「閣下……!」
バイロンは幕舎の外から呼びかけてくる兵士の声で目を覚ました。
だが、バイロンの顔には眠りを妨げられた怒りの色は出ていない。
何故ならば、今夜中に突如起こされる事は既に予定として組み込まれていたからである。
――今宵、野営地に旧イザーク王国の残党が斬り込んで来て、王太子クルトが暗殺される。
バイロンは、今夜、この事件が起こる事を知っていた。
何故ならば、密かに警備を薄くさせてそれが成功するように仕向けたのは、他ならぬバイロンなのだからである。
「何事だ……こんな夜更けに?」
半身を起こしながら幕舎の外の声に問い掛けるが、当然ながらこの問いも完全に自演である。
「ク、クルト殿下が……!」
「分かった、すぐに行く」
実際には行っても間に合わないのは知っていたし、間に合わせるつもりも無かった。
だが表面上取り繕う意味で、甲冑を着込む速度は普段よりも速くした。

王太子クルトの幕舎は丘の上にあり、その丘の東西に、四公爵家の軍団が両派閥が別れてそれぞれ野営している。
そして丘の頂上の幕舎の周辺は近衛兵が警備し、さらにそれを囲むように四公爵家から派遣された警備兵が主君を守っていた。
「いよいよですな」
西から丘を駆け上がり、幕舎が見えてきた頃、右後方からそんな声が聞こえて来たので振り向くと、ユングヴィ公リングもまた数名の伴を引き連れて馬を走らせて来ていた。
バイロンは僅かに手綱を引いて愛馬の速度を緩め、リングの真横に並んだ。
「……バイゲリッターをいつでも動かせるようにしておけ」
「分かっておりますぞ」
権謀術数を駆使した謀略戦か。
それとも本当の戦か。
事態がどちらに転ぶか分からないが、明朝以降、そのどちらに突入してもバイロンには一向に構わなかった。
バイロンには王太子が暗殺されると言う事を、事件の発生前から既に知っていた。
リングからこの情報を聞かされてからだから、バイロンの時間的有利は半日程度でしかない。
だが半日しかないとは言え、“半日前から動いている”と言う事の強みは非常に大きい。
極端な話、夜が明けると同時に、王太子暗殺の咎を被せて、まだ無防備であろう反王党派の野営地に攻め込むのも可能なのだ。
「おや、さすがは宰相、もう来ているようですな」
弓使いウルの血統か、リングの目はより遠くを見渡せる。
若い頃は昼間でも星が見えましてな、と自慢していたのは話半分だとしても、この距離から幕舎に群がる人間を識別するなどバイロンには出来ない芸当である。
――ふ、レプトールも御苦労な事だ。
恐らく凶報に飛び起きて、慌てて駆けつけて来たのだろうか。
夜が明けてから、生き残りを掛けた凄惨な闘争が始まると分かっているだろうに、宰相としての任務をこなしている。
こうして端から見ていると忠臣と言う存在の行動は、バイロンからは非常に滑稽に映る。
そう見えるのは、バイロン自身がもはや忠臣ではない証であり、更なる高みへの階段を上り始めた象徴である。
「いかが致した宰相殿!?」
我ながら白々しいな、とバイロンは内心で苦笑した。聞かずとも分かっているし、そもそも仕掛けたのは自分自身なのだから。
とは言え、この場には宰相レプトール以外にも多くの近衛兵がいる。
今後の事を考えれば、ある程度の自演は必須であるに違いない。現に、近衛兵達の視線が自分に集中しているのを感じる。
だが、その声に振り向いたレプトールの反応は、バイロンの予想範囲を大きく逸脱していた。
「バイロン、この大逆者めが!」
「……どういう事だ!?」
――何故知って……看破されたか?
「しらばくれるな! 貴様が手引きしたのであろう!」
「何を言う! 何の証拠があってその様な世迷言を口にするのだ!」
――いや、逆手に取られたのか……!
レプトールは寝耳に水の凶報を、このバイロンの手引きと即座に看破して、先手を打って一気に決着を付けようとしているに違いない、とバイロンは読んだ。
だがバイロンの表情には焦りの色は全く無い。
レプトールの読みは、真実では正解なのだが、事実としては不正解である。
何故ならば、明確な証拠が存在しないからである。
たとえ真実であろうとも、事実としての証拠が存在しない以上、シアルフィ公家軍を討とうと命令しても、兵士達に対してそれだけの強制力を有し得る事はない。
討つ相手が敵国ならばそれで充分だが、シアルフィ公家軍は同じグランベル人なのだから。
現に近衛兵達はバイロンを敵視する事はなく、ただ困惑しているだけである。
「証拠か……おい、連れて来い」
レプトールが従者に対し、小さく顎で促した。
しばらくして、後ろ手に縛られた黒髪の男が連れて来られた。
黒髪から判断すれば、この男は恐らく斬り込んで来たイザーク残党の一人であろう。
「あぁ……復讐は成功したし、仲間も全員死んだから、全部喋ってやるよ」
男は、誰に強制されるでもなく、そう前置きしてから先に語り出した。
「昨日の朝だ……俺達は、グランベル軍の今夜の野営地の場所を記した地図を入手した。そこにいるシアルフィ公の筋から流れてきた物だった」
縛られていて指差す事が出来ない男が、代わりに馬上のバイロンの方を顎で杓るに釣られて、近衛兵達に大きな驚嘆の声が次々に起きた。
「作り話だ!」
それを遮るようにバイロンが叫ぶ。
――地図だと!?
バイロンは、そんな物を流した憶えは全く無い。
ましてや、バイロンがリングからこの襲撃話を聞かされたのは昨日の夕方である。この男が地図を受け取ったのは、そのさらに半日前だと言うのである。
バイロンは右隣にいるリングをちらりと覗いた。その視線に気付いたリングは小さく首を振って、初耳だと密かに答えた。
「最初は罠かと思ったが、俺達はその話を信じた。我らがシャナン殿下を匿ってくれているらしいからな……そして地図も、北側が手薄だって言う話も本物だっ……」
そこまで語った男の首が、もはや不要とばかりに刎ねられた。
「……!」
その瞬間、皆の視線はそこに集中した。その一瞬の隙にバイロンは、その首が地面に転がる前に馬首を巡らして自陣へと駆け出していた。
真実ではないが、事実を立証するには充分過ぎた。
北側の警備が手薄だった事は、注意して調べればすぐに分かるし、今後の事を考えて、イザークのシャナン王子を保護しておくようにと長子シグルドに伝えていたのも事実である。
バイロンの、皆の一瞬の隙を突いた逃亡は、自分が罠に掛けられていた事を悟っての瞬時の判断である。
「大逆者バイロンを逃がすな!」
遠くなった背後からレプトールの声が聞こえる。

ディアドラとセリス。
ユグドラル大陸全土の支配者の座に最も近いバーハラ王家の血族を独占しておきながら、バイロンは政治的勝利の目を一夜にして失った。
王太子暗殺の手引きは立派な大逆罪である。
自陣で待機させているシアルフィ騎士団“グリューンリッター”を動かして、この話が完全に広がってしまう前に軍事的勝利を挙げて無理矢理に屈服させる以外に、バイロンにはもはや生き残る手段は無い。

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