アグストリア諸公連合にとってこの地は重要である。
この島は十二聖戦士の一人である大司祭ブラギのゆかりの地である事もあり、大陸中から多くの巡礼者が訪れる。その際に彼らが落としていく外貨は、アグストリアの各王国の財政に大きく貢献していた。
そしてもう一つは、大陸最強を誇る海軍の拠点がこの島にあるからである。
「お嬢、お嬢!」
斬込隊長の一人として名高いドバールが、目当ての人間を求めて砦の中を奔走していた。
海軍とは言え、実質には王家に仕える臣下と言う訳ではないから、彼のような地位の人間でも礼法とは無縁の言葉使いなのは仕方が無い。
彼らが臣下ではなく、契約によって王家に船や水夫を提供する関係であるのには理由がある。海軍は騎士団のような陸軍とは違い、非常に高度で専門的な知識と技能を必要とされ、また王城に駐留する事が出来ないので指揮系統に組み込むのが極めて困難だからである。
「お嬢! 大変ですぜ……ごふっ!」
目的地に辿り着いて扉を開けた瞬間である。彼は飛来して来た、空になったインク瓶を顔面で受け止める事になった。
「……ったく、騒がしいのは嫌いだって言ってるだろ」
少し暗めな部屋。一人の女性が分厚い本に目を落としたままでそう言った。
「だからってお嬢、何もこんな硬ぇモン投げなくてもいいじゃないですかい!」
「あはは、悪い。他に投げられそうな物が手近に無かったんだ」
ようやく本から来訪者に視線を移した彼女は、それを投じた恐怖の右手を振りながら、特に悪びれる様子も無く笑いながらそう言った。
「……で、その呼び方はやめろって事も何度言わせれば分かるんだこの馬鹿ッ! あたいは、もう“お頭”なんだよ!」
「お嬢ぉ〜、無茶言わんで下せぇよ。そりゃ“お頭”がゴネちまったから、理屈じゃそう呼ばなきゃいけねぇんでしょうけど、俺たちゃ長い間ずっと“お嬢”って呼んで来たんですぜ。今さら無理な話でさぁ」
アグストリアの近年の飛躍的成長は、大国グランベルとは進軍不可能な山脈を除いては国境を接していない点にある。だが、だからと言って出る杭を打たないグランベルではない筈である。それをしなかったのは、グランベル北部の制海権をアグストリア側に完全に握られており、陸路で遠征中に海路から逆侵攻される弱みと背中合わせだからである。
アグストリア戦役の際にそれが行われなかったのは、その頃に水夫達から“お頭”と呼ばれていた、海軍提督と海賊頭目とを兼ねる男が偶然に──実にグランベル側に都合が良い事に──急死したからである。
現在はそれまで“お嬢”と呼ばれていた娘ブリギッドが継いだが、内部ではまだ若干の混乱が見られる。ドバール以下の皆が未だにそう呼んでいるのも代替わりが巧く行っていない証拠であろう。
「……それでドバール、何か大変だったんじゃないのかい?」
もう投げ付ける物が無いのか、それとも何を言っても無駄だと悟ったのか、ブリギッドは改めるのを諦めた。少なくとも、その“大変な事”を優先したのは確かであろう。
「あぁそうだった……とうとうアグストリアがおっ始めやがったんです!」
忠誠を誓っているわけでもないが、アグストリアとは切っても切れない関係である。そのアグストリアが再び開戦に踏み切ったとあれば、それによって及ぼされる彼らへの影響も大きい。
だが、その彼らを統べるブリギッドはその報に対して「ふーん、やっぱりね」と興味なさそうに相槌を打っただけであった。
「確かアグストリアの返還は半年後ですぜ、今戦争してどうしようってんです? それにお嬢は何で分かってたんですかい?」
ドバールにとっては極めて不可思議な話である。国家と言う奴は“口実”とか言うもっともらしい難癖を付けないと戦争出来ないらしい、と言う事は知っていたから、どうせなら期限が来て返還されない事を理由に戦争すべきじゃないのか、としか分からない。
「いい、ドバール? ……誰だって戦争が起こるのなら半年後だと思うさ、つまりグランベルだってそう思って半年後に備えるだろ?」
ドバールは、おぉっ、と手を叩いた。
「つまり、敵がまだ準備していねぇところを狙おうってんですね。やっと分かりやしたよ」
「それぐらい説明されなくても分かるって……だからもっと本を読みな、この馬鹿ッ!」
ブリギッドは自分の収入の大半を本の購入に注ぎ込んでいる。
──お嬢も素材が良いんだから、何もそんな物買わずにそのカネを香水にでも回せば、もっといい女になれるってぇのに……ああ勿体ねぇ。
そんな水夫達の共通意見にも耳を貸さず、彼女は本の熟読にひたすら精を出している。
「この前に一冊貸してやっただろ? ……その様子じゃ役に立ってなさそうだね」
「この前……この前……あぁ、あれですかい? いやいやおかげでもう、あれが無いと生きていけないぐらいに大いに役に立ってまさぁ」
