丘の南西側、ユングヴィ軍野営地――。
単騎で丘を駆け下りて近付いて来た謎の相手に対し、隊長は威嚇射撃を命じたが、引き返す素振りを見せなかったので、今度は狙うように指示を出して右手を振り上げたその瞬間の出来事だった。
「我はグランベル宰相レプトール! ユングヴィ公に目通り願う!」
“誰一人として近付けるな!”と言う命令が出ていても、その一言を聞いてしまった兵士達は矢をつがえたまま右往左往するしかなかった。
「た、隊長……どうするんですか!?」
「……俺が知るか」
隊長も振り上げた右手のやり場に困って、そのまま頭を掻く事しか出来なかった。
上から命令が出ていても、兵士達に直接の命令を出すのは彼である。いくら威嚇射撃に反応しないとは言え、自分の一存でグランベル宰相をハリネズミにしてしまうかどうかなど、彼の地位で果たせる責任の範囲を大いに逸脱していた。
「宰相閣下! そのまましばしお待ちあれ!」
彼は、遠巻きの雲上人に対してそれ以上近付かない様に告げ、上官の判断を仰ぐ為に走り出した。「自分は“近付けるな!”と言う命令に対して極めて忠実でありました」と上官に言い張る事にしたのである。

――おやおや、宰相閣下も焦っておいでですな。
一方のリングは――結局のところ最上位までたらい回しにされる事になった――その報告を特に驚く事もなく受け取り、にこにこと余裕の表情でレプトールと対峙する事にした。
軍事的な手段での勝算が無い以上、持ち前の弁舌の才に賭けてくる事は充分な予測範囲内であったからだ。
「これはこれは宰相殿自らおいでとは、いったい何事ですかな?」
リングは兵士達よりも前に出たが、それでも割と距離がある。一方のレプトールはそれを見ても一歩たりとも近付いて来なかったので、リングは少し声を張り上げる必要があった。
これは周りの兵士達を対象に出来るようにする為のレプトールの作戦であろうとリングは看破したが、それに対して特に対抗手段を打つつもりも無かった。
――さて、どう来ますかな。
リングは意外にもこの状況を楽しんでいた。と言うよりむしろ、どんな話法を披露してくれるのか心躍らせていたぐらいである。
リングは――肉体的な衰えのせいもあったが――このイザーク遠征にあたって聖弓イチイバルを持って来なかった様に、武の人ではない。彼は小なりとは言えレプトールの様な政治屋であるから、宰相の弁舌の才に対して一種の憧憬があったのだ。
しかしこの場に関して言えば、リングはつい四半日前に丘の頂上でのレプトールの弁舌に感動した時のように観客ではない。本来ならばこんな余裕は保持し得ない筈である。
その理由は、リングは弁舌で勝つつもりが全く無かった故である。そう、たとえ真実を暴かれても一向に構わなかったのだ。
何故ならば、クルト暗殺の報もそしてその首謀者がバイロンである事も既にユングヴィ兵士達の耳に入っていたのだ。
「貴公に問う!」
レプトールがリングよりも更に大きな声で応えて来た。
矢をつがえたままその様子を見守っている兵士達も注目している。どうやら狙い通りにその耳に届いているようだ。
バイロンがイザーク残党の襲撃を手引きした事を――証拠自体はでっち上げとは言え――立証させたぐらいである。その情報をバイロンに流して弑逆を持ちかけたのが誰なのか、調べが付いていてもおかしくはない。
だがリングには、それを暴かれてしかも実際にその証拠を並べられても何の不都合も無かったのだ。
その根拠は、ユングヴィ公であるリングの主君はバーハラ王家であるが、ユングヴィ兵士達の主君もまたそうと言う訳ではないからである。
兵士達にとって見れば、バーハラ王家とユングヴィ公家との両方とも主君であるのだ。
そして、兵士達が実際に禄を食んでいるのはユングヴィ公家である。どう言う理由があろうとも――若干の士気の低下は考えられるとしても――ユングヴィ公家、すなわちリングの命令に従うのは当然の成り行きなのだ。
