アグスティ城──。
「いったい、いつになったらこの城に我がノディオンの旗が翻りますの?」
執務室への麗しき来訪者、ノディオン王妹ラケシスは盟友であるシグルドにそう詰め寄った……あくまで優雅に苛立ちながら。
そもそも、ノディオン王家をアグストリアの盟主の座につけるのが条件の同盟であるから、彼女の主張は正当である。
「……シャガール王は即位して日が経っていない。人心を掌握しきれていないうちにアグストリアの南半分を失って、なおも戴冠し続けるのは無理な筈なのだが……当の貴女の兄君がこれでは、な」
シグルドは釈明として、ここ半年間の政治工作の経緯と結果を説明した。
つまりシグルドは、アグストリアの民は“失地王”シャガールに失望し、“獅子王”エルトシャンを待望する筈なのに──そうなるように陰でアグストリアの民や兵士達を色々と煽ってやったにも関わらず──当のエルトシャン自身がそれを頑なに拒んでいるから盟約の果たしようが無い、と反論しているのである。
「兄とは十年以上の付き合いになりますが……まさかそうまで愚かだったなどとは思いもよりませんでしたわ!」
シグルドに八つ当たりしても詮無き事なのではあるが、ラケシスの激越な口調は正論である。
黒騎士ヘズルの直系としてアグスティへの帰還を夢見て来た、ノディオン王家の悲願。
混乱する国内をまとめられる新たな指導者を求める、アグストリアの民の声。
敵地を統治する事の難しさを熟知し、それよりも傀儡政権の樹立を望む、シアルフィ家の戦略。
ノディオン王家、アグストリアの民、そして駐留するシアルフィ家の三者が共通して渇望している、ノディオンの“獅子王”エルトシャンの決起。だがエルトシャン本人は、愚かな事に臣下の身であるから、と言ってそれを渋っているのである。
それが別に簒奪ではない事も、そして本当は別に臣下ですらないと言う事を知らないのは、恐らく本人だけであろう。
ノディオン王家はアグスティ王家を盟主と仰いでいるが、それは騎士と王の関係ではない。ノディオン王家は、れっきとした独立国であり、ただ単にアグスティ王国に従属しているだけである。
そもそも“アグストリア諸公連合”などと言う国家は存在しない。その外見は、アグストリア地方に点在する諸王国の一定の上下関係の伴った“共同体”であり、その正体は大国グランベルへの恐怖心が共通して手を組んだだけの、単に密接な同盟関係に過ぎないのである。
その中でアグスティ王国が盟主として選ばれたのも、アグストリア地方に点在する諸王国の中で最大勢力であったからと言うだけなのだ。
つまりエルトシャンがシャガールに忠誠を誓う筋合いは全く無く、そして決起も簒奪ではないのだ。
アグストリア諸公連合のうち、現在まともな軍事力としての騎士団を有しているのはノディオン王家である。言い換えれば、ノディオン王家が最大の発言権を有している事になり、それはノディオン王家が盟主の座を主張する正当な根拠なのだ。
にも関わらずエルトシャンはそれを拒み、しかもその根拠として「アグストリアはあと半年後に返還されるのだから」と言う約定を挙げているのだ。
グランベルの役人が続々と赴任して来る現状を鑑みれば、それが極めて“グランベルらしい手”である事は明白である。それを見抜けないのもまた彼だけであろう。それが彼の人の良さ故なのか、単に馬鹿なだけなのかは誰にも分からないのだが。
「グランベルの士官学校は、犬の精神を教えておりましたの?」
もはやここまで来ると完全な八つ当たりであるが、実はラケシスの発言は全面的に正しい。
グランベル王国が周辺諸国の子女の留学の受け入れに開放的なのは、グランベル式の統治方法を教え込む事で、宗主国に対して進んで従属する気にさせようと言う魂胆である。ラケシスの指摘には毒があったが、その通り“犬の精神”を植え付けていると言っても過言ではない。
当時のエルトシャンは留学中、バーハラ王家とそれを支える六公爵家の関係に──グランベルの狙い通りに──深い感銘を受けていた事実がある。
ヴェルダン戦役の際などにはそれが巧い具合に効果を及ぼしていたのだが、皮肉な事に最後の最後で裏目に出てしまったのである。エルトシャンとは士官学校時代に知り合った仲である事も手伝ってか、滅多な事では表情が崩れないシグルドでもこの事実には流石に苦笑いを禁じえなかった。
エルトシャンの愚かしいまでの盲目の忠誠心は、まさに犬そのものだからである。
「……しかし兄君を犬扱いとは、また大胆な意見だ。妹にはよく慕われている、と当時の本人からは聞いていたが」
シグルドは瞬時に口元を直して話を変えたが、これは雑談ではない。
現在のところノディオン王国は二派に分かれている状態である。ラケシスは聡明で覇気もある姫君だが、兄と戦わねばならない可能性を残している以上、全面的に信用するには一抹の不安が残る。だからラケシスの覚悟を聞いておく必要があるのだ。
人物鑑定に優れるシグルドの眼でも、時には見誤まる事がある。親友の欲目で過大評価してしまったエルトシャンが良い例であろう。その事実がある以上、その妹に対しても慎重になってしまうものである。
……そして、シグルドはラケシスに付いても見誤っていた。彼女はシグルドの予想を越えて覇者の才に恵まれていたのだ。それが帰って来た返答で明らかになり、シグルドは彼女への過小評価を修正する必要があった。
「私は側室の子として淋しい思いの幼少期を過ごしておりました。そこに背が高くて顔が良くて優しい兄が突然現れたんですもの、確かに“エルト兄様”とか呼んで一日中ずっと付いて回っていた頃もありました……ですけれど、今となってはその事実は私の人生の、そして兄自身は黒騎士ヘズルの血統であるノディオン王家の最大の汚点と言うものですわ!」

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