どうにも納得出来ないと言う旨の視線を投げかけたままのブリギッドに対して、ドバールは大きく胸を張って自身満々でその理由を答えた。
「いえね、寝付きの悪い夜なんかに少し流し読みすると……そりゃもう、ぐっすりと」
「……話を戻すよ」
ブリギッドが頭を抱えた理由に今ひとつ見当が付かなかったので、ドバールはこう答えた。
「あれっ……もしかして、頭でも痛いんですかい?」
「そうだよ、この馬鹿ッ!」
繰り出された右拳をかろうじて回避したドバールは、とりあえず保身の為にブリギッドに話を合わせる事にした。
「それでドンパチなんですが、アグストリアの方が不利だそうですぜ。これじゃ奇襲の意味がねぇんでやんの……ところで、俺たちゃどうしやすかい? ま、シャガール王にはあんまり義理はねぇですけど」
アグストリア北部での戦争だから、今度は彼ら海の男たちが参戦する機会も有り得る。アグストリアの禄を食んでいる訳ではないが、ブラギの塔への巡礼者の船の“護衛権”を許されているなど、色々と世話になっているのも事実である。アグストリアが完全に滅びて、それらの特権を取り上げられたりすれば死活問題である。自ら進んで加勢するつもりは無いが、見放して滅びてしまわれると困るのである。
アグストリアの盟主のシャガール王からは、この戦争に当たって彼ら海軍に対して何の音沙汰も無かった。もともと海賊を海軍として有効利用する事には根強い反対があった。シャガールも海軍の重要性は理解していたのであろうが、対グランベルを考えれば陸上戦力の整備を最優先したのも仕方が無い話である。迎撃するにしても逆上陸を狙うにしても、まず絶対的な兵力が必要だったのである。
とは言え、彼ら水夫達にそんな裏事情が分かるわけもないので、邪険にされたと受け取られるのも仕方が無い話なのである。現在のところ利権こそはそのまま据え置きにされているが、このままでは将来を不安視する声も挙がっている。
「ドバール、さっき投げたインク瓶拾って」
「へ、へぇ……」
ドバールは戦争とインク瓶とに何の繋がりがあるのか全く分からなかったが、聞き返したらまた馬鹿扱いされそうなので、黙って従う事にした。壁際に転がったままの空のインク瓶を拾って彼女に手渡した頃、彼にもバタバタと騒がしい足音がはっきりと聞こえるようになった。
──あ〜あ、誰か知らんが死んだな。
その音が最大限まで大きくなった瞬間、インク瓶を持ったブリギッドの右腕が、ドバールの想像通りに閃いた。
「お嬢、大変で……ごばっ!」
ブリギッドは神箭の腕前の持ち主であるが、投擲も見事なものである。ドバールの時と同様に、再び投じられたインク瓶は新たな来訪者の同じ場所に命中した。
「……ったく、うちの野郎どもはどうして揃いも揃ってこうも馬鹿ばっかりなんだい!?」
「おーいピサール、生きてるかー……あ〜あ、完全にのびてら……ん?」
ドバールが大の字で倒れているピサールの頭を足で転がしても反応が無いので途方にくれようとした矢先、ピサールの右手に何やら紙切れが握られているのが目に入った。
「え〜っと、グランベルの方に出していた快速艇からの報告で……げ、お嬢! グランベルで内戦が起こったって書いてますぜ!」
「貸しなッ!」
ブリギッドがドバールの手からその手紙をひったくって没頭し始めた。
もしもこの情報が確かなものであるのなら、極めて危険な状況である。
“シャガール王のアグストリア解放戦争”ならまだ分かりやすいが、駐留するシアルフィ軍を討伐すべくグランベル本国から大軍が送り込まれる事になれば事態は一変する。もしもこのグランベル人同士の内戦に巻き込まれようものなら、シャガール王の勢力も合わせると四つ巴の構図になってしまう。
「つまりお嬢……俺たちゃ、どうすりゃいいんですかい?」
ドバールはまだ回答が返って来ていない質問をもう一度繰り返した。
ただでさえアグストリアとシアルフィ軍の板ばさみで頭を悩ませているのに、さらにもう一つ増えたりしたらどうなるのか想像もつかない。オーガヒルの快速艇はユグドラル最速を誇る通信手段であるから、この情報はまだアグストリアでは誰一人として知らないに違いない。本来なら優位に立てるはずなのに、なまじ知ってしまったばかりに余計に悩む羽目になってしまった。
ところが一方のブリギッドは特に悩む素振りを見せる事も無く、読み終わった手紙を放り投げながら、さらりとそう言ってのけた。
「簡単さ、グランベルにここで内戦させたくないなら、その相手がいなくなれば済む話だよ。だから気が進まないけどシャガール王に力を貸してやろうじゃないの」
「えぇっと……そりゃぁ、アグスティ城のグランベル軍をブッ潰しちまおうって事ですかい?」
「グランベル本国からの軍が到着するまでが勝負だ、気合入れて行くよッ!」

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