自分達の主君が王太子暗殺に手を貸していたと言う事実を突き付けられたとしても、兵士達個人にとっては関係の無い、違う世界の話なのである。
それはユングヴィ公家の外での話であり、公家内に関して言えば何の変化も無いのだから。
「バイロンがクルト殿下を弑した事に、貴公が加担していた疑いがある!」
レプトールならばそれに気付かぬ筈が無いであろうが、切羽詰まったせいで余裕が無くなったのだろうとリングは分析した。
――ふむ、宰相殿も焼きが回りましたな。
「いや、そんな恐れ多い事をした憶えなどありませんなぁ」
年齢の割には非常に良く通ったレプトールの声を聞いた兵士達のざわめきをよそに、リングは惚けて答えた。
いくら明るみにされても構わないとは言え、自分から肯定して暴露してしまう必要は無い。かと言ってむきになって否定すると恐らく相手の術中に嵌まるだろう。
別にそれでも問題は特に無かったのだが、どう切り返して非難して来るのか興味があったのだ。
それに対し、レプトールの次の言葉は大いに期待に応えたが、その内容はリングの予想を大幅に裏切った。
「しかし貴公の王家への忠義の心は大陸中に鳴り響いている! そのような疑いは虚偽に相違あるまい!」
それを聞いた兵士達の口からは一斉に大きな安堵の息が漏れた。
究極的に言えば関係の無い話で、末端の自分達までもが反逆者扱いされたりはしないと知っていても、“叛乱軍”と呼称されなくて済むならばその方が良いのは当然である。
「……!?」
一方のリングは予想外の反応に困惑していた。
そしてレプトールは、いったい何のつもりだ、とリングが考える暇すら与えなかった。
「この件に付いて調査した結果、これは潔白である貴公のバイゲリッターと討伐軍とを相食ませる為の、バイロンの奸計だと判明した!」
今度は先ほどより大きな声で、驚愕の声が一斉に挙がった。
「貴公がバイロンと旧きからの友である事は周知の事実である! だからこそ、貴公が加担していると言う、それを逆手に取ったバイロンの狡猾なる罠は真実味があったのだ!」
さらに大きくなった兵士達の次の喚声は、共感を表すものであった。
自分達の主君であるリングと、シアルフィ公バイロンが公私共に仲が良い事は有名である。だから末端の兵士達もクルト暗殺の首謀者がバイロンであると聞いた時に、自分達の主君も一枚噛んでいるのではないか、実際に不安視していたのだ。
そしてその事が再び頭に浮かんだ、まさにその時のレプトールの言である。あぁ、宰相様は同じ考えを持つ御方なんだ、と言う一種の友情めいた共有感が彼らの中を占領した。その言葉を否定する考えが入り込む隙間も無いぐらいに。
「貴公を討伐軍指揮官に任ずる! 直ちにバイゲリッターを率いて、卑劣なる逆賊バイロンを討て!」
「オォーッ!!」
この鬨の声は兵士達のものである。
「閣下! 賊は我らの手で打ち滅ぼしてやりましょう!」
「閣下! 出撃準備は既に整っております!」
「閣下! 何を躊躇っておいでですか!」
真実を暴露する事によって兵士達の士気を削ぎに来る、と言うリングの予測は完全に裏をかかれた格好になった。
レプトールは逆に、自分達の主君が正義の人であり被害者であると位置付ける事によって兵士達を煽ったのだ。その結果、兵士達の士気はリングの意思に反して最高潮に達してしまったのである。
弓騎兵が主力のバイゲリッターが真価を発揮するのは敵軍と距離を置いて整然と隊列を組んでいる時であり、混沌とした戦場に放り込まれると驚くほど脆い。だから未だ参戦していないフリージ軍より先に動きたくはなかったのだが、これだけ士気が高揚してしまっては、もはやそれまで待機するように命じる事など出来そうもない。
……しかもそれどころか、友軍である筈のシアルフィ軍に味方する事すら怪しくなってしまったのである。